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6.推しの顔が尊くて、近い!

 

(足が痛い)


 さほど高くはないとはいえ、ヒールのある靴は疲れる。それに、たぶん踵の皮が剝けている。左右とも。

 理論上、来た道をそのまま逆にたどって行けば、元の場所に帰り着くはずである。

 ラウムと歩いて来た廊下の様子を思い出しながら進んで来たつもりなのだが、どこかで間違ったらしい。見覚えのない扉がずらりと並んでいる。


 うろ覚えだが、魔王の部屋の扉は細やかな彫刻が施されていて、ドアノブひとつ取っても洒落ていた。

 そして何より、隣の部屋の扉との間隔がずごく広い。そのフロアのほとんどのスペースが、魔王の部屋なのではと思ってしまうほどだ。

 対して、この辺りの扉は、ただ板を張り合わせて造りましたという感じで、扉と次の扉の間隔もさほど広くない。まるでワンルームアパートの外観のようだ。


 足を引きずるようにしてどのくらい歩いただろうか。せめて見覚えのある場所にたどり着きたい。


(来る時に階段を下りたから、今度は上らないといけないんだけど、上り階段が見付からない)


 下るしかない階段を下りてみたのも悪かったが、そもそも食堂から進んだ方向が真逆だったのかもしれない。途中でそう思い、食堂に引き返そうとしたのだが、もはや食堂の場所さえ分からなくなっていた。

 完全に迷子である。


(冗談じゃなく、魔王城で遭難する!)


 こんなことになるなら、ラウムが迎えに来るまで食堂で待っていれば良かったのだ。

 ラウムには雑に扱われているが、ラウムの思惑通りに事を進めるためには、彼女にとって自分は死なれては困る人間だ。その人間がいつまでも部屋に戻って来ないとなれば、不安を覚えて迎えに来るはず。


(ラウムめ、早く迎えに来ーい)


 先ほど下りてしまった階段をどうにか見付けたので、再び上ってみた。

 またまた見覚えのない廊下である。違う階段を上ってしまったのかもしれない。


(それにしても――)


 誰とも会わない。もっと使用人がいても良いのではと思うくらいに魔王城の廊下は静まり返っている。

 もしかしたら、魔王城の中でも手前の建物では昼も夜も悪魔たちが行き交っているのかもしれない。だが、後ろの建物は、謂わば、魔王の私邸であるため、魔王の許しを得ている者しか立ち入れないようになっているらしかった。

 そして、この静まり具合をみるに、許されている者の人数は多くはなく、使用人の数も必要最低限に抑えているとしか思えない。


(――でなかったら、魔王をひとりで自室に帰さないよね。誰かしら付き添うもんじゃないの?)


 古今東西、王様は一人歩きなんかしない。……たぶん。

 中国ドラマでも韓国ドラマでも、医療ドラマの院長回診かよってくらいに宦官と女官をずらずら連れて歩いているシーンを見たことがある。ああいうイメージが王様にはある。

 一方、西洋の王様にも側近やら侍従やら近衛やらと呼ばれる人が常に隣にいるイメージだ。


 あくまでイメージでしょ、フィクションなのでは? と言われればその通りなので、実際には、人間界の歴史上の王様たちも一人で身軽に歩き回っていたのかもしれない。

 だって、映画やドラマの王様たちも一人歩きをしてヒロインと運命の出会いをしちゃったりするではないか。――って、それこそフィクションなんだろうけど。


(あ、そうか)


 ぽむっと手のひらをもう一方の手でつくった拳で打つ。


(ここ、兄貴のゲームの世界だ。まさにフィクションじゃん)


 つまり、この魔王は一人歩きをするものなのだ。

 妙に納得してみたものの、遭難中であることに変わらず、何の解決もしていなかった。


「あー。もう、無理だ。足がヤバい!」


 誰にも聞かれていないし、誰にも見られていないのを良いことに、その場に両脚を投げ出して座り込んだ。


「無理! 無理! 無理! もう歩けん!!」


 ひと気が無さすぎるから、この辺りは魔王城の中でも普段は使われていない場所なのかもしれない。ならば、偶然、誰かが通りかかるということもなさそうだ。


 ――使用人でも誰でもいいから、誰かと会えたら助けを求めることができるのに。


 魔王が自分の城で迷子になるなんてと変に思われるだろうけど、それはもう致し方がない。遭難状態が数日続けば、次は餓死の危機なのだ。


(だいたい、建物の構造がよく分からない)


 てっきり同じ形の建物が前後に並んでいるだけだと思っていたが、後ろの建物は『ロ』もしくは『田』か『目』の字の形をしているのかもしれない。『用』という可能性すらある。

