不安定な環境と精神不安と一時避難(2)
この子は持ち主の車の中に置かれていたらしい。
基本的に車に置かれていたので、ずっと一緒というわけではなかったが、週末など出かける際は車と一緒に移動できて楽しかったという。
そして先ほど、その車は事故にあった。
崖から転落したのだ。
幸い、下は森で多くの木々が高くまで枝を伸ばしており、それらがクッションとなったため皆無事だった。
その後、運転手とその家族は救助されたので、一命をとりとめられそうだ。
けれど自分と車は崖の下に置き去りになっている。
だからその後の彼らのことはわからないが、もしかしたら彼らは意識不明の重体なのかもしれない。
「あなたにそこまでの記憶があるというのにどうしてここにきてしまったのかしら?忘れられたからという感じではないように見えるけれど?」
ここはあくまで忘れられた人形たちの集まる場所だ。
だがそれは必ずしも相手が忘れたからというわけではない。
人形たちが忘れられた、もう思い出されることはないと感じた時にたどり着く場合もある。
たいていそうなる何年も前に持ち主から忘れられて、暗い奥底にしまわれ、時を過ごしている人形が多いので、そのほとんどが相手が忘れていて思い出されないことが大半で、結果的にここに留まるか、あきらめて空に還っていくのだが、この子は事情が違う。
とりあえず詳細を話してほしいというと、この子は素直にそれを言葉にした。
「戻るところがなくなるかもしれないから不安になって、気が付いたらなんかここにきてたって感じです」
「そう……」
事故の影響で自分を知っている人は誰もいなくなってしまったとそう認識したのだろう。
ただその場合、持ち主の意識が戻ってこの子を思い出したり、その車が発見されて誰かの手で確認された時、この子を認識されたら、おのずとそこに戻ることになるだろう。
エカテリーナがそれを説明しようと口を開きかけた時、異変が起きた。
「あれ?なんか違うところに意識が引っ張られて……」
混乱する子にエカテリーナは言った。
「それはきっと、思い出した誰かが、あなたを呼び戻しているのよ。それは呼ばれたその場所であなたが必要とされている証拠よ。いきなさい。そのまま身を任せていれば戻れるわ」
この子には戻るところがある。
それならばこの場所の説明をする必要も、この先のことを聞く必要もなさそうだ。
ただ呼びかけに従って戻れるよう、それとなくアドバイスを送るだけで充分だ。
エカテリーナが戻るために必要なことを伝えると、その子は丁寧に頭を下げた。
「はい。わかりました。ありがとうございます。お騒がせしました」
「いいえ。少しでも長く幸せに過ごせることを祈っているわね」
エカテリーナの最後の言葉は聞こえていたかどうかわからないが、その子はお礼の言葉を残しそのまま消えていった。
残されたのはいつも通り、ウサギのままのエカテリーナと、執事のセバスチャンだけである。
「呼び戻されたということは、あちらの世界で誰かに新しく認知されたか、どなたかの意識が戻って、あの子のことを思い出したということよね。とりあえず戻ることができるのならよかったわ」
「はい」
エカテリーナの言葉にセバスチャンはうなずいた。
「これまでは長く滞在する子が多かったから、意外だったけれど、もしかしたらここに残されている子の中にも同じように事故などで急に持ち主を失って、急に存在を知る者を失った結果、行き場を失くした子がいるのかもしれないわね」
部屋の山の中にいる子の中にはそんな境遇の子もいるかもしれない。
保管というか滞在することは許しているけれど、だからといって自分から説明しない子たちの話をいちいち聞いたりしていない。
聞かれたくない子も、忘れてしまった子もいるだろうから、追及しないのだ。
「そうでございますね。エカテリーナ様が想像なさった通り、自然と忘れられたり、不要とみなされて捨てられてしまうことだけが、ここにおいでになる原因ではないというわけではないということでしょう」
「そういうことになるわね。でも、どちらにせよ、あの子たちの幸せは、よき持ち主とのめぐりあわせの中にしかないわ。私たちはそれが叶うまでの間、あの子たちをここにおいてあげるだけよ」
まず悪意や害意があれば入ってこられないし、そもそもここを見つけられるかも怪しいのだ。
入館判断は館に任せて、自分たちはここに迷い込んだ子たちに居場所を与えてあげるだけでいい。
「ですがしかし、期間の長さはそれぞれということになりそうでございますね」
彼らを返すヒントにならないかと思っていたが、今回もそのヒントを得ることができなかった。
セバスチャンが興味深げに言うと、エカテリーナはうなずいた。
「ええ。でもあの子はたまたま短かったというだけよ。たしかにエントランスにいたのは不思議だけれど、そういうこともあるでしょう」
いつもなら人形たちの集まる部屋で発見されるのに今回はエントランスに落ちていた。
それがいつもと違うことなので、時間の余る彼らの興味を引いていた。
「本当に、あの方の反応は人間が探しに来た時のようでございましたしね」
セバスチャンの言葉にエカテリーナはそれは楽しそうだと話を膨らませる。
「いつか人間が人形のようにここに滞在する日も来るのかしら?」
たいていの人間は話が終われば帰っていき、人形たちのように滞在することがない。
出も先ほどの子のように人間のような反応を示す人形がいるのなら、人形のように迷い込む人間がいてもさほど不思議ではない。
これまでにはなかったことだけれど、これからあったら面白いかもしれない。
エカテリーナの話にセバスチャンは難色を示した。
「それはいかがでしょう。言われてみれば、これまでそのようなことはありませんでしたね」
だからあまり期待しない方がいいと暗に告げると、それはわかっているとエカテリーナはうなずいた。
「そうね。通ってくる方はいても、滞在する方はこれまでに一人もいなかったわ」
いい加減長くここにいるのだから、そこに期待はしていない。
ただ同じ毎日の繰り返しに、少しの刺激が欲しいという、ただの希望の一つに過ぎない。
「では仮にいらしたらどうなさるのですか?」
セバスチャンが尋ねると、エカテリーナは簡潔に答える。
「いらしたのならお客様だもの。いつも通りおもてなしをするだけよ」
「かしこまりました。そのようなことがあればそのようにいたしましょう」
セバスチャンが改まって丁寧にお辞儀をして見せると、エカテリーナは体を揺らした。
「ふふふっ。考えたらなんだか楽しくなってきたわ」
考えたことはなかったが、いつかそんな新しいお客様が来ることもあるかもしれない。
そうなったら、普通に尋ねてくる人より長く一緒に居られるし、その時間の分だけ色々な話を聞けて楽しそうだ。
エカテリーナは別の可能性を感じてウサギの耳を通して嬉しそうに反応して見せるのだった。




