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山岡の乱前夜(13)コンクール・カタストロフ

音楽教諭、阿久津恵はパンと手を叩いた。

生徒達が一斉に彼女を見る。


「……はい、じゃあみんな並んで。」


「これから、みんなに楽譜を配ります。みんな楽譜を見ながら一番の歌詞だけ声を出してみましょう。水嶋さん、ピアノ早速弾いてみて?」


 生徒達は阿久津の指示で、

横10人ずつ前後に1メートル、隣に50センチ程程間隔を開けて。

三列にぞろぞろと並ばされた。  


瑠璃子と雲雀は正面から見て、

二列目の左端に仲良く並んでいた。


雲雀が隅っこで瑠璃子はその隣にいる。


 与えられた楽譜を見ながら各々口ずさんでいく。

みんなまだ、音程どころか歌詞すら覚えて居ない。

 俯きながらボソボソ口先を動かしていた。

 

一方、瑠璃子はどうだろう?

 雲雀は不安だった。

 瑠璃子の歌がいかに悍ましく酷いか知っていた。

 あの末期の患者の呻きのごとき歌声がいつぞ漏れるかびくびく怯えていた。

 (もし、神谷さんの音痴がみんなに知れ渡ったたら……)

 そう考えるだけで、雲雀はまるで自分が辱められたように顔を赤くした。


 もはや雲雀は歌を歌うどころではない。

 先程からずっと横目で、自身の隣に並んだ瑠璃子の顔をチラチラ見ていた。

 

当の本人の瑠璃子は真っ直ぐ前を見ていた。

 手持ちの楽譜など見る素振りもない。

 

ピンと背筋を伸ばし、その口は大きく開いている。

表情にも恐れがまったくない。

 

堂々たる脚立し、お目麗しく見事な立ち振る舞い。

 その姿さながら、百戦錬磨の勇士のよう。

 

いったいなぜ、彼女はこんな芸当ができるのだろう?

 その秘密は――

彼女は一切声を出していない。

つまるところ口パク。


 見せかけだけの美しさ。

 はじめからてんで歌う気などなければ、

 歌詞を覚える必要もない。


 勇敢にも、愚かにも、彼女はこの合唱コンクールを口パクだけで乗り切ろうとしていたのだ。


 阿久津女史は並んで歌っている生徒達を、椅子に座りながらジロジロ見ていた。


 阿久津の表情は酷く沈んでいる。

 長いまつ毛が縁取られた黒目は泥のように濁っていた。


彼女の脳内には誤魔化しきれない鬱憤が詰まっていた。


どうしたって、今自分の目の前にいるのがドレスコードに身を包んだ紳士淑女ではなく、汚らしい鼻垂れの群れなのだろうか。


 どうして、自分が今いる場所が格調高いコンサートホールでなければ、狭くてエアコンすらない教室なのだろうか。


考えると、阿久津は目に涙が浮かびそうになる。


 子供達の稚拙な歌声。

 リズムがちゃらんぽらんのピアノの音。

 阿久津は耳を切り落としたくなる衝動に駆られた。

 

 紅いグロスがテカテカ光る唇に、阿久津キュッと歯を当てる。


 時折、顔にかかった黒髪を払い除けながら、その歌声に耳を傾けていた。


 


 突然、彼女は立ち上がった。

一人の生徒が目についたからだ。

それは、瑠璃子ではなかった。


ちょうど、瑠璃子の顔は前にいた山岡の樽のような巨体に隠されていたのだ。


阿久津は眉を潜めた。

怒りでこめかみが震えた。

その生徒に対する憤怒の心が湧き上がる。


――ガキの癖に色気づきやがって!!


――先程から隣の雌ガキの顔ばかり見てまるで口が動いていない!!


――まったく教師を馬鹿にしていやがる!!


――そうだ、みんなの前に吊るし上げて怒鳴りつけてやれ!!


――そうすればきっとあの小僧、情けなく咽び泣く。


妙案だ。

そう思って、

阿久津は

コツコツとハイヒールの音を鳴らしながら生徒達に近づく。


 

そうして、

ひとりひとり、

じっくり生徒達の顔を覗き見る。

真っ先に雲雀の方には行かなかった。


わざとだ。

すぐに雲雀を吊るし上げても面白くはない。

ゆっくり焦らしてから、一気に吊るし上げるのだ。


生徒達は阿久津に近づかれると、身を固くした。


感覚の鈍い雲雀は、まだ瑠璃子に気を取られて敵対者に気がつかない。


そうして――終に、雲雀の番がきた。


阿久津はコツリコツリ寄りて見るに、

背後から雲雀の顔を覗きこんだ。


(ひっ……!?)

