1. 悪役令嬢として終わるはずだった人生
「どうして…どうしてこんなことに」
毒杯に涙が落ちる。夜明けまでにこれを私は飲まなくてはならない。
もう私は朝日を見ることなんてできない──あまりにも恐ろしい。それでも、ただ、光のような貴方さえ最後に会いに来てくれたら、この怖さにも勝てると思ったのに。もしも来てくれたら、ああ私はなんてことをしてしまったのかと懺悔しながら死ぬ事が出来た、と思うのに。
ただ、ただあまりに怖さに自分自身を抱きしめる。
「最後ですら…会いに来ては、下さらないのね…」
私の愛しのルードリッヒ殿下。
ずっとずっと愛していました。──でも、貴方は私の事を愛してはくれなかった。
6歳からの婚約者だった。
貴方はとても優しくて、両親のどちらにも似なかった銀髪をとても素敵で美しいと褒めてくれて、私が婚約者でよかったと微笑んでくれて、僕たち一緒に国を幸せにしようねと──そう、言ってくれたのに。
私は何を間違えてしまいましたか。
私になにか非があるなら、そう言ってくれれば良かった。貴方の為ならどんなことだって直したのに。
──私は、考えたくなかった。もしも貴方が、ただ彼女を愛しただけだったら。私がどうこうではなく、彼女だったから、なんて、理由だったなら。
そんなこと、考えたくなかった。
彼女は聖女だった。
彼女が貴方にベタベタするのを、彼女は平民から貴族になったばかりなのだからと我慢をした。貴族として生きてきた私は導く役目を担っているのだと、何より貴方の婚約者である私は、国のために働いてくださる聖女に心を砕かなくてはならないと、そう信じて。
彼女は素晴らしいと褒める貴方の言葉にも我慢をした。実際に彼女の力は素晴らしかったから。長年悩みの種で、あまりにも憎く沢山の人々を奪っていった魔族と魔物、その対抗策として彼女の力以上のものは無かったから。
私はずっと貴方に尽くしてきた。──聖女の方が王妃になるのに相応しいと陰で言われることにも、ずっと良くしてきてくださった王様も王妃様も彼女のことばかり話すことにも、ずっとずっと我慢して。
ただ貴方のことを愛していたから。
でも貴方は最後の最後まで私を愛することはなかったのね。私の人生の終わる今日この日ぐらい来てくれると思ったのに。最後に目に焼き付かせるものが愛しい貴方なら、死ぬのだって怖くなくなるはずだったのに。
「ああ…私の人生、何のために…」
私は聖女を殺そうとした。
国のためでもなく、家族のためでもなく、ただ私のために。私の欲のために殺そうとしました。貴方に愛されたくて。聖女がいなくなれば全て元通りと信じて。
あの時の私はどうかしていたのです。聖女が王妃になることが、聖女が貴方の婚約者になることが、1番良いことであると分かっていました。私がするべきだったのは、ただ、静かに身を引くことであって、聖女の心臓に向かって氷の槍を生成させることではありませんでした。
──でもあの時殺意を抑えられていたとして、いつかは生き恥を晒すことになっていたのだと私は確信しています。
「どうしようもないくらい…貴方を愛していました。さようなら、ルードリッヒ殿下」
震える手で毒の入った杯を口にあてる。ああ恐ろしい。恐ろしくてたまらない。死にたくない。ただ、ただ貴方の隣で、初めて会ったあの日のように笑いあっていたかった。
「ねえ、そんな風に終わるぐらいなら、君の命を僕に託してみない?」
ばっと顔を上げる。望んだ貴方の姿では無かった。無かった、けれど──。
それから落ちた羽がひらりと毒杯の中へと吸い込まれていくのを目の端で捉える。
目の前に突然現れた、それを、まっすぐ見て、
思わず、ひゅっ、と息を飲み込んだ。
「……お迎えに来てくださったのですか?こんな私なのに天国へ連れて行ってくださるの?」
目の前の少年の形をしたそれは、絶対に人間ではなかった。
白金に輝く羽が眩しい。翼がばさりと揺れた。頭の上で黄金の輪が光を放つ。
───天使。天使に違いない存在だった。
恐ろしいほどの美貌。人ではここまで完璧にはならない。金の瞳がぴかりと光る。月の光とも太陽の光とも例えられるほどに美しくて唯一無二の輝き。
汚れ1つない清らかな白い布を纏って、慈愛のこもった眼差しで天使は手を伸ばす。
きっと、そのまま抱きしめて、天上の国へと連れて行ってくださるのだ。瞳から涙が落ちる。自分がそれに相応しい存在だとは思えなかったけれど、救ってくださるのだと手を伸ばし返した。
「ああ、やっぱり!」
天使はひらりと身を翻して私の伸ばした手を避けると、ぐるんと宙で回って私の顔を両手で挟み込んだ。えっ、とびっくりして目を開けた私の顔が天使の瞳に映った。
「君、未練だらけだろ?たくさんたくさん後悔があって、このまま死にたくないと思ってるでしょ?」
──美しくてこの世のものでは無い天使に、一体、私は何を言われたのか。
は、と息がもれる。毒をまだ飲んでいないのに、死んでしまうのではないかと思うほど心臓が痛い。
「違う?」
にこりとあまりに完璧な笑顔で天使は私の目を覗き込む。翼から白い羽が金の粉を光らせながら落ちていく。私は天使から目を離せない。
天使から放たれた言葉を理解して、
「…ちが、いません」
そうして思わず出てきてしまった言葉。ばっと口を手で覆う。天使は私の顔を挟んでいた手を離す。そして、私に最後に与えられた狭い部屋をゆらゆら揺れ動く。
天使の前では隠し立ては出来ないものだから気にしないでと、気にせずにはいられないことを言った。
「僕は、もう分かっているとは思うけど天使だよ!未練だらけでこのまま毒杯を呷るしかない君にとっても素敵なニュースがある!」
にひっ、とでも効果音がつきそうな、天使の完璧な笑みというよりはイタズラ好きの少年のような顔をして、天使はびしっと私を指さした。
「君が“幸せ”になるまでループさせたげる!」
衝撃。衝撃だった。その時の衝撃はとても言い表せられない。心臓が止まったような気がした。耳鳴りが煩いけれどどうってことはない。そんなもの、に、意識を割いていられない。
なぜなら幾度となく考えてきたことだったから!
