「敗軍の兵、将を語る。」
街道沿いの茶屋は、夕暮れ時の倦怠感と、旅人の疲れを癒すような土埃の香りに包まれていた。煤けた提灯が赤茶けた光を放ち、カウンターの向こうで主人がせわしなく茶碗を拭いている。
そこに、ひょろりと背の高い男が入ってきた。
年の頃は五十半ばといったところか、顔には幾筋もの皺が刻まれ、浪人風のくたびれた身なりだが、どこか飄々とした雰囲気が漂っている。
朱色の提げ物を大事そうに抱え、その男――鬼灯の勘兵衛はカウンターに腰を下ろした。
「お疲れ様です。今日はどちらから?」
主人が愛想良く声をかける。
勘兵衛は煙草に火をつけ、紫煙をくゆらせながら「西の方さ。色々見てきたよ」と、ぼそりと答えた。
カウンターの向こうで湯気が立ち上り、茶屋の奥では誰かが三味線を爪弾いている。長旅の疲れが、一杯の熱い茶でじんわりと解けていくような心地よさだ。
そこに、馬を連れた旅商人と、若い侍が入ってきた。彼らはそれぞれ席に着き、熱い茶を啜りながら、旅の疲れを癒している。
自然と話題は最近の世情、そして戦の話に移っていった。
「武田信玄の強さは、まさに神がかってますなぁ!」
若い侍が目を輝かせながら語る。
信玄の武勇伝、戦における巧みな戦略、そして圧倒的なカリスマ性に、旅商人も深く頷いている。
「ああ、あの甲斐の虎は、誰も止められなかったと言いますからな」
二人の話が盛り上がるのを横目に、勘兵衛は黙って煙草をふかしていた。
だが、次の瞬間、彼はふっと鼻で笑った。その表情は、まるで子供騙しを見破った大人のようだった。
「なあに、あの男も大したことなかったよ」
カウンターに置かれた茶碗が、小さく音を立てた。旅商人と若い侍は驚き、言葉を失って勘兵衛を見つめる。勘兵衛は紫煙を吐き出し、鋭い眼光で二人を見据えた。
「あいつは、部下に指示を出すのが下手くそだったんだ」
誰もが戦の神と謳う武田信玄。誰もが恐れた甲斐の虎。その男を「大したことなかった」と断じた勘兵衛の言葉に、茶屋の空気は一瞬にして張り詰めた。勘兵衛は煙草の火を消し、懐から朱色の提げ物を取り出した。まるで宝物を扱うように、それをカウンターに置くと、静かに語り始めた。
~~~
あれは、骨まで凍りつくような寒さの夜だった。
霜が降りた枯れ草を踏みしめ、吐く息は白い煙となって空に消えていく。月明かりも届かぬ闇の中、俺は馬場信春様の背後に控えていた。八幡原の冷たい風が、俺の鎧の隙間をすり抜け、肌を刺すように冷やす。
「勘兵衛、寒かろう」
馬場様が低く落ち着いた声で俺に声をかけてくださった。その声は、凍えるような夜空に、ほんのりと温かさを灯してくれるようだった。
「はっ、この程度の寒さでひるんでは、信玄様に申し訳が立ちませぬ」
俺は精一杯の声で答えた。だが、本音を言えば、歯がガチガチと鳴るほどの寒さだった。
「そうじゃな。…しかし、信玄様のご命令は、いささか抽象的すぎる気もする」
馬場様は、小さく呟かれた。その言葉に、俺はハッとした。馬場様は、決して信玄様を悪く言われる方ではなかった。しかし、この夜、馬場様の口から漏れたその一言は、信玄様への不信感を露わにした、初めてのものだった。
「八幡原を制圧せよ…とは仰せになったが、具体的にどうすれば良いのか…。謙信めがどこにおるのかもわからぬというのに…」
馬場様の言葉は、俺の胸にも重く響いた。八幡原を制圧せよ。信玄様は、ただそれだけを仰せになった。敵の規模も、配置も、そして我々がどう動くべきなのかも、何もかもが闇の中だった。
「信玄様の真意を汲み取ることが、我々の役目…そう思っておるのだが…」
馬場様の言葉は、どこか虚ろに聞こえた。その表情は、月明かりに照らされて、深く影を落としている。信玄様への忠義に厚い馬場様でさえ、この時ばかりは、信玄様の真意を測りかねておられるようだった。
その時だった。
「敵襲!!」