ようやく阿久津の存在に気がついた雲雀。

彼のような男は、自然界ではきっと生き残れない。

気がついたが時には既に、捕食者に牙をかけられているのだ。


雲雀はこれまでの怠惰を取り戻し、自身の真面目を証明しようと必死に口を動かした。


歌詞を何度も噛んだり、間違え、とにかく元気に声を出すことに集中したもんだから、雲雀は課題曲の美しく閑静な雰囲気を尽く破壊たらしめんとした。


阿久津はそのパフォーマンスに、尚更不快になった。


雲雀は心臓をバクバクさせながら、阿久津が早く去るのを祈った。


雲雀はチラッと楽譜から顔を上げると、頭から血の気が引いた。


阿久津の顔が近い。

阿久津は意図的に彼のパーソナルスペースを犯していた。


美しい女教師――。

彼女の姿は雲雀の母よりも老けて見えた。

 

阿久津が口を開いた。


花の蜜と排泄物を煮詰めたような吐き気を催す甘い香りが

雲雀の鼻を突き刺す。


雲雀は泣きたくなった。


阿久津が雲雀を怒鳴りつけてやろうとしたその時――。


阿久津は隣の女子生徒に気がついた。

阿久津の目は大きく開かれた。


――その姿まるで、ドブ川に咲いた一輪の花。


なんと模範的な歌い方だろう。

おまけにその女子生徒、一度も楽譜を見ていないじゃないか。


家であらかじめ予習してきたと見える。

阿久津の目には柔い光が浮かんだ。


しかし、悔しいかな彼女の歌声が阿久津には聞こえない。


きっと、小鳥のように可憐な歌声なのだろう。

声量こそ足りぬが、美しい声に違いない。


阿久津の胸は期待に膨らんだ。

一先ずは彼女の歌声を聴かなければ、そのためには周りの雑音を排除しなければ、阿久津はそう決心した。


もう既に、阿久津は雲雀のことなど忘れていた。


 

「……止まって。みんな口を閉じて。」


「伴奏……水嶋さんも一回ストップ。」


阿久津はパンと手を叩いた。

乾いた音が空気を切り裂く。

みんな楽譜から顔を上げ、一斉に教師を見た。


阿久津は穏やかに微笑みながら瑠璃子を見た。

猫なで声で語りかける。


「……神谷さん。貴方は閉じなくていいの。」


瑠璃子の全身が強張った。

「……はい?」


「神谷さん、こちらにいらっしゃいな。」

親しげに瑠璃子を手招きする。


「他のみんなはその場に座って。」

生徒達は一斉に地べたに座った。


山岡の腰巾着三人、丸メガネ、ヒロピッピ、高橋が仲良く小突きあってクスクス笑う。

山岡は一瞬口元を歪めたが、すぐに真顔に戻った。

山岡は神妙な顔で瑠璃子を見つめていた。


「じゃあ、神谷さんここでさっきのところを歌ってごらん?」


「えっ……」


(神谷さん……!)

雲雀は胸の動悸が苦しくなるのを感じた。


雲雀の顔は病身のように青白くなり、肩が小刻みに震える。


瑠璃子が雲雀の方を見た。

その目に浮かぶは絶望。

雲雀はただ目を瞑って俯いた。


「……どうしたの?はやく歌ってごらんなさいな。」

阿久津はなかなか歌わない瑠璃子に苛立ちはじめた。


「えっ……あ、……はい。」 

おぉ、哀れな瑠璃子を救い給え。

生徒達の視線は一斉に気の毒な同級生に注がれる。


瑠璃子にもはや逃れる術なし。

盛大に爆せて死するのみ。

瑠璃子は俯いて楽譜を見た。

楽譜の文字がぐにゃぐにゃ歪んで嘲る。

楽譜を掴んだ手がガクガク震えた


瑠璃子は観念して最初の歌詞を歌い始めた――。 





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