ごめんね、おじいちゃん♪秋保ちゃんは天使♡
自分がこれから行うことは悪いことだ。
後々の自分は、良心の叱責により罪悪感できっと苦しむことになるだろう。
然し――今、目の前にある快楽のために抗えない。
悪いと分かっていながら行う。
それ故に私は屑なのだ。
秋保はひとり、自嘲の笑みをもらした。
「……ごめんね、おじいちゃん。」
目には慈しみを込めて、手には憎しみを込めて。
秋保は目の前の、ベッドに横たわる老人に手を振り上げた。
「……ヒュッ……」
皺がれた老人の小さな呻き声は、人知れず空気に溶けていった。
***
「へぇー、あきちゃん優しいねぇ、……僕だったらあんなジジイ頼まれたって今は会ってやらないのに。まぁ、……どうせそのうち僕らはあっちで落ち合うだろうけどね。ははっ。」
そう言って雲雀はニヤリと笑った。
「もう、そんなこと言わないでよ……」
秋保は困ったように病衣を纏った雲雀を見つめた。
(まったく、ざまぁないね……!)
あの耄碌爺の無様な最期を聞くまでは、絶対に生きてやると、雲雀は人知れず決意を固めた。
このジジイとは、他ならぬ秋保と雲雀の祖父である。
爺さんは親族から大変忌嫌われていた。
秋保も雲雀もこの爺には碌な思い出はなかった。
正月に爺さんの家を訪れる時には二人にとって緊張感を持つものとなった。
それは、二人を含めた親族一同もそうであった。
癇癪持ちで、口を開けば怒鳴り散らすジジイなど誰が好くだろうか。
悔しいことに金だけはたんまり蓄え、援助を餌に人をいいように使っては、
「えっ?わしはあんたが善意でやってくれたと思ったのに、奴っこさんはそんな邪な気持ちだったのかい?」
と嫌らしい笑みを浮かべてほざくのである。
気まぐれか爺は、
雲雀のお見舞いに一度訪れたには訪れたが――。
「まぁ、お前はもう十分生きただろ、おい!な?」
雲雀と顔を合わせるや否やそんなこと言ったため、
これは雲雀の両親を激怒させた。
だが、そんな爺にも役に立つ面があった。
何しろこの一族は爺憎さで団結し、嫁いびりもなければ兄弟みな手を繋ぐ関係だったのだ。
何か親族間で問題があれば、とりあえず全部爺さんが悪いということにして戦犯探しをすることもなければ、いがみ合うこともなかった。
話題がなければ、みな爺の愚痴を言って各々の鬱憤を話し、また、大いに楽しんでひとしきり笑うのであった。
秋保と雲雀も先ほどまではテレビのお笑い芸人や、タレントの不倫、最近流行りのアニメなどについて、極めて健全なことを語り合っていたのだが、次第に話題がなくなった。
「やあ、やあ、あきちゃん、ところで僕らの愛しのあの人は元気かい?」
そろそろ、いつものお決まりの爺の悪口へと移るべきだろうと雲雀から話を持ち出したのであった。
ことを辿れば1年前――。
爺が呆けた。
半ボケだ。
中途半端に正気。
そして、身体は元気、超動く。
これは親族を震撼させた。
当然、施設に収まってもらおうと意見はまとまった。
けれど、今の御時世そう都合良く老人ホームに空きはない。
その上、爺の干からびた脳は呆けてるにしてはまともに働く時間が結構あった。
己のプライドからか全身全霊で施設行きを拒否し、また、訪問ヘルパーが来るなりいきりたって威嚇した。
可哀想なのは、祖母である。
もう十分、この男の伴侶として苦しめられたのにこれから更に苦しめられるのか。
みんなおばあちゃんが可哀想だと思った。
でも、それ以上に関わりたくはない。
