夜の置き土産
「いってらっしゃい。今日の晩ごはん、雲雀の好きなハンバーグだからね。」
そう言って雲雀の母は、息子のシャツの襟元を整え、頭を優しく撫でつけながら黄色の帽子を被せた。
「……うん。いってきます。」
いつまでも子供扱いされるのが近頃恥ずかしく思えるが、何分甘えたな根性なため、母の手を振り払えずにいた。
母に見送られながら雲雀は学校へと向かった。
爽やかな初夏の朝。
まだ冷気の名残りを帯びた風が雲雀の頰をなぞる。
木々の若葉が陽を受けて青々と透け、風に揺れながら小鳥の囀りをそっと押し返していた。
初々しい新緑の柔らかな青と鶯の歌声を感じながら雲雀は道を進んだ。
(今日は何だか良いことがありそう…!!)
そんな思いを胸に秘める。
田んぼ道に差し掛かった時、雲雀の前を進む
揺れるおさげ髪をなびかせて首にタオルを引っ掛けた少女の姿が目に入った。
「あ!神谷さん!」
雲雀は瑠璃子の姿を捉え、早足で駆け寄った。
「おはよう!今日早いね。」
「…おはよう、今日はなんか早く起きた。」
しばらく、特に会話らしい会話もなく黙々と歩いていく。
歩いていると、雲雀と瑠璃子の前を何人かの女の子達がきゃあきゃあと小鳥のように話ながら通り過ぎていく。
その中には水嶋マリアの姿もあった。
瑠璃子は呆然と遠ざかっていくマリアの背を見つめていた。
(神谷さんは、水嶋さんのことどう思ってるんだろう?)
瑠璃子の方が一方的に友達だと思っているのなら余りに切ない。
雲雀はこの間のマリアから瑠璃子に対する辛辣な評価を聞いていたため、聞くのが少し憚られたが口を開いた。
「……神谷さんは、水嶋さんと仲良いいの?」
「水嶋さん?」
瑠璃子はぽかんと口を開けた。
まるでそんな奴知らないとでも言いたげな顔である。
その様子に雲雀は驚いて声を大きくした。
「えっ!?よく一緒にいる水嶋マリアさんだよ!ほら、さっきの三つ編みの!!」
「あ~、あの子マリアって言うんだ。かわいい名前だね。」
「ええっ!?今まで分かんないで一緒にいたの!?」
「うん。」
その瑠璃子の返答に雲雀は何だか嫌な予感がした。
「……じゃあ、僕の名前ってわかる?」
「わかんない。」
胸の奥にひやりとした物が落ちる。
一ヶ月分の言葉のやり取りが、まるで透明な泡のように弾けて消えてゆくように感じた。
「…………」
数秒の間の後、雲雀は声を絞り出した。
その声は僅かに悲しみに震えていた。
「……そっか、風見雲雀だよ、じゃあ今覚えてね……」
「うん。」
瑠璃子は顔は果たしてわかっているのか、いないのかぼんやりとしていた。
「…ねぇ、ところで昨日図書室で調べたの覚えてる?」
「うん。いっぱい本読んで表現とか調べた。」
「じゃあ、昨日学んだことでこれから見えたもの、なんでも良いから説明してみて。」
「……考えるから。ちょっと待ってて。」
瑠璃子がウンウンと唸っているのを雲雀は意地悪気な笑みを浮かべながら見つめた。
突然、公園の前に来て瑠璃子が立ち止まった。
雲雀は不審に思って声をかける。
「……どうしたの?」
「あれ。」
瑠璃子が指を差した視線の先を見て雲雀は驚愕した。
(うわぁ……)
指をさしたその一箇所だけ夜の気配が未だにまとわりついていた。
瑠璃子はハッと目を見開いて、雲雀の方を見つめ直した。
「先程、与えられた課題にピッタリな題材が見つかったぞ。」
瑠璃子は声を弾ませながら言葉を紡いでいった。
「そこにあったのは、紛れもない数人の酔漢達の姿。
滑り台の影に置かれた簡易テーブルの上に雀牌が小さな音を立ててぶつかり合っていた。
牌を切るたびに「ロン!」と吠え、下品な酒焼けした笑い声が風を切った。
男達が無造作に掴んだ缶チューハイはしきりに側面をきらりと光らせる。煙草の煙がまだ濡れた芝生の匂いに混ざり、私の眼の前のお前は顔をしかめていた。」
「どう?なかなかセンスあるでしょ。」
言い終えると瑠璃子は『どう?やってやったでしょ!』とでも言いたげに胸を張った。
「……すごいよ!」
思っていた異常に凄く、題材はともかく雲雀は舌を巻いた。
その時、男の一人がテーブルの下に落ちた雀牌を拾おうとして屈み込んだ。
そして、今までこちらに背を向けていた男の横顔がこちらにはっきり見えた。
それを見た瑠璃子が、突然男達の方に近づこうとした。
雲雀はひゃっとして咄嗟に瑠璃子の袖を引いた。
小声でヒソヒソと話す。
「何してるの……!?あんなヤバそうな人達に近づいちゃダメでしょ」
「大丈夫、だってあれ山岡のパパだもん」
その男は、男達の中で一際汚らしい男だった。
伸び切ったジャージを上下に着て、ジャージの下には黄ばんだTーシャツが覗く。
禿げ上がった頭皮に残った縮れた残り毛が禿鼠を連想させる。
「えっ…!」
雲雀が言葉を失っているうちに男の方が瑠璃子に気づいて顔をこちらに向けた。
「やぁ、瑠璃子ちゃん、学校かーい?」
呑気そうな間の抜けた嗄れ声で、いかにもだらしのない笑みを男は瑠璃子に向けた。
「うん。」
「今日も一日頑張れよ〜」
「頑張れって、俺らは全然頑張ってないのにな〜!!」
その返答を聞いた仲間の一人が茶化すように言った。
その一言に、男達はギャハハと手を叩いて笑って、缶チューハイを新たに開けるプシュッとした音が聞こえた。
(……あれが父親なら、そりゃあ、山岡もああなるのも分かるよな。)
目の前のどうしようもない男と教室で威張る山岡の横顔が二重写しになる。
記憶の中の山岡の母、疲れ切った化粧っ気のない中年女の姿も浮かぶ。
雲雀は山岡の母親は度々見かけたが、父親を見るのははじめてだった。
雲雀は思わず山岡の父親から視線を逸らした。
初夏の光がどこか薄汚れて見えた。
「神谷さん、早く学校行かないと送れちゃうよ。そろそろ行こう?」
「うん。」
立ち止まっている瑠璃子を促し、二人は学校へと道を急いだ。
遠くからはまだ朝に取り残された男達の笑い声が聞こえた。
彼らの夜は明けることはないのであろう。




