35.無意識でも無自覚でも、効果は抜群だ!
いかなる者であっても、事が起きてしまった後なら何とでも言えるのだ。
それはハウレスであっても例外ではなく、彼は訳知り顔で、陛下の様子がおかしいと思っていました、などと言った。
真実そう思っていたのなら、口に出して言ってくれなきゃ意味がない。
ハウレスにしろ、オセにしろ、おかしいと思った時点でちゃんと指摘してくれていたら、ここまで大事にはならなかった。
おそらく記憶喪失1日目で――それがいったいどのような企みであったとしても――ラウムの企みは潰えていたはずだ。
唯一、べリスのみが怪しんで指摘してくれたが、他の者はとことんスルースキルが高すぎる!
(日頃の行いのせいだと言われたら、そこまでだけどさ)
ハウレスの大きな手が、その無事を確認するかのようにシトリーの頭を撫でてくる。
幼い頃から何度も撫でてくれる温かな手だ。いつだって深い安心をくれる。
抱いていた不満が徐々に解れて消えて、にこにこと笑顔を浮かべると、ハウレスも祖父のような笑みを浮かべた。
しかし、不意にハウレスの灰色の瞳が、ふっと細められた。暗く沈んだような冷ややかな眼光がシトリーの首の後ろに向けられる。
すぐにハウレスはシトリーの首の後ろに右手をかざし、ぽわっと優しい温もりを手のひらからシトリーの首の後ろへと伝えてきた。
がたんっと音が響いて、そちらに視線を向けると、オセが椅子を後ろに弾いて中腰姿勢でこちらを凝視している。
(えっ、何?)
オセの顔が怖すぎて、思わず視線を逸らす。一瞬でも見てはならないような表情をしていた。
ハウレスはため息をひとつ付くと、オセに向かって声を低く響かせた。
「オセ、こういうのはやめなさい。痛々しくて見られたものではない」
「……」
無言になったオセに、シトリーは、あっと思って首の後ろを手で押さえる。たしか、そこには数日前にオセにつけられた嚙み痕があったはずだ。
ハウレスの口ぶりから、おそらく綺麗に消されたのだろう。
明らかに気分を害しただろうオセと、そんなオセに強めの圧を無言でかけるハウレスの間に挟まれて、二人の顔を代わる代わる見上げることしかできない。怖すぎる。そして、非常に居心地が悪い。
重苦しい沈黙が部屋の中に降りて来て、長く長く居座った。
ぶはっ、とその場に不釣り合いな音が鳴り、崩れ落ちるように床に膝をついたのは、グイドだった。
両手も床について四つん這いになると、肩を大きく震わせ、ひぃーひぃー言いながら笑っている。
(えっ、ここ笑うとこ? ――っていうか、この雰囲気でよく笑えるなぁ)
グイドの空気クラッシャーぶりは尊敬に値する。
ハウレスもグイドの引き攣った笑い声を聞いて表情を緩めると、一度だけシトリーの頭をぽんっと軽く叩くように撫でた。
「陛下、ラウム伯の領地には、じいがお供しますぞ」
「ハウレスが一緒に来てくれるの? 嬉しいけど、オセは?」
「机の状態があれでは留守番するしかありませんね」
「――っ!!」
オセの顔色が変わり、グイドがますます引き攣った笑い声を響かせた。
オセはグイドを一瞥すると、苛立ちを隠し切れない表情で椅子を元の位置に戻して座った。そして、何事もなかったかのように羽根ペンを握り、書類に視線を落とす。
おそらく、そうして仕事に向かうことで周囲を遮断し、平常心を取り戻そうとしているのだろう。
「じいと二人旅では不安でしたら、べリス公も連れて参りましょう」
「あ、うん、ベリスね、いいね……」
「それでは、じいがべリス公に話をつけてきます。また後で顔を覗きに参ります」
お仕事がんばってください、と言い残し、ハウレスは揚々と執務室を出て行った。
グイドも腹を抱えながら、その後ろについて退出し、部屋の中の空気が再び重苦しくなる。
(ええーっ、この状態で私ひとり残していくのー!?)
