山岡の乱前夜(3) 婆出没
チャイムを鳴らして、雲雀は落ち着きなくキョロキョロ辺りを見回した。
なんせ彼が瑠璃子の家の敷地内に足を踏み入れたのは今日が初である。家の場所は口添えであらかじめ教えられていた。
(居ないのかな……教科書どうしよう……)
憐れ、主人によって捨て置かれた教科書達は雲雀のランドセルにぎゅうぎゅう肩を寄せ会っている。
ザワザワと雲雀の胸の鼓動が騒がしく脈打った。
三十秒ほど経った――人がくるような気配はない。
(こない……?)
再びチャイムを押したが、依然人の気配はない。
雲雀は濁ったガラス扉を覗き込むようにして家の中の様子をうかがった。
ガラス戸には雷光が走ったようなヒビ割れが刻まれている。
ところどころガムテープによる修繕の努力が見られた。
ガラス越しに覗いた家の中はどんよりとした闇が広がっていた。
(車無かったし……親は多分仕事だよね……?)
(ひょっとして、今日のことで先生に親同伴で呼び出されてるとか……?)
5分程待ったが、やはり来ない。
軽く肩を降ろすと雲雀は玄関から背を向けた。
見上げた空は完全に濁った灰色に染まった。
湿った生っぽい匂いが辺りに漂う。
雨がぽつりぽつりと地面の色を変え始めた。
(どうしよう……傘持ってきてないんだよね……)
雲雀は軽く小走りになりながら駆け出した。
神谷家の庭はやたら広い、小さな公園ほどある。
もはや、家が主というより庭の付属品だ。
人の手を介さない自然美により、庭には熱暑で育まれた草花が無造作繁栄極めている。
走りながら、濡れた草が雲雀の足をチクチクと刺す。不快な痒みを感じながら雲雀は門口を目指した。
門の直ぐそばまで来たとき、視界の隅に何かが映った。
雲雀は
ピタリと足を止めた。
(……今の?)
周囲を注意深く見渡す。
ふと、背の高い高木の隣にひっそりと置かれた物置小屋から何かの気配がした。
凝視すると、扉から何かがチラチラこちらを覗いているのに雲雀は気がついた。
サッと視線を向けると、その主は隠れた。
雲雀は恐る恐る物置き小屋に歩みよった。
扉の隙間を除くと――いた。
瑠璃子がいた。
「――神谷さん!?」
雲雀は勢いよく扉を開けた。
「う゛ぁ゛ぁあ!?」
瑠璃子は素っ頓狂な声を上げ仰け反った。
しばし見つめ合った後、瑠璃子は口を開いた。
「……なんで、あんたがいるの?」
森の散歩中、熊にでも出くわしたような驚きと恐怖で瑠璃子の顔は引きつっていた。
瑠璃子の様子に雲雀も何だか身が固くなる。
「いや……連絡帳とか届けにきてて……」
雲雀はランドセルを降ろすと、中から連絡帳や教科書類を取り出して差し出す。
「……はい。逃げる時忘れていったでしょ」
紳士たる雲雀は、細やかな言葉添えも忘れ無かった。
「………っ」
瑠璃子はそれを半場ひったくるようにして雲雀から教科書を奪いとり、ギロリ彼を睨みつけた。
「な!?」
これには雲雀もカチンときた。
(なんだ今の態度!?)
せっかく届けてやったのに、礼が言えなんだこの女。
額に縦ジワがよった。
再び両者に気まずい沈黙が走った。
「…………じゃあ、僕帰るから。」
今度は口を開いたのは雲雀だった。
むくれっ面で瑠璃子から背を向けようとした時――。
「おーい、私が帰ったよ。」
「なんだ、誰も出迎えないのかい?」
門戸が開く音と、男とも女ともつかぬ老人の嗄れた声が響いた。
その声が聴こえた瞬間、雲雀は後ろから凄い力で物置小屋の中に引きずり込まれた。
雲雀はよろけた。
そのまま、瑠璃子に重なるようにしてケツから倒れこんだ。
同時に物置小屋の扉が僅かな隙間を残して閉められた。
「……んぐ……!?」
何か言おうとすると、素早く瑠璃子に口を塞がれた。
「……喋らないで」
小声でヒソヒソと囁かれる。
触れた瑠璃子の手は熱かった。
ほんのり汗ばんでもいる。
布越しの体温も熱い。
暑く汗ばんだ肌が触れているのに気づくと、雲雀の胸のビートが脈打った。
耳の先もほんのり赤くなる。
(……っ!??)
瑠璃子からはなぜだがスイカの匂いがした。
埃っぽい臭いに交じって、夏の匂いが漂う。
異様な空間だった。
小屋の中は湿気を孕んでむせ返るような熱気。さっそう茹で上がってしまいそうである。
(いったい……どれくらいここにいたんだろう……)
ちょっと入っただけで、この地獄なのだ。
もし、学校を抜け出してからずっとここにいたのだとしたら凄まじい精神力だ。
(てゆうか、何でわざわざここにいるの……!?)
自らこんな苦行に耐えるなんて、熱心な僧か変態性欲者だ。
どちらでもないノーマルな彼としては、いち早く抜け出したかった。
暑いのに加え、
虫に刺されたのか肌がむず痒い。
雲雀の鼻腔を塵埃がくすぐり、くしゃみがこみ上げてきた。
「はっ……はっ……」
物置きの外から届く音は草を踏んづけるグシャグシャとした音と幽かな雨音、老人の嗄れ声だけであった。
「まったく……やんなっちまう。こんな時に限って……。」
「孝行がなってないねぇ……。」
先程からブツブツと老人が呟いている。
老人の声が近づくにつれ、瑠璃子の雲雀の口を押さえる力は強くなった。
「はっ……はっ……」
必死に飲み込もうと試みたが、込み上がるくしゃみはやがて堪えるほど威力を増し、ミサイルの如く飛び出した。
――ハギュグショッ……!!
瑠璃子は驚いて手を離した。
くしゃみと一緒に唾が飛び散り唾が霧のように舞う、衝撃で鼻水もほんの少し出たのを雲雀はバレないように啜った。
「ちょっと!!あんた何してんの!?」
鋭い声が飛ぶ。
瑠璃子は怒っているというよりも怯えているようであった。
外の足音は、すぐ目の前に迫っていた。
「ご、ごめん……」
雲雀も小声で謝ったその瞬間――。
「おや、誰かいるのかい?」
老人の草を踏む足音が、ピタリと止まった。
扉越しの目の前にいる。
扉のすぐ向こう、老人の茶色い肌が見える。
ニヤリと緩んだ口元も――。
物置小屋に緊張が走った。
――バッ…!!
老人は勢いよく扉を開けた。
遂に老人の全身が顕になる。
それは小さな老婆だった。
長い白髪は綺麗に後に結われ、銀糸のように揺らめく。
婆の鼻の頭には大きなほくろがあった。
身に纏った青い小花柄のシャツは、濡れて肩で色を変えている。
「アッハッハッハ!!」
老人は大声で陽気に笑った。
小さな身体からは想像がつかぬ程の大声。
口から白い歯が覗いた。
だが、次の言葉は氷の如く冷たかった。
「何してるんだい、あんた達。」
巨峰のような黒い目が二人を突き刺した。
「くそっ……!」
瑠璃子の手は小刻みに震える。
彼女の額を流るる汗は、暑さのせいなのか恐怖のせいなのか判別がつかない。
雲雀の心臓も、瑠璃子に吊られて一段とうるさくなった。
空も堪えていた咳を、ついにぶちまけたように、雨が地を打ち始めた。




