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25.人間だと思う根拠を示せ


「この部屋の物は自由に使っていい」


 そう言い残し、カイムは空になった食器をトレイに乗せると、そのトレイを手に部屋から出て行った。

 総裁の地位と己の領地を持つカイムは、ずっと部屋に籠っていられるほど暇ではないのだ。


 ガチャリと部屋の外から鍵が掛けられる音が響いても、しばらく廊下の様子を窺って、カイムの気配が完全になくなってからベッドの方に振り向いた。

 ベッドの下に右手が見える。ズズッと左手も現れて、ぬっと黒い頭が出て来た。


「シャックス?」


 ベッドの下から現れた両手も頭もシャックスのものとは思えない小ささだ。

 華奢な肩。幼い背中。するりと両脚がベッドの下から出されて、ゆっくりと立ち上がったその姿は、どう見ても5歳くらいの子供だった。

 子供は顔を上げてこちらに灰色の瞳を向ける。


(あ)


 ――シャックスだ。


 いつかどこかで見た覚えのあるような懐かしさを感じる姿に声が大きくなる。


「その姿どうしたの!?」

「体に時間を逆行させる術をかけた。ベッドの下が狭い」

「可愛いっ!」


 向かい合うと、シャックスの背丈は自分の胸の下くらいの高さまでしかない。

 声は高く、瞳は大きい。そして、一番の可愛いポイントは、丸みを帯びてぷっくりとしたほっぺただ!


「ラブリー・シャックス! 抱きしめたいっ。いい!?」


 シャックスの正面で膝を床に着くと、シャックスが能面のような顔になって短くなった両腕を精いっぱい大きく広げた。


(くはっ!!)


 吐血しそうになりながら、シャックスの華奢な体をぎゅぅーっと両腕で抱き締めた。


「可愛い。可愛い。可愛い。そんで、なんでか懐かしいっ!」


 シャックスも短い両腕で、ひしっとしがみついてくれて、二人でぎゅうぎゅう抱き合った。


「なんでかとは? このくらいの歳の頃にはシトリーと我は一緒にいた」


 腕の中で怪訝そうにシャックスが言う。

 いつもはしゃがれた声なのに、ちょっぴり舌足らずな高い声で可愛い。


(そうなんだ? ――なら、二人はいつ、どうやって出会ったんだろう?)

「誕生して二年後くらいだった」


 ぽつりとぽつりとシャックスが語り出したので、また自分の心の声を聞かれてしまったのだと知る。


「我を拾った下級悪魔の夫婦が我の扱いに難儀し、ストラス様に我を預けた。その夫婦は、上級悪魔の赤子とは知らずに我を拾ったのだ。下級悪魔と上級悪魔では流れる時間が違う。我が独り立ちするまで夫婦は生きられない。故に、我はシトリーの遊び相手としてストラス様に引き取られたのだ」

「二歳からって、すごい長い付き合いなんだね。じゃあ、べリスとはいつ出会ったの?」

「五歳の頃だ。ストラス様が王位を得るために、帝都で力を持つ者と繋がろうと考え、目をつけたのがべリスの父君だった。べリスの父君は帝王陛下の側近。しかも、シトリーや我と同じ歳のひとり息子がいる。我らはべリスの遊び相手として、べリスの父君の城に連れていかれたのだ。以来、ベリスはシトリーに夢中だ」


 つまり、三人はストラスの野心のおかげで出会ったというわけだ。

 シャックスから昔話を聞くと、三人の幼い頃の様子が目に浮かぶような気がした。

 きっとシトリーとべリスは泥だらけになって遊び、一歩引いて後をついて来るシャックスに向かって笑いながら泥を投げ付けていたに違いない。


 思わず、くすりと笑みを漏らすと、シャックスが体を離して、はたと口を閉ざす。じぃーっと灰色の瞳でこちらを見つめてきた。

 何かと思い、見つめ返すと、シャックスがぱちぱちと数回瞬きを繰り返す。


「シトリーの能力は我には効かない。耐性がある」

「耐性?」


 シトリーの能力とは、5秒以上見つめられると性欲がわくとかいうものである。

 そんなつもりで見つめ返していたわけではないが、シトリーの能力に対して耐性があるとはいったいどういうことなのか気になってシャックスを促した。


「シトリーが能力に目覚めたのは、四歳の頃。オセに対して能力を発動させたのが初めてだった。あの時は、その……いろいろと……うん、大変だった」


(え?)