グイドも鬼だと思ったが、ハウレスのオセに対する鬼っぷりも半端ない。
オセに対してここまで強く物が言えるのは、この『ふたつ月の』においては、ハウレスくらいだろう。
『ふたつ月の国』の者たちは、オセのことをシトリーの共同統治者として最大限に敬っていて、グイドや将軍たちはシトリーの家臣であってオセの家臣ではないが、『オセ殿』と呼んで彼の意向に沿おうとする。
一方、ハウレスはシトリーに対して臣下の礼を取っており、『ふたつ月の国』の財務官という立場だ。
これはオセの下の地位であるが、ハウレスには皇帝が与えた爵位があり、さらにオセの養い親である。
誕生したばかりのオセを拾って息子として育てたのがハウレスであるから、オセはハウレスの言葉をけして聞き流すことができないのだ。
カッカッカッと机を引っかくような音を響かせて、オセが羽根ペンで書類にサインを書いている。
表情こそいつも通りに見えるが、音に苛立ちが溢れ出ていた。
「オセ……」
名前を呼ぶと、はあああー、とオセが大きなため息をついた。オセも自身の苛立ちを自覚していて、持て余しているのだろう。
羽根ペンをペン置きに戻すと、机に両肘をついて顔を手で覆ってしまった。
「オセ?」
「大公の言われていることはもっともなことで、理解しているのですが……。正直に言いますと、記憶のない陛下は初々しくて」
「えっ、初々しい?」
はて、と首を傾げると、オセが顔を上げてシトリーに瑠璃色の瞳を向けてくる。
「魔力の少ない陛下は、きっと本能的に魔力の多い者の庇護を求めているのでしょう。擦り寄ってくるので、可愛らしいです」
「はぁ…」
いったい何を言い始めたのかと眉間に皺を寄せてオセを見上げた。
「なので、今の状態でも、不都合もありませんし、構わないのではないかと思っています」
「でも、血で血を洗う争いが……」
言いかけて、ああ、と腑に落ちる。だから、ハウレスは大慌てで帰ってきたのだ。
オセにはラウムを追うつもりも、シトリーの魔力を取り戻すつもりも、これっぽちもない。
普段はそうと見えなくとも、オセの自分の利を優先させるところが、じつに悪魔らしかった。
オセが椅子に座ったまま両腕を広げて呼ぶので、とことこと歩み寄り、彼の膝の上に先ほどと同じように乗って、その両腕の中に素直に収まった。
ぎゅっと抱き締められて、それに応えるようにオセの背中に両手を回すと、オセはシトリーの首筋に顔を埋めて、すぅっと息を吸った。
今はオセの好きなようにさせた方が良い。そう思って、じっとしていると、後ろ髪を掻き分けられて、露わになった首筋に唇を押し当てられる。
「噛むの?」
反射的にびくりと肩を揺らして問えば、オセは首を少しだけ左右に振った。
「噛みません」
「印を付け直すんでしょ?」
「大公に消されたのは嚙み痕だけなので、印は先日つけたものが残っています」
「そうなんだ」
ホッとして言うと、オセの舌がべろりとシトリーの首筋をなぞった。
(ひぃー。めちゃくちゃ噛みたそうじゃんかっ。なんて言うんだっけ、そういう衝動。ネックグリップ? オセって、豹なんだよね? 豹って、ネコ科だから? とにかくさ、すぐに舐めるの、マジやめてーっ)
シャックスの言っていた通り、いつか喰われるんじゃないかって不安になってきた。
首を竦めて、体を固くしていると、オセがこつんと額に額をぶつけてきた。目を見開いて彼を見上げると、唇が降りてくる。
「んっ」
しっとりと重ねて、ゆっくりと味わってから惜しむように離れると、オセが濡れた唇を開いて言った。
「これらを片付けたら、すぐに追いかけます」