あの爺さんなら面倒みたところで、遺産など残さず、自分の供養につぎ込むよう決めているに違いない。
息子達は誰も、父も母をも助けようとはしなかった。
だが、天使は舞い降りた。
秋保が自ら、憐れな祖母を助け邪悪なる爺の身を清め、水を与え、世話をし、爺からの叱咤を甘受すると名乗り出たのだ。
雲雀ははじめにその話を聞いた時には、
「策士だね、君さ。日頃のうっかりさんにかこつけて奴を葬るんだろ?」
と、期待しながら問い詰めたものである。
秋保は応える代わりにちょっぴり舌を出した。
――という訳で天使な秋保は広大な爺の家で婆を含めて三人で暮らして、そこから通学していた。
秋保は爺がどう弱っていくのか、その課程を熱心に研究して経過報告を雲雀に伝えた。
「私がみかん食べさせてあげたらね、おじいちゃんね、いきなり楽しくなっちゃったみたい。わちゃわちゃ〜って、手足動かし出したの。もしかしたら苦しかったのかもね。」
「それで、爺さんどうしたの?ひょっとしてそのままあっちに行きかけたんじゃない?」
雲雀は痩せて尖った顎を触りながら、目をきらきら輝かせた。
この御病人は身体はまるっきり動かないのだが、頭はぜんぜん元気で、ひょっとしたらお天気で、
辛辣に爺を批判しては、秋保から聞いた悍ましい爺の様子を頭の中で散々誇張して想像し、
スリラー映画でも見るようなおどろおどろしい気持ちで楽しんでいた。
秋保はあまり彼を興奮させてはいけないとは分かっていたものの、この強い喜びを雲雀と共有したいという要求に駆られ――遂には負け、雲雀の耳元で囁いた。
「おじいちゃん、すっごい鼻提灯垂らしてね、そいでほっぺ、みかんでプック〜だったの!ハムスターみたいだった!」
秋保は戯けて頰を膨らませた。
想像通り雲雀は目に涙を浮かべて笑った。
「ふふっ……ひっ……ひひっ。」
秋保はそれに調子を良くし、笑いのスパイスをさらに足した。
「ぽわ〜ん、ぽわ〜ん、ピュー!と舞い落ちましては、私はびっくら仰天!あちゃっちゃちゃっ……!」
秋保は身ぶり手ぶりを交えて、爺の聖なる淡黄色の黄金の鼻水が、きらきらと空に舞っては柔らかな春の霧雨の如く秋保に降り注いだ悲劇的な場面を演じてみせた。
雲雀は喜んだ。
「きったね!ふふっ…わっ…ははははっ。」
笑いながら、彼の身体の骨が軋むようになり、
だんだんと笑いの勢いは増してゆき、眉を潜め、終いには激しい咳の発作となって雲雀を襲った。
「ぐっ……げっ……ゴボッ…ゴッ…」
「ちょっ……ごめん!?大丈夫……!?」
秋保が慌てて、背中を優しく擦ってやったが、発作は収まらず、結局ナースコールを押すことになった。
「おんどれ……ジジイ……」
ようやく、発作は収まったが、雲雀はぐったりとベッドに沈んだ。
どうやら、彼はこれで一日分のエネルギーを使い込んでしまったらしい。
くだらない爺の為になんてことだと、雲雀は天井を睨んだ。
不意に自身のこの状況が情けなくなったのか、雲雀は目を閉じると、秋保から身体を反対側にそっぽ向けた。
「……悪いけど、今日もう……帰って……」
秋保はそう言われ、病室を後にした。
これが二人の最期の面と向かっての会話となった。
それきり秋保は病室を訪れなかった。
いや、訪れようにもできなかった。
何しろ、彼女は雲雀には到底言えない大罪を働くのである。
幸運にも、現在に至るまでその罪はバレていない。
だが、その事件が彼女の精神に多大なる影響を与え、秋保自身に自分は普通ではないと信じ込ませ、今日まで彼女を苦しめることとなった。
その話をとくとご覧入れよう。




