番外編 Requiem for 腹痛
小学生時代の思い出
(…さすがに朝からハンバーグは不味かった。)
過去の愚行を悔やみながら瑠璃子は必死に時計の針が動くことを待っていた。
「…るりちゃん?」
隣の雲雀が怪訝そうな表情で小声で話しかける。
しかし、瑠璃子の意識は既に遠く、
蒼白な顔で背を丸め、腹を擦ることしかできなかった。
(あと5秒ッ…!!)
カチ…カチ…カチ…
時を刻む音だけが鮮明に響き、長針は永遠にたどりつけないかのように遅かった。
瑠璃子は早くも、腰をイスから上げ、身体を斜めに構えた。
(早く!早く!早く!)
その瞬間、時計の長針が4時をさした。
「キーンコーンカーンコーン♫」
救済の鐘がなる。
時刻は10時20分二時間目の終わりを告げた。
――起立、礼、ありがとうございました。
言い終わる間に瑠璃子は駿馬のように教室を駆け出した。
廊下には休み時間に浮かれる子供達がぞろぞろ出てきた。
みな、瑠璃子の姿にぽかんと呆気にとられる。
瑠璃子は走りながら超高速で思惑を巡らす。
(…教室前はまずい、体育館前もダメ…。)
(…上級生の階は…埋められても文句は言えんな…。)
(…となると、最善解は旧校舎の理科室前ッ!遠いがそこしかないッ…!!)
安心より名誉を選んだ。
今の彼女にとって危険な賭けに踏み込んだのだ。
旧校舎と新校舎をつなぐ通路までの廊下が
まるで無限に繋がっているように感じられる。
(…クッソ!!)
――Requiem aeternam dona eis, Domine,
主よ、彼らに永遠の安息を与えてください。
腹に走る鈍い痛みをこらえながら楽園を目指し、瑠璃子は一歩一歩を必死に踏み出した。
遂に、新校舎と旧校舎を結ぶ通路まできた時、思いもよらぬ存在が立ち塞がる。
「ッ…!?」
(なぜ、なぜ、奴がここにいるっ!?)
――腹に張り付かんばかりのピチピチの服。
――触ればジョリリと音がなりそうな見事な坊主頭。
坊主――山岡は、瑠璃子のゆく道を塞いだ。
「おぅ、瑠璃子。」
――そうして、ニヤリと唇をつり上げた。
「俺の前を通りたければ、拳であいさつしな。」
「…そこを、どけッ…!!」
瑠璃子は急いでいた。こいつに構っている余裕はない。
血気迫る表情で山岡に怒鳴る。
しかし、奴に道を開ける気はさらさらない。
瑠璃子が山岡の後ろを周り道しようとすると山岡がすかさず前を塞ぐ。
瑠璃子は拳を振りかぶり、そのまま、山岡の顔面めがけて叩きつけた。
しかし、ピンチの瑠璃子にはいつものキレがない。
山岡はいとも容易く受け止めた。
「ヒィ、ヒッ…ヒッヒヒ…。」
「…効かねぇなぁ。」
いかにも腹立たしい引き笑いだ。
(…クソッ。)
瑠璃子は拳を強く握った。
山岡にとっては遊びかもしれが、瑠璃子にとっては人間の尊厳を掲げた闘いである。
しばらく、睨み合いが続く。
そうこうしている間に――キーンコーンカーンコーン♫
かつての希望の鐘は絶望となって瑠璃子に"終わり"を告げる。
「…あっ、あぁ…。」
その瞬間目の前が真っ暗になった。
思わず、床に崩れ落ちそうになる。
「やっべ、もう終わりかよ!!」
「ほら、瑠璃子早く教室戻るぞッ!」
そう言って山岡に無理やり腕を掴まれ瑠璃子は
教室に戻ることとなった。
三時間目の授業は道徳だ。
瑠璃子はなんとか屈強な精神力で耐えていた。
腹の痛みは火にかけた水のように沸々と強さを
増す。
優しさとは、心の余裕から生まれる物である。
当然、今の瑠璃子に道徳心はない。
(世界が憎い。)
湧き上がる憎悪が彼女を支配する。
目に映る物全てが憎くて堪らない。
教師が黒板にデカデカと文字を書き出す。
――ほんとうのやさしさ
「では優しい人について分かる人!挙手を!!」
「はい、困っている友達を助ける人のことです。」
「はい、相手を思いやれる人のことです。」
生徒達が元気に応える。
(私を助ける人っ!!!!それ以外はみな死ね!!)
まだ見ぬ救世者だけが、彼女を救える。
瑠璃子が悶絶していると、不意に誰かに突かれた。
ちょっとの刺激も今の瑠璃子には致命傷だ。
(ア゛ァぁぁぁぁぁぁぁ!?)
「クッ…ゥ…!!」
顔を醜く歪めながら、隣を振り向く。
猛攻類のような鋭い目つきで睨まれ、雲雀は思わず身が縮んだ。
「…どうしたの?」
小声で声を掛ける。
瑠璃子が青い顔で押し黙っているのを見て雲雀は全てを察した。
「…さっさと先生に抜け出してもらいなよ。」
「…むり。恥ずかしい。」
瑠璃子とて乙女。
大勢の前で名乗り出るわけにはいかない。
そうするべきだと、頭では理解しているがなかなか動き出せないのである。
「バカじゃん、漏らすのがよっぽど…」
半笑いで言いかけると鋭く睨まれた。
直接的な表現は控えるのが礼儀だ。
彼にはモラルがないらしい。
しかし、瑠璃子に限界が差し迫っているのも事実。
雲雀はしばらく思案したあと口を開いた。
「…分かった。任せて!」
雲雀は力強く頷いた。
「…?」
瑠璃子は困惑しながらもその言葉の真意を測りかねていた。
雲雀は真っ直ぐに挙手をした。
「先生、僕体調が悪いので保健室に行ってきます。」
「分かった、行っておいで。」
雲雀は瑠璃子の方にチラチラと目配せを送る。瑠璃子は保健委員だった。
(…付いてきて!)
だが、瑠璃子は呆然としたかと思うと、呪詛の籠もった表現で雲雀を睨みつけた。一向に立ち上がる気配もない。
(…!?)
雲雀は焦った。
必死に目配せするが、尚も瑠璃子は動かない。
「どうしたの?早く行っておいで。」
教師もなかなか動かない彼を見て不審がる。
「…はい。」
雲雀は泣く泣く用もないのに保健室に行くこととなった。
――一方、
(あのやろうッ!!いったい私に何の恨みがあるんだ!!)
雲雀が保健室に行ってしまったあと、瑠璃子が保健室に行けば周りのアホぅ共に変に勘ぐまれ、バカにされるのなど分かりきったことである。
(もう、無理…絶対抜け出せない…。)
こうして彼の善意により瑠璃子の救いは閉ざされた。
皮肉なことに――地獄への道は、善意によって舗装されているのである。