これらと聞いて、机の上とテーブルに視線を流して、くすっと笑う。
「これ、終わるの?」
「終わらせます」
「……」
――うん、終わらなくても来るよね。絶対。
△▼
すぐにラウムを追うべきだとハウレスは主張したが、シトリーとハウレスが一緒に遠出するとなると、じゃあ明日ね、というわけにはいかない。
シトリーだけでも護衛が10軍団必要だと主張する者たちがいて、いや、しかし、10軍団はさすがに多すぎると反対する者もいた。
(うん、多すぎるね。途中で街に寄ったとしても、全員は街に入りきらないからね、10軍団は)
シトリー自身も反対派の一員であり、言いたいことは山ほどあったが、誘拐されたという前科があるためシトリー本人の意見は全く聞き入れて貰えず、議論の様子を黙って見守るしかなかった。
丸一日かけてようやく決着がつく。多すぎる派が勝利して、1中隊のみ連れていくことになった。
10軍団――つまり、6万の兵士を2百まで減らせたのだ。劇的な大勝利である。
(でも、私のイメージだと、私とハウレスとベリスと、あとは、10人くらいの護衛っていう感じだったんだけどなぁ)
想像の20倍の護衛だ。
人数が多ければ多いほど準備には時間がかかる。
戦時とは違って、着たきり雀というわけにはいかないので、衣装箱が荷車に乗る。荷車には他に、様々な食材が詰め込まれ、それらを調理する料理人も同行する。
どういう経由かは知らないが、女手も必要だろうとなって、十数人の女中や下女が同行する。すると、彼女たちのために馬車が必要となって、――だったら、陛下や大公にも馬車が必要だろうとなった。
大きくて華やかな馬車が城門の前に用意されているのを見て、これはもしかして旅行に行くのでは? と思い始めた。
ラウムの領地にはコルリス区を通って入る。
王都からひたすら北に向かって進むのだが、その途中にテツラ区があるので、テツラ区に出没する虎を退治するために1軍団を率いて向かうフォルマも共に城を出発することになった。
フォルマと彼の配下たちの支度が整うのを待っていたら、なんとドルシアが王都に到着した!
ブルーノが彼女を伴ってシトリーの自室にやってきた時、シトリーはべリスとゲームで遊んでいた。
今日こそミカエルをやっつけるんだと息巻いて戦っているところに現れたドルシアは、ラベンダー色の段々フリルのドレスを着ていて、今日は裸じゃないんだなと、べリスと目を合わせて笑った。
ドルシアのドレスは形良く大きく膨らんでいる。おそらくスカートを膨らませるためにペティコートを下に重ねていて、お尻の膨らみを美しく見せるためにウエストのくびれを矯正するコルセットを着けているのだろう。
長い亜麻色の髪をピンク色のリボンと一緒に大きく三つ編みにして背中に垂らしている。じっくりと彼女の顔を見てみると、シトリーよりも二つか三つほど年上のように見えた。
もちろん、見た目の話である。実年齢はシトリーの方が三千歳くらい年上だ。
「来て早々悪いんだけど、明日、出発だから」
そうドルシアに告げると、彼女は頬を上気させて、どこにでも付いて行きますと行先さえ聞かずに即答して、彼女の同行が決まった。
ちなみにドルシアは、侍女として王に仕えていれば、ワンチャンあるかもという考えで城にやって来たので、初日に着替えを手伝わせたら顔が真っ青になった。
「……女っ!?」
チュニックを脱いでサラシを取った胸を凝視している。たいして膨らんでいない胸なので、見間違いで済まされるかと心配したが、ちゃんとドルシアはおっぱいだと認識できたらしい。
べリスのように筋肉で納得されなくて良かった!
