山岡の乱前夜(10)夕餉に名を託して
「……ははっ、終に来ちまったね。」
「うん………うん……、」
足音が近づくたび、瑠璃子、雲雀の二人は
ぎゅうぎゅうと身を寄せ合う。
雲雀は服越しに瑠璃子の汗ばんだ体温を受け取った。
暗い通路の中から、白い足、ついで顔が浮かぶ。
木格子を隔てて老婆の姿が明らかになった。
よしこは瑠璃子には一瞥もくれず、真っ先に雲雀を見て萎んだ口を開けた。
「………あんた、悪い子だね。」
「人ん家を勝手にほっつき回っちゃ駄目じゃないか。」
よしこは皺くちゃな顔に眉を寄せさらにくちゃくちゃにして鋭い眼つきをした。
口調は柔らかいが、雲雀には言葉の節々に刺すような毒を感じられた。
「ご、ごめんなさい………」
よしこに睨まれ、
雲雀の全身は氷のように硬直した。
「……ふっ」
よしこは軽い息を口からは漏らすと、口元を釣り上げた。
「いったいどう料理しようかねぇ〜?」
「ご……ごめんなさい、ごめんなさい……!!」
雲雀はぷるぷる震えながら、
必死に赦しを乞う。
「……なぁんて、冗談だよ。」
「どうせ瑠璃子があたしのこと鬼婆とかなんだと言ったんだろう?」
そう言ってチラチラ瑠璃子に視線をやる。
「やだね、この子この頃何でも過剰に話しちゃうもんでさ。」
「こんなしょぼくれた婆さんに一体何ができるってんだい。あたしからしたらあんたらの方が怖いよ。」
「……よく言うよ。」
瑠璃子は俯きながら呟いた。
そのしょぼく婆さんには少なくとも孫を引きずり回して、牢にぶち込む力はあるのだ。
「雲雀ちゃん?」
「は、はい。」
「お母さん、家に迎えにくるのもうちょい遅れるって。」
「えっ………」
よしこの言葉には雲雀を絶望させるのに充分な響きを持っていた。
雲雀は泣きそうな顔で目を瞬かせた。
「そんなに家が嫌かい、それともあたしが怖いんかね?」
「………んぅ……う」
雲雀は言葉にならない呻き声を漏らした。
「別に取って食ったりしないよ。勝手にここ入ったのも怒っていないさ。」
「ささ、夕飯の時間だよ二人ともここから出て居間においで。」
「雲雀ちゃん、お母さんにはちゃんと許可とってるからね。」
その言葉に瑠璃子と雲雀は顔を見合わせ。
***
雲雀の目の前の机には
一汁三菜がきちんと並んでいた。
主食のご飯はふっくら盛られ、主菜の天ぷらは
金の衣をたっぷり纏っている。
夏野菜の味噌汁に、野菜の胡麻和えを加えて。
どれも品の良い皿に丁寧に盛り付けられていた。
雲雀は緊張しながら海老の天ぷらを口に含んだ。
(あ……美味しい……)
海老はプリプリ甘く、衣もサクッと効いている。抹茶塩の塩気も絶妙である。
雲雀は噛みながら、恐怖心がほぐれてゆくのを感じた。
雲雀の傍らにいる瑠璃子も天ぷらを口いっぱいに頬張っていた。
みんな黙々と口を動かす。
テレビの音だけが気まずさを和らげた。
「……瑠璃子?」
不意によしこが声をかけた。
「……なんだ?」
その姿さながら齧歯類。
瑠璃子はもぐもぐと口を膨らませていた。
「もう反省したかい?」
「あぁ。確かに雲雀君を蹴ろうとしたこと、か弱い老人に手を挙げたのは私が悪かった。学校勝手に帰って先生にも済まなかったね。」
「ごめんなさい。」
「ちゃんと考えたんなら、あたしは満足だよ。」
「ただ………、」
「……ただ?なんだい言ってごらん?」
「……『合唱コンクールの実行委員に、私がなるって言った。』って先生に報告したのは納得いかない。」
「私が当てつけに死んでやるって言ったけど……死んだらそれまでの子だった……みたいな意味のこと言ったのも気に食わない。」
「はて?そんなこと言ったけね?」
「よしこ!!とぼけるんじゃないよ!!」
「このところ痴呆ぎみでね。悪いね。」
二人のやりとりを横目に、雲雀はナスの天ぷらを味わっていた。
(こんなやり取りができるなら、案外仲良いのかな……)
(あ、……ナスが一番好きかも……)
そんなこと考えながら、まるで蚊帳の外である。
だが、いきなり瑠璃子が雲雀の方を向いた。
「いい!?ここにいる雲雀君はきっと私の証人になってくれるんだ!!」
「聞いてたよなぁ……!雲雀……!?」
突然話を振られて混乱した雲雀は、急いで
口の中のものを飲み込んだ。
「あっ……えっと……うん……。」
「はぁ………?」
よしこ婆は大げさにため息をつくと、わざとらしく肩をすくめた。
「……じゃなんだい、瑠璃子あんた今さら先生に『家の婆が呆けて嘘ほざきました。』とでも言うのかい?」
「……必要とあらばね。」
瑠璃子はハチガイの天ぷらの目玉に箸を突き刺した。
「可哀想に、先生あんなに喜んでたのにねぇ……?」
よしこ婆の瞳がギラついた。
「……ふん。」
瑠璃子は味噌汁をかきこんだ。
いくら口で婆に抗おうが無駄であることを瑠璃子は知っていた。
よしこが実権を握り限り最後には必ず屈服させられてしまう。
熱い汁と一緒に鬱憤さえも腹の中に収めた。
「……いや、やるよ。」
「よくぞ言った。」
よしこは満足気にウンウン頷く。
「この雲雀君と二人でね……」
「へっ……!?」
雲雀は素っ頓狂な声を上げた。
「私を助けてくれるんでしょ……?」
「う……うん……」
雲雀は少なからず、よしこに実行委員について伝えたことの責任を感じていたのでやむなく頷いた。
「瑠璃子、」
「ん?」
「あたしの顔を立ててくれたあかつきには、今度生まれてくる赤ちゃん――あんたの妹の命名権を譲ろう。」
「い、いいの!?」
瑠璃子の目は大きく開き、
その声は興奮で震えていた。
「勿論。あたしに二言はない。」
「はっ……!」
瑠璃子はパッと顔を上げ、輝くばかりの笑顔を雲雀に向けた。
雲雀は瑠璃子にぎこちのない笑みを返した。
(………そんな重大なもの、おばあちゃんは勝手にあげていいのか?)