もしあの時やり直せたら。
愛されるようもっと努力できていれば。
聖女と貴方が2人で会うことにもっと苦言を呈していれば。
あるいは──!
「私が、幸せに、なるまで…?もう一度…もう一度やり直させて下さるのですか…!?」
もちろんもちろん、天使は嘘をつかないよと答える。
喜びや──何か、何かどす黒い感情が溢れて、思わず唇が笑みを形作った。
ああ。
私の願いを、叶えてくださるのですね。
「間違えてしまったり不満があるなら何度だってやり直せばいい!僕がそのための力をあげるよ!」
まあ、もちろんお代は頂くけどねえ、という声は聞こえなかった。
どんな笑みを浮かべているのかも分からない。ただ、高揚感に包まれる。───ああ、そうだ、私はあの女が憎い。そう、後悔していたことがあったのだ、私はあの時、もっともっと考えて計画を練って、そして───聖女をちゃんと、きっかり、絶対に、殺すべきだったのに!
「その顔は了承ってことかな?」
「ありがとうございます、ありがとうございます、天使様…!やり直させてください…!」
毒杯のことなど知ったことでは無い。どうせ夜明けまでは誰も来ない。パリンと音が鳴る。砕け散った陶器が足に突き刺さったけれど、そんな痛みは無に等しかった。
「それでこそ僕の選んだ人間だよ!んふ、悪役令嬢から始まる君の名を教えてくれる?」
「私の名前は──」
悪役令嬢。そんなふうに呼ばれるのは初めてだったけれど、不思議と悪い気はしない。私は今から悪へと堕ちる。──殺してやる。
私からすべて奪った聖女。絶対に、絶対に今度こそ間違えはしない。お前を殺す私の名は!
「───エリーザベト・トランダフィールよ」
最後だからと、貴方との思い出が詰まったこのドレスを着たいと言っていて良かった。
この最高の始まりにふさわしい。私は絶対に、絶対に、今度こそ間違えず貴方の愛を手に入れてみせる。
カーテシーをして、天使に微笑み返す。
「これからよろしくお願いしますわ…天使様!」
何度も何度もやり直すチャンス。
普通では手に入らないそれを得られた私はとても幸運で。そして、今から私は“幸せ”になりにいくのだ。そのために何度だってやり直す。貴方の愛を手に入れるまで!それが私の“幸せ”だから!
「エリーザベト、僕らは今から運命共同体だね!君が“幸せ”になる日を──楽しみにしているよ!」
天使が笑う。
翼がバサリバサリと、私を包み込めるほどに大きくなり、覆われた。
さあ、記念すべき第一回目のループの幕開けだ!──そう謳う天使の声がどこか遠くで聞こえた。
ぎゅうっと心臓が何かに掴まれている。痛い訳では無い、ぐいっと引っ張られる。
後ろへ、後ろへと。──私は、もうあの暗くて狭い牢にはいない。体も持たない。ただ魂だけになって、もっと後ろへと下がっていく。
魂がゆっくりと小さくなっていく。瑞々しく、まだ何も知らない、無垢な魂へと還っていく。
羽に包まれて今どこにいるかは見えない──それほどの時間は経っていない、だろうか、もう時間という感覚があまり分からない。
急に、もうすでに翼に包み込まれているというのに、それよりももっと、なんだか暖かいものつつまれたかんじがした。ああここはあんしんできる、ばしょだ。きゅう、に、なんだか、ねむくなってきて……。
「さあ、頑張りなよエリーザベト。頑張って“幸せ”を手に入れて、美味しくなってね」
すぐちかくで、てんしが、わらっている──。