「なんでっ! えっ、でも、ああ、だからかぁーっ!」
ドルシアは膝から崩れ落ちた。
もしかしたら自分はドルシアのこの姿を見たくて彼女を城に呼び寄せたのかもしれない。床に蹲るドルシアを見下しながら、そんな意地の悪いことを思った。
おそらくドルシアはシルワの街ではお嬢様と呼ばれるような身分で、花よ蝶よと育てられたに違いない。
そんな自分があそこまでしたのに、まったく見向きもされなかったのは何故か、彼女は今、理解したのだ。
「私、王妃になれないじゃないのっ!」
「なれないね。家に帰る?」
「いいえ! 中級悪魔になって、老けない能力を手に入れます!」
なかなか切り替えが早い。
目論見がうまくいかなかった翌朝に道端に這いつくばって最後まで追い縋る父親譲りの図太さが彼女には備わっている。
正直、やり方は好きではないし、裏表のありそうな利己的な性格をしている。だけど、だからこそ扱いやすいかもしれない。
自分が彼女にとって利を与え続けられる限り、彼女はきっとシトリーを裏切らないだろう。
シトリーはドルシアを衣装部屋に連れて行くと、たくさん収納された衣装を見せながら言った。
「服を選んでくれないかな。このあとべリスと晩餐だから」
「分かりました。ドレスにしますか?」
衣裳部屋の中をさっと見渡して、ドルシアはすぐに女子コーナーを見付けて直行する。
「すごい! いろいろありますね! ああ、でも、最近シルワで流行しているドレスはありませんね。もっとドレスを増やしませんか?」
「ドレスはあんまり着ないんだ」
「えっ、なぜですか!? ――と言うより、なぜ男装をしていらっしゃるんですか?」
「さあ、なんでかな」
今すべてを彼女に話さなくても、おそらく彼女であれば、あらゆるところから情報を得てくるだろう。
そう思って、シトリーは苦笑を漏らしながら肩を竦めた。
さて、いよいよ出発の日である。
ハウレスは馬車に乗るが、シトリーのために用意された馬車にはドルシアだけが乗っている。
アリスを厩舎から連れて来させ、その背に乗ろうとしているところで、オセに捕まった。オセの両腕にきつく抱き締められて、文字通り、捕まったのだ。
「コルリス区に着きましたら、わたしの配下の者が待っています。セルジョという名です。長らくモンス区の領境を護ってきた男で、腕が立ちます。側に置いて、使ってください」
「うん」
「陛下の居場所と無事は把握していますが、できるだけ人を送って、状況を報せてください」
「うん。――ねえ、魔界には携帯電話的な物はないの? 誰かを行き来させるより早くて便利じゃん」
ラウムが帝都に配下を送ると言っていた時には何も疑問に思わなかったが、魔界にはゲーム機もあるのだと知っているので、スマホもあって良いと思う。
「あるにはあったんですが、廃れました」
「えっ、なんで!? 人間はスマホがないと外出もできないし、枕元に置いて寝ないと安心して眠れないんだよ。んで、スマホを無くしたら一大事だよ。壊れた時には泣きそうになるし、新しいスマホが届くまで、不安で不安で情緒ヤバくなるくらいだよ」
「病気ですか?」
「違うって。――で、なんで廃れたの?」
「簡単に言いますと、物が高価だったからです。連絡する相手も持っていないと使えませんし。それに多くの上級悪魔たちが利便性を感じられなかったのが原因だと思われます」
「えー、なんでだろう? 便利だと思うのに」
納得できないが、別れ際にこんなことでオセに突っかかっていても仕方がない。
どのくらい離れることになるのか分からないから、オセの体温や匂いを覚えておこうと思う。
自分が一番安心できる場所はオセの腕の中だということも、自分のこの体に記憶させたい。
オセの背に両腕を回して、ぎゅっと抱き着いて、それから、オセの顔を仰ぎ見る。
オセの瑠璃色の瞳が好きだ。すごく綺麗で、いつまでも見ていたい。
自分を抱き締めてくれる腕も、撫でてくれる大きな手も、長い指も好きだ。
足が長くて、背が高くて、かっこいい。眉間は狭く、すっと鼻筋が通っている。顎のラインがシャープで、触れてみたくなるほど滑らかな肌をしている。
それら全部が好き。そう、オセの全部が大好きだ。
「オセ、本当に一緒に行かないの?」
「――っ!!」
今さらだけど、最終確認を込めて聞いてみると、オセは一瞬怯んだような表情を浮かべた。何か言いかけて薄く唇を開き、そして、閉じる。
ああ、たぶん、オセは自分の机の上の書類の山を思い出しているんだろうな。そんな顔をしている。