遠くの方から、悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。その声は、瞬く間に戦場全体に広がり、重苦しい夜の空気を切り裂いた。
「ついに来たか…」
馬場様は、腰の刀に手をかけ、静かに呟かれた。その目は、鋭く戦場を見据え、今にも飛び出していこうとする猛獣のような迫力があった。
「各隊、気を引き締めよ!信玄様の命に従い、八幡原を制圧するのだ!」
馬場様は、力強い声で全軍に呼びかけた。その声は、凍えるような夜空に轟き渡り、兵士たちの心を奮い立たせた。
俺は、馬場様の背後に控えて、戦場の様子をじっと見守っていた。
敵は、闇夜に乗じて、我々の陣地に襲いかかってきた。黒い影のような敵兵が、刀を振りかざし、怒号を上げながら、雪崩れ込んできた。
「迎え撃て!ひるむな!」
馬場様の声が轟く。兵士たちは、必死に刀を振るい、敵を押し返そうとする。刀と刀がぶつかり合い、火花が散る。凄まじい音と怒号が、夜空にこだました。
俺は、馬場様の指示に従い、伝令として戦場を駆け巡った。
「左翼が崩れそうだ!至急、援軍を送れ!」
「右翼は持ちこたえている!敵の主力を左翼に集中させよ!」
戦況は、刻一刻と変化していく。情報が錯綜し、何が真実なのか、判断が難しい。それでも俺は、馬場様の元へ正確な情報を届けようと、必死に戦場を駆け巡った。
八幡原は、まさに地獄絵図と化していた。月明かりに照らされた大地は、兵士たちの血で赤く染まっている。そこら中に、死体が転がり、呻き声が聞こえてくる。
「馬場様!敵の主力は、左翼に集中しております!右翼は持ちこたえております!」
俺は、息を切らしながら、馬場様に報告した.
「わかった!右翼の兵を左翼に回し、敵の側面を突く!勘兵衛、各隊に伝令を!」
馬場様は、即座に指示を出された。その判断力、決断力は、さすが信玄様に認められただけあると思った。
俺は、再び伝令として戦場を駆け巡った。馬場様の指示を各隊に伝え、兵士たちを鼓舞する。
「馬場様の指示だ!右翼の兵は左翼へ!敵の側面を突くぞ!」
俺の声が、轟轟と燃え盛る戦場に響き渡る。
馬場様の戦略は、功を奏した。右翼から回した兵が、敵の側面を突き、戦況は少しずつ、我々有利に傾いていった。
だが、敵も必死に抵抗する。信玄様は、後方から戦況を眺めているだけのように見えた。
「馬場様!敵の増援が到着いたしました!」
俺は息を切らしながら報告した。闇の中から湧き出すように、敵の新たな軍勢が現れたのだ。彼らは新鮮な勢いで我々に襲いかかり、形勢は再び逆転し始めた。
馬場様の顔色が変わる。夜が白み始め、これまで以上に戦況が混とんとしてきた。信玄様からの指示を今か今かと待ちわびていたが、一向に伝令は現れない。
「…信玄様は、一体何を考えておられるのだ…」
馬場様は、歯がみをし、苛立ちを隠せない様子だった。
「馬場様!敵の猛攻が激しゅうございます!このままでは…」
俺は、言葉を詰まらせた。 敵の勢いは凄まじく、我々の防衛線は崩壊寸前だった。
馬場様は、苦渋の決断を下された。
「全軍、撤退!八幡原を放棄する!」
信玄様の指示がないまま、独断で撤退を決断する。馬場様にとって、どれほどの苦渋の選択であったか。
撤退の号令が響き渡り、兵士たちは我先にと後退していく。敵は、その勢いに乗じて、我々を追撃してきた。
「勘兵衛!お前は殿を務めよ!信玄様に戦況を伝えよ!」
馬場様は、逃げる兵士たちを鼓舞しながら、俺に指示を出された。
「…はっ!」
俺は、馬場様の指示に従い、殿を務めることになった。逃げる兵士たちを守るため、俺はわずかばかりの兵と共に、敵の攻撃を受け止める。
敵の矢が、雨のように降り注ぐ。俺は刀を振り回し、矢を防ぎながら、必死に戦った。
「ひるむな!踏みとどまれ!」
俺は、声を張り上げ、兵士たちを鼓舞した。しかし、敵の勢いは凄まじく、我々は徐々に押し込まれていく。