 とすると、同じ場所をぐるぐる回りながら歩いている可能性もあるわけで、上り階段が見付からないのは、たどり着けていない場所があるということだ。


(同じところばかりで曲がらないように、曲がり角に印をつけて歩いてみよう)


 少し休んだことで気力を取り戻したので、よしっと掛け声をかけて膝を叩いて立ち上がろうとした。

 ――その時。


「陛下?」


 穏やかな呼び声が静かな廊下に反響するかのように聞こえた。ハッとして顔を上げれば、ツカツカと靴音を鳴らして駆け寄ってくるオセの姿が見えた。

 その姿が、生命の危機すら感じたピンチに現れた救いのヒーローのようで、ものすごく光輝いて目に映る。

 泣きたいくらいに、ホッとして、胸を締め付けられる思いで、すがり付きたくなった。


「陛下……ですか?」


 仰ぎ見れば、瑠璃色の瞳が驚きに見開かれている。オセは正面までやって来ると、ゆっくりと腰を下ろしてしゃがみ、魔王の姿をよく確かめようと顔を覗き込んできた。

 二人の瞳と瞳がひどく近い距離で交わう。視線がぴったりと合ってしまい、そのまま逸らせなくなってしまった。

 ぱらりと、ラウムがセットしてくれた髪が解れて、横髪の一筋が左頬に掛かる。

 すっとオセの手が伸びて来て、指先でその一筋を掬おうとして、彼の手のひらがそっと頬に触れた。


「陛下」


 ひんやりと冷たいオセの手。指先で耳の淵をなぞるように触られて、息が詰まりそうになる。

 そのまま頭を引き寄せられてキスされるんじゃないかという顔の近さに気付いて、ドキリと胸が跳ねた。


「オセ……」


 掠れた声が口から洩れた。

 頬から手をどけて欲しい。もっと離れて。変な気分になってしまう!


「オセ、どうしてここに?」


 すっと視線を逸らして問えば、オセは解れ毛を左耳の後ろに流してから手を引いた。


「陛下の居場所が分かるように陛下に印をつけました」

「え?」


 ――それって、どういうこと?


「ジーピーエス的な?」

「それは位置情報を測定する人間界の機器のことですか? 魔界には衛星がないので仕組みとしては異なりますが、対象の位置が分かるという点で似たようなものですね。陛下の居場所を知りたいと願うと、陛下がいらっしゃる場所がわたしの脳裏に浮かびます。何度も陛下に逃げられていますので、仕込んでみました」


 にこーと微笑んでオセは再び手を伸ばしてきて、指先で、ここです、と言いながら首の後ろを指し示した。

 どうやら自分の首の後ろには、オセがつけた模様を描いたような印がついているらしい。

 カッと感情に火がつく。一瞬でドキドキが走り去っていった。


「見えないんだけど!」

「陛下には見えない場所につけました。見えたら気付かれるでしょう?」

「なんかひどい! 知らない間にこんなことして!」


 憤って両手で拳を握り、ぷんすか怒れば、オセはくすくすと、さもおかしそうに笑った。


「けれど、助かったのでは? まさか陛下がこんなところで座り込んでいらっしゃるとは。足を痛めたのですか? 歩けますか?」


 無理だ、歩けない、と頭を左右に振ると、オセの両腕がさっと伸びて来て、掬い上げるように抱き上げられた。


「うわぁーっ!!」


 これは、所謂、お姫様抱っこというやつだ。足が空を蹴り、ふわりと抱き上げられた自分の体に驚いて思わず叫び声を上げると、オセは僅かに顔を顰める。


「耳もとで大きな声を上げないでください。あんまりうるさいと口を塞ぎますよ」

「両手ふさがってるのに?」

「なので、口で」

「えっ、口!?」


(はぁああああああああああー!? オセが壊れた! こんなの私が知っているオセじゃない! 私が知っているオセは口で口を塞ぐとか言わない!)


 ぐわぁっと血が顔に上って、たぶん自分の顔は真っ赤になっているはずだ。

 いや、待って。これはゲームの終盤で好感度が高まった時のオセだ。間違いない。


(もしかして、政務を頑張り過ぎたか? ――えっ、あれっぽちで?)