この数日間でオセの机はどう変化したのかというと、さらに山が高くなったように見えた。シトリーとハウレスの旅支度に時間を取られてしまったのが原因だろう。
自分がオセだったら、あの山からさっさと逃げ出して旅に同行するが、オセはギリギリまで耐えて、ブチ切れるまで頑張るタイプだ。
きっと最終的には投げ出して追い駆けて来るのに決まっているのだから、最初から一緒に来れば良いのにと思うのだけど。
オセの顔を見上げて、揺れ動く瑠璃色に見入っていると、オセの顔がそっと近付いてきて、焦点が合わないくらいに近付いた時に口を塞がれる。
馬たちが足踏みをする蹄の音や嘶き声。
それから、ガヤガヤと兵士たちが言葉を交わし、槍の柄が板金鎧にぶつかる音が聞こえる。
息苦しくなって喘ぎ、オセから顔を背けようとすれば、頭の後ろに手を回されて、より深く口づけてきた。
(ああ、もうっ。まただよ、オセ。言葉を返せないからって、口で口を塞ぐなよ)
カラカラと馬車の車輪の音が聞こえた。馬車は、馬を二頭ずつ横に並ばせた四頭立ての箱型の馬車だ。
二人の横でぴたりと止まって、馬車の扉が開いた。
「オセ、やめなさい」
ハウレスの声である。続いて馬の蹄の音が響き、馬車の後ろで止まる。
「いや、あれはシトリーが悪い。能力が発動してる」
「なんと、陛下。出発の時刻ですぞ」
自分が悪い? 能力? 聞こえてきた言葉に疑問を感じながら、そっと瞼を開けば、べリスが腰に両手を当てて呆れたように言った。
「シトリー。いい加減にしてやらないと、オセの気が狂うぞ」
「ええーっ!!」
仰天して、叫び声と共にオセの体を両手で思いっきり突き飛ばした。オセは体を後ろに反らせるように二歩下がった。
オセの体温が遠ざかって、ひやりと冷たい空気が襲い来る。ぞくりとしながら、べリスに振り向いた。
「私、何もしてないっ!」
「無意識に能力を使ってんじゃねぇーか! 魔力が少しずつ戻ってきてるんだから気を付けろよ」
「本当に何もしてない!」
「いいんや、やってたね。瞳が金色に輝いていた。いつもの二割増しに」
「は? 能力を使うと、瞳が光るわけ?」
車のヘッドライトのように自分の両目が光っているイメージが脳裏に浮かぶ。
もしくは、ひと昔前の特撮テレビに登場していそうな眼からビームを出す怪獣だろうか。どちらにせよ、嫌すぎる!
地団太を踏むシトリーに向かって、ベリスは首を振った。
「ライトみたいに光るわけじゃなくて、ギラギラしてるんだよ」
「ギラギラ……。キラキラではなく?」
「ああ、ギラギラ」
「……」
いや、それも嫌なんだけど。だって、剥き出しの欲望が目に現れているみたいじゃん。
だけど、実際、シトリーの琥珀色の瞳には欲望が現れていたのかもしれない。オセと離れたくない気持ちと彼を強く求める気持ちは自覚できていた。
「ほら、さっさとアリスに乗れよ。そんな目でオセを見続けていたら、さすがの俺でも、オセが可愛そうになってくるだろ」
「ううっ。そんなつもりなかったのに……」
「分かってるって。オセも分かってるから何も言わねぇんだろ。シトリーが離れれば、すぐに正気に戻るから。――っていうか、記憶が完全じゃないくせに、魔力が戻ってきているのは、やっかいだな。まあ、その程度の魔力じゃあ、俺には通用しないけどな」
魔力が戻ってきていると言っても、下級悪魔程度の魔力しか戻っていないとべリスは言う。
そして、それ以上の魔力を取り戻すためには、ラウムに奪われた分の魔力を取り戻さなければならない。
「なんでべリスには通用しないのに、オセには効果があるの? おかしくない?」
「おかしくなんかないね。元々その能力は、対オセ用で目覚めた能力だから、オセに一番効くに決まってんだろ。少ない魔力でも効果抜群じゃねぇか」
「わぉ。――ごめん、オセ」
とりあえず謝っておこう。たぶん、きっと、多方面に渡って我慢させていたはずだ。
再びべリスに促されてアリスの背に乗ると、フォルマが自分の軍団の先頭で出発の合図を出す声が聞こえた。
アリスの手綱を両手で握って、その脚を前に踏み出させる前に、どうしてもと願って、我慢できずにオセに振り向いた。
「行ってきます」
乱れた前髪を利き手で掻き上げて、オセがゆっくりと顔を上げる。その瞳がシトリーを捕らえ、ふわっと微笑んだ。
【メモ】
ブルーノ…『わたし』『陛下』『オセ様』
シトリーの家令。執事っぽい燕尾服を着ている。
40歳前後。中級悪魔。黒髪。黒茶の瞳。
シトリーの私的な財産のいっさいを管理している。
ラウムに対して良い感情を持っていないが、べリスには好意的。
シトリーが『雷雪と宵の国』にいた頃から、シトリーに仕えている。