雲雀は両親を差し置いて、妹への命名権をよしこが勝手に瑠璃子に与えることが疑問だった。
その人の人生を左右する名前を、まだほんの子どもに決めさせて良いのだろうか。
しかし、瑠璃子は物の道理を子どもにしては弁えてはいる。
そう変な名前も付けぬ信頼があるのだろうと、雲雀は無理やり納得した。
命名権すらも自身の気まぐれで与えられることが、
よしこの女帝ぶりを示しているのではいか。
雲雀はよしこが神谷家において、絶対君主であることを実感した。
雲雀は食器の中の料理をきちんと胃袋に納めた。
「おばあちゃん、ごちそうさまでした。……お皿どうすれば良いですか……?」
雲雀が皿を下げようと重ねだす。
しかし、よしこがそれを制した。
「いいよ、そのまま置いといて。」
「……よしこ、私が雲雀君の分も洗うよ。」
瑠璃子がおずおずと申し出た。
「いんだよ、あんた。友達来てんだから話してな。私があんた達分も片付けるよ。」
そう言うとよしこは快活に笑い出し、
皿を盆に乗せ一人片付けを始めた。
よしこが台所に皿を運びに姿を消した時。
「……優しいね。」
思わず雲雀は声を漏らした。
それに対して、
瑠璃子は軽く肩を落とした。
「………そうなの、だから嫌いにさせてくれない。」
***
よしこが夕飯の片付けをする中、
瑠璃子と雲雀は肩を並べて、ぼんやりテレビの明かりを眺める。
お互いに相手が口を開くのを待っていた。
暫くして、瑠璃子が口を開いた。
「……決めた。私腹を括るよ。」
「よしこの魂胆に乗るのも腹立たしいけどね……、」
「それに、山岡にも怨みを返さなきゃいけない。」
「山岡――あの男はみんなの前で私が辱めを受けるのを期待してるんだ。」
「絶対に私は山岡の思い通りになんかなるもんか!それに、合唱コンクールのせいで夏祭りを台無しにしたくないしね。」
補足すると、
瑠璃子達小学生の合唱コンクールは、夏祭りの演目に含まれているのだ。
「だから、雲雀お願い協力して!!」
「あんた頭良いでしょ?一緒に一年生の合唱をできる限り最高にしよう!!」
瑠璃子は雲雀に手を差し伸ばした。
「うん……!協力する!!」
雲雀は力強く瑠璃子の手を握った。
***
ようやく迎えに来た母に連れられ、雲雀は家路を歩いた。
夜の帷が降り辺りは真っ暗だが、空は晴れ星や月がよく見えた。
夏の大三角が悠然と空高く輝く。
母は微笑みながら息子に声をかけた。
「雲雀、何か良い顔。瑠璃子ちゃんと仲良くなれた?」
「うん!!」
雲雀は元気よく頷いた。
背中のランドセルも今は軽く感じられた。
***
一人の男が夜空を見つめていた。
彼の目には夜空に白く光るベガがはっきり映し出されていた。
「オルフェウスは美しい音楽で冥界を魅了したが、我らの合唱はこの街を魅了するかな……もっとも、文字通り冥土に変えちまうかもしれねぇが……」
男――いや、まだほんの小僧は、
窓にもたれ掛かりながら空を仰ぐ。
小僧の右耳には、赤鉛筆がかけられていた。
左手には画用紙程の大きさの紙が握られている。
右手には赤褐色の液体が揺らめく瓶をくゆらせ、口に含んだ。
口の中でパチパチと泡が弾け、清涼な甘みが広がる。
「……さて、瑠璃子はきっとあの婆さんに叱られたかな。」
「……婆さんに事実が知られたらあの性格状実行委員になるのは免れないな。」
「明日のあいつの面が楽しみだ。」
「おっと……俺のほうでも準備をしねぇと……」
小僧はコーラの瓶を窓枠に置くと、耳にかけた赤鉛筆を手に握る。
左手に握られた紙には鉛筆で小学校を中心とした近隣の家並みが書き込まれていた。
それは自作の地図であった。
「この辺りの家畜小屋の目星はおおよそつけたな……。」
「明日の放課後は奴らをつれて下見でもするか。」
そう言うと、口元を不適に歪めた。
その小僧――山岡は地図に色鉛筆で一つ赤い印をつけ加えると、パタンと閉じた。