 兄のゲームでは、オセの好感度は政務を頑張ることで上がる。毎日こつこつと執務室に足を運び、政務を行うことを選択すると、オセと二人きりで過ごすことになるので、好感度が上がっていくのだ。


(頑張ったと言えるほど政務を頑張った覚えはないし、オセと過ごした時間もそこまで長くなかったはず。なのに、なんで⁉)


 強張った体がわなわなと震える。

 ぶっちゃけると、オセ推しだったりする。

 ――いや、推しと言うか、にわかファン? にわか推しとでも言うのか。兄のゲームを始める時にタイトル画面のイラストを見て、この人いいなぁと思ったのがオセだった。


 でもでも、いいなぁと思ったオセは、二次元のオセであって、三次元のオセとは別物だと思って接してきたんだけど、こんな風に抱き上げられたら、二次元だろうと三次元だろうと関係がなくなる!


(やばっ! かっこいいーっ!!)


 そんでもって、美しく整った顔が近い!

 さらさらな黒髪が目の前にあって、触ってみたくなる。――っていうか、さっき頬を触られたのだから、お返しに触ってもいいんじゃない?

 いやいや。触っても怒られたり嫌がられたりしない自信があっても、自分には触る勇気がない。だって、オセの髪を触ってしまったら、その後どんな顔をして、なんて言えばいいの?

 髪にゴミがついてたよ、って?

 ――あ、それならイケるかも。


「オセ……」

「べリス公のためにそのような格好をされたのですか?」

「え」


 呼び掛けた声を掻き消すように、オセが思いがけない問いを投げかけてきた。

 事実、べリスのための妖精ふわふわドレスなので、うん、と頷いて答えると、オセの表情がみるみる険しくなる。


「それはべリス公の想いを受け入れたという意味なのでしょうか?」

「ええっ。いや、違う」

「違う?」

「これは……。この格好は、えーっと、なんて言うか、ギャグ?」

「ギャグ?」


 物凄い至近距離でオセが視線を合わせて来る。


(ううっ。良い顔がめちゃ近い!)


 オセは危なげなく魔王の体を抱いたまま歩き始めた。見かけによらず体を鍛えているらしく、安定感が半端ない。細身の体のどこにそんな力があるのだろうかと思ってしまう。


「べリス公との晩餐は如何でしたか?」

「美味しかったよ」

「料理の話ではなく……。けれど、確かに、あの魚と肉は美味しかったですね」


 すぅっと目を細めてオセが微笑んだので、つられて自分も笑みが零れてしまう。


「オセも食べたんだね。美味しかったよね」

「あの魚と肉さえ持参していなかったら追い払えたのですが、大量に持って来られたので断れませんでした」


 忌々し気に言うオセを見て、なるほどと合点が行く。晩餐の前に会ったオセが暗い表情をしていたのは、べリスを追い払えなかったからだったのだ。


「べリスが嫌いなの?」


 小首を傾げて問えば、オセは少し驚いた表情を浮かべてから首を横に振った。


「いえ、好きですよ。どちらかと言えばですけど。幼い頃から存知上げていますし」


 それにと言いながらオセが廊下の角を曲がると、階段が姿を現した。

 ずっと捜していた上り階段である。こんなところにあったのかぁ、と思いながらも、実はもう、どこを歩いているのか分かっていない。


「べリス公は絶対に陛下を害しませんから。その点において信頼を寄せています」

「そうなの? 絶対に?」

「違う意味で害そうとする可能性はありますが。その点においては、まったく信用がなりません」

「えっ、どっち!? どういうこと!?」


 長い脚を美しく動かしてオセが階段を上り終える。返す返すも、まったくよろめいたり、グラつくことがない。体幹がめちゃくちゃ鍛えられていて、すごい。


「ところで、陛下は何をなっていたのですか? 食堂を出てから廊下をうろうろと歩き回っていらっしゃいましたよね? 探し物ですか?」

「うろうろしてたことも知ってるの!?」


 ――だったら、もっと早く迎えに来てほしかった!


 再び角を曲がると、直線に伸びた廊下に出る。このフロアの廊下には、赤い絨毯が敷かれている。

 魔王城は石造りであるため、基本的に床も壁も石材だ。

 廊下を歩けば、ブーツがカツカツと音を立てるが、このフロアだけは絨毯が音を吸収してくれるため、オセの足音が急に消えたように感じられた。

 見覚えのある廊下なので、もうすぐで魔王の部屋に着くと分かって、ホッとする。――いや、もっと早く、可能な限り急ぎで部屋に着いて欲しい! でないと、心臓が持たないっ!!

 オセの体温とか、腕の力強さとか、息遣いとか、あれこれ感じられて、恥ずかしいを通り越して居たたまれないのだ。


(オセは魔王だと思って、私のことを抱っこしているんだろうなぁ)


 ふと、当然と言えば当然なことに思い至って、ここまでして貰って申し訳ない気持ちである。


(オセ流GPSも本物につけられたら良かったのにね)


 そしたら、きっと……。


(ん? きっとなんだ?)