「くっ…!」
俺は、敵の攻撃を受け、よろめいた。鎧に激しい衝撃が走り、息が苦しくなる。
「勘兵衛殿!」
俺の窮地を救ったのは、馬場様だった。馬場様は、敵の中に単騎で切り込み、俺を助け出してくださった。
「馬場様!なぜ…!」
「信玄様に伝えることがある!お前は生き延びよ!」
馬場様は、そう言い残すと、再び敵の中に飛び込んでいった。
俺は、馬場様の後ろ姿を呆然と見つめることしかできなかった。馬場様の背中は、まるで、信玄様への忠義と、兵士たちへの責任感に押しつぶされそうになっているように見えた。
「馬場様ぁぁぁ!」
俺は、叫んだ。しかし、馬場様の姿は、敵の中に消えてしまった。
俺は、馬場様の言葉に従い、撤退した。信玄様に戦況を伝えるため、そして生き延びるため。
俺は、必死に馬を駆り、信玄様の陣へ向かった。
「信玄様!馬場様が…!」
俺は、息を切らしながら、信玄様に報告した。
信玄様は、驚いた様子もなく、ただ静かに俺の報告を聞いておられた。
「…そうか」
信玄様は、それだけ仰せになると、再び戦況を見つめ始めた。
俺は、信玄様の反応に、言葉を失った。馬場様は、信玄様に忠義を尽くし、命をかけて戦った。なのに、信玄様は、まるで他人事のように、冷淡な反応を示された。
俺は、信玄様への不信感を募らせた。あの時、信玄様は、一体何を考えておられたのか。なぜ、もっと早く指示を出さなかったのか。なぜ、馬場様を助けなかったのか。
…わからない。何もわからない。
まるで深い霧に包まれたように、その真意を理解することはできなかった。
~~~
「信玄様は…何も考えていなかったのかもしれない…」
勘兵衛は、茶屋の主人と若い侍に向かって、静かにそう言った。
「ただ…ただ、駒が動くのを見ていただけなのかもしれない…」
その言葉に、茶屋の空気は凍りついた。誰もが、戦の神と謳われた武田信玄の意外な一面を知って、驚きを隠せないでいた。
勘兵衛は、朱色の提げ物を強く握りしめた。それは、あの日、八幡原で感じた冷たさを、今でも鮮明に伝えてくるようだった。
「…だから俺は、甲斐を去った」
勘兵衛は静かに言った。
「あの男の下では、誰もが駒でしかない。俺は、人を人として見てくれる…、そんな武将の下で戦いたい…」
茶屋の主人は、息を呑んだ。
信玄を見限り、甲斐を去ったというのか。
「…その後、俺はいくつか仕える先を変えた。だが、どこに行っても、同じだった…」
勘兵衛は、再び朱色の提げ物を閉じ、寂しそうに呟いた。
「…だから、俺は今もこうして、諸国をさまよっている…」
茶屋の中は、静寂に包まれた。誰もが、勘兵衛の言葉の重みに、言葉を失っていた。
その時、茶屋の扉が勢いよく開いた。
「おい、親父! 熱燗、ぬる燗、両方くれぃ!」
陽気な声と共に、屈強な男が二人、茶屋に入ってきた。彼らは、いかにも歴戦の勇士といった風貌で、体からは湯気が立ち上っている。刀を腰に佩き、眼光鋭く、周りの客を睥睨している。
「おっと、これはこれは。見慣れぬ顔が・・・」
屈強な男の一人が、勘兵衛に気づき、ニヤリと笑った。
「てめぇ、どこの組のもんだ? なんだか、偉そうな面して座ってやがるじゃねぇか」
その言葉に、勘兵衛はゆっくりと顔を上げた。
「俺は…」
勘兵衛は、朱色の提げ物に手をかけながら、静かに言った。
「…敗軍の兵だ」
その言葉に、屈強な男たちは顔を見合わせた。そして、大声で笑い出した。
「敗軍の兵! てめぇ、そりゃ傑作だ! さっさと酒でも飲んで、忘れちまえ!」
屈強な男たちは、勘兵衛を茶化しながら、席についた。
勘兵衛は、彼らの言葉に動じることなく、静かに目を閉じた。
彼の脳裏には、あの日、八幡原で見た光景が、再び蘇ってきた。
「…俺は、まだ探し続けている」
勘兵衛は、心の中で呟いた。
「人を人として見てくれる…、そんな武将を」
Geminiでフルスクラッチ