 違和感を覚えて、いったん考えを整理してみることにする。


(オセって、なんで本物の魔王にGPSをつけなかったのかな? かなり長い付き合いのように感じられたけど。んで、以前から逃げ回られていたわけでしょ。もっと早くから対策を立てていてもおかしくないと思うんだけど?)


 右に左に視線をぐるりと巡らせ、違和感を探して心のうちで引っ掛かりを覚えた言葉を繰り返す。


 ――本物の魔王にはGPSをつけていなった。


 そう、違和感はそこだ。

 果たして、本当にオセは本物の魔王にGPSをつけていなかったのだろうか。

 政務から逃げ回る魔王に痺れを切らし、GPSをつけることに思い至ったのが、たまたま今日だったという奇跡的な偶然も否定できないが、もしもオセが以前から魔王にGPSをつけていたとした?


(私が偽者だってこと、即行でバレないか?)


 ラウムが魔王の亡骸をどのようにしたのかは知らないが、おそらくどこかに隠していると仮定して、オセが本物につけたGPSは昨晩から位置を変えていないはずだ。

 それなのに、目の前にGPSのついていない魔王がいたら考えられることは二つ。


 GPSが魔王にバレて捨てられたか、目の前の魔王は魔王ではない。


 オセ流GPSがどのような品物なのか詳しくは分からないが、おそらく魔術のようなものだろう。人間界のGPSみたいな機器ではなく、対象に模様のような印をつけることで、対象の居場所が脳裏に浮かぶのだとか。

 ならば、うっかりGPSを落とすなんてことはあり得ないわけで、魔王がGPSに気付いてその場に放り捨てたということもなさそうだ。

 つまり、目の前にGPSの印がついていない魔王がいたら、それは偽者であり、印のついた本物の魔王は別の場所にいるということだ。


 ちなみに、オセの印に気付いた魔王がその印を消してGPSを無効化できるとしたら、印のない魔王が目の前に現れてもオセにはそれが本物なのか偽者なのか断定することができないだろう。

 だが、先程の自分とオセとの会話の中で、自分は印に気付いてなかったことをオセに告げている。つまり、魔王が印に気付いて自らの力で印を消したという可能性を否定してしまったのだ。


 結論。奇跡的な偶然によって、オセが今日GPSをつけようと思い至ってつけたわけでもない限り、本物の魔王にもGPSの印はついていて、最初から偽者だということがバレている。


(うわ。マジかー)


 でも、万にひとつの可能性も捨てきれないので、ご存知の通り偽者なんです、などと自分から白状するようなことは言ってはならない。問い詰められたわけでもないのに白状すれば、墓穴を掘ることになるからだ。


(――っていうか、オセは私が偽者だと知っていながら、知らない振りをしているの!?)


 ベリスとは違って、オセなら平然とそれができちゃう気がするが。


(でも、なんのために? こちらの出方や目的を見定めるためとか? それこそなんのために? まさか……)


 ――オセが魔王を殺したのでは?


 さっと血の気が引いて、体を強張らせる。

 もし、オセが犯人だとしたら、自分は今、もっともヤバい相手の腕の中にいるということではないか!


 不意にオセの歩みが止まった。ハッとして辺りを見渡せば、どうやら魔王の部屋の扉の前にたどり着いたようだ。

 オセは抱き上げていた魔王の体をそっと優しく床に下すと、その体が自力で立てるまで腕を掴んで支えてくれた。


「ありがとう……」


 どうしよう。ありがとうの次の言葉が思い浮かばなくて視線を下げてしまう。だって、目なんか合わせられない! 

 偽者だと既にバレている可能性が高いのに、むしろ、どうしろと?


「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」


 穏やかな声が耳をくすぐるように聞こえるが、それが却って怖い。穏やかが怖い!


(偽者だって分かっていて優しくしてくるって、どういう心境!? いや、心情!)


 偽者なんていつでも殺せるんだぞ、という牽制だろうか。偽物が魔王ぶって好き勝手するなよ的な。

 陛下、と呼ばれ、いつまでも俯いているわけにもいかないので、恐る恐る顔を上げれば、ぺたっと額に冷たさが押し付けられる。


「え」


 それはオセの体温の低い手のひらで、まるで幼子の熱を測るかのように額を覆っている。


「気分が優れませんか? 魔力が弱いようですが」

「まっ、魔力が弱いっ!?」


(だって、人間ですからーっ!)


 え、どういう意味? なんでそんなことをわざわざ言うの? 何これ? なんかの罠なの? 腹ん中を探られてるの?

 人間だって分かっていて魔力が弱いとか言って来るオセ、なんなの⁉


 はっと閃くように気付く。もしやオセは偽者であることは分かっていても、その偽者がまさか人間だとは思っていないのではないだろうか。

 たとえば、どこかの悪魔が魔王そっくりに変身していると思っているとか?


 脳内がパニック状態で言葉を返すことができず、ひたすらオセの顔を見上げていると、オセもわずかに困ったような表情を浮かべて小首を傾げた。


「わたしの魔力で構わなければ、分けましょうか? その方が早く体調が回復しますよ」

「え……?」


 魔力ってケーキか何かみたいに切り分けられるものなのだろうか? んで、体調によって弱まったりするものなのか?

 たとえそうだとしても、人間なもんで魔力は不要だし。魔力で体調が回復するとはとても思えない。


 何言ってんだ、オセ――と思った次の瞬間だった。

 オセの瑠璃色の瞳が熱に浮かされたような揺らぎを見せる。そして、額を覆っていた彼の手が後頭部の方に移動して、あっと思う間もなく、頭を強く引かれる。


「んっ」


 ――んんっ? んんん??? 


(っんん~~~っ!!)


 口が!

 いや、唇がっ!! そんでもって、舌!


 目を見開けば、オセの顔が近すぎて焦点が合わない。

 息が苦しい。だって、口が塞がれてる!

 逃げようと一歩後ろに退こうとするが、その前に腰に腕を回される。


(ちょっ、ちょっと待って!)


 ここじゃない!

 確かにゲームで主人公とオセのキスシーンはあったけど、ここじゃなかった!

 こんな早くキスなんかしないよ!


 そして、舌がヤバい。

 口をしっかり閉じておけば良かったんだけど、そんな余裕なんてなくて。ぬるっとなんか入ってきたなぁと思っていたら、あああああ……。


「ふあっ」


 鼻に掛かった声が漏れ、唇から飲み込めなかった唾液が溢れて、つーっと顎を伝って首に流れていく。

 両手でオセの胸板を押すが、びくともしなくて、眉を寄せて泣きそうになる。


(もう無理! ほんと無理! 息できない! 苦しい!)


 ガクッと膝を折って体を沈めれば、わずかに離れた唇をオセの唇が追って来る。

 わずかな隙に息は吸えたが、吐くことはできていなくて。吐けなきゃ次が吸えないじゃん? 鼻呼吸で頑張ってみるけれど、そんなんじゃあ、ぜんぜん酸素が足りない。

 口の中を蹂躙されているうちに頭がぼーっとしてくる。全身が脱力して、ああ、たぶん、この状態を『蕩けてる』と言うんだろうなぁと思った。


 キスを気持ち良いものと言った先人たちは、きっと勘違いをしているのだ。これは、気持ち良いのではなく、酸欠だ。

 酸欠で気を失うギリギリの状態を、恋だの愛だのといった魔法にかかって勘違いしてしまったのだ。なんて残念な。


「……っ」


 ようやくオセの唇が離れていく。彼は最後に互いの下唇を擦り合わせて、名残惜しそうに顔を遠ざけた。

 憎らし気にオセの濡れて赤い唇を視線で追えば、オセがにこーと笑みを浮かべる。


「今夜は早めにお休みください」


 気遣うようなことを言って真っ直ぐに立たせてくれると、オセは彼が蹂躙した唇を親指の腹で拭うと、再び笑みを浮かべて廊下を去っていった。


 その後ろ姿ときたら……! 


 わなわなと全身を震わせながらオセの背中を見送って、両手で拳を握る。地団太を踏んで心の中で叫んだ。


(――おのれ、オセめ!!)


 百歩譲ってファーストキスはくれてやってもいい。だけど、キスの前に愛だの恋だのを囁く方が先だろう!

 偽者だからって、そこんとこ省略されたのか?

 ――いや、ゲームの主人公も魔王の偽者だ。同じ偽者ではないか。

 なぜだろう。ゲームではこんなことなかった。ずっとずっとオセは優しくて、常に紳士だったのに。


(おかしい……)


 シナリオも狂ってきているし、キャラの設定も違ってる気がする。




【メモ】


『ふたつ月の国』の空

 昼…マゼンタ色の鬱々とした空に赤と青の二つの月が浮かぶ。

 二つの月はほとんど同時に東の空から昇り、青い月は西の地平線に落ちるが、赤い月は西の空を漂い、北へと移動してから沈む。

 二つの月は空を昇っていく速度がそれぞれ異なり、特に赤い月は正午を境に速度を変えるため、ふたつの月はまるで追いかけっこをしているように見える。


 夜…しっかりと暗い。白い月がひとつ。



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