 若干、遠くを見るような目で言うので、いったい何が起きたのだろうかと不安になる。

 詳しく聞きたかったのだが、その前にシャックスが我に返って話を続ける。


「我はシトリーが能力に目覚める以前からシトリーと一緒にいるため、シトリーが能力を使っても我には効かない。ストラス様も同様だ」

「そういうものなの? 能力に目覚める前から一緒にいたら効かなくなるものなの? じゃあ、その頃は、オセとはずっと一緒ではなかったの?」

「あの頃、オセとは年に数回顔を合わせる程度の付き合いしかなかった。だが、シトリーが能力に目覚めた後、オセがシトリーを教育したいと言い出し、年に何度かストラス様の城に長期滞在するようになった」

「オセって、シトリーの教育係だったの?」

「ベリスも我も共に学んだ。――ところで、シトリ―。記憶に障害が生じたのか?」

「えっ」

「先ほどからシトリーの言動が解せぬ」


 シャックスの言葉に、はっとして琥珀色の瞳を大きく見開く。なるほど、それで先ほど、じぃーっと見つめられていたのか。

 さすが幼馴染だ。こうしてゆっくり向き合って話しているうちに違和感を抱いたに違いない。


 ――これはチャンスだ。


 ラウムの助けが当てになるのか分からない今、シャックスを自分の味方にする必要がある。

 そのためには、まず自分の正体を明かさなければならないのだが、自分からどのように話を切り出したら良いのか分からず、また、恐ろしくもあったのだ。 


(打ち明けるのなら今だ。シャックスから話を振ってくれた今しかない!)


 ごくりと喉を鳴らす。


(大丈夫。シャックスはちゃんと聞いてくれるはず)


 シャックスの前で正座をすると、ぎゅっと握った拳を膝の上に置いて重々しく口を開いた。


「じつは私、シトリーじゃないんだ」


 シャックスの片眉がぴくりと跳ね上がる。そして、そのまま自分もシャックスも黙り込むと、しばらく無音の時間が部屋に流れた。

 灰色の瞳が右を見たり、左を見たり、細められたりしながら、何度も瞬きながら自分を見つめている。

 シャックスは両脚を開き、膝を曲げてしゃがみ込んだ。所謂、ヤンキー座りだ。


「……」

「……」

「……それは、新しい遊びか?」

「違う。あのね、聞いて欲しいんだけど、私、人間なんだ」

「……人間ごっこか?」

「ちがーう! ごっこ遊びじゃないから、本当に本当の人間なんだって」

「ヒト科ヒト属ヒト?」

「サル目ヒト科ヒト属、ホモ・サピエンス!」

「ホモ・サピエンスとな!」


 心底驚いたとばかりにシャックスが瞳を大きく見開く。いささか、オーバーリアクション過ぎると怪しんでいると、そっと小さな手が近付いてきて、ペタリと額に触れた。


「熱ないから。正気だから」

「だが、どう見てもシトリーだ」

「そっくりさんなんだよ。人間界の日本っていう国で暮らしていた日本人なの」

「日本人?」


 疑わしそうな眼差しだ。仕方がない。カイムに金髪金眼にされてしまったので、どう見ても今の自分は日本人には見えない。

 だけど、シャックスは数日前に黒髪黒眼の自分の姿を見ているではないか。

 あの時の姿を思い出して欲しい。日本人らしかったではないか!


「それで、その日本人がなぜ魔界にいる?」


 ――おっと。シャックスが話を合わせてくれた。


 お互いに『違う、違う』と言い合っていても仕方がないと、先に一歩譲ってくれた感じだ。

 できるだけ簡単に、これまであったことをシャックスに話して聞かせる。


「私、ラウムに召喚されたんだ。本物のシトリーの身代わりが欲しかったみたいで、本物そっくりな姿をしている私を見付けて召喚したんだって、ラウムが言っていた」

「なぜシトリーの身代わりが必要なのだ?」


 ぐぐっと喉を鳴らす。ここは大事なところだ。

 ラウムがシトリーの身代わりを必要としていた理由は、シトリーが死んでしまったからだ。

 シトリーと親しかったシャックスに、その死を告げるのはとても酷であり、繊細な注意が必要だ。

 言葉を選ぶために口を閉ざしていると、シャックスが瞳を瞬いて、それから怪訝顔をする。


「死んだ? 馬鹿な。シトリーは死なない」


 ――心を読まれた!


 大事なところで、心の声が筒抜けになってしまうことを失念してしまった。

 もっと上手に言葉を選んで話すつもりだったが、こうなっては仕方がない、観念して口を開いた。


「ラウムが言っていたんだ。シトリーは亡くなったって。誰かに殺されたんだ」

「……あり得ない」

「信じたくない気持ちは分かるよ。でも――」

「そうではない」


 シャックスは片手を振って言葉を遮る。


「上級悪魔は死なないのだ」

「えっ」

「正確に言うと、上級悪魔はたとえ死んでも復活する。人間が悪しき心を捨て、悪意を抱かなくならない限り、上級悪魔は不滅だ」


 シャックスの言葉がうまく呑み込めなくて、頭を抱えたくなった。

 要するに、どういうことなのだろうか。


「人間の悪しき心とやらと悪意が、上級悪魔が死なないってことに、どんな関係があるの?」

「下級や中級悪魔とは異なり、上級悪魔は人間の悪しき心の象徴だ。それ故、上級悪魔は、たとえ死んだとしても、人間界から流れ込んでくる悪意によって復活場所で復活する。――シトリーは『異性への愛欲』を司っている。人間が異性に対する愛欲を失わない限り、シトリーは不滅だ」

「ええっと……」


 愛欲というのは、つまり、性的な欲求や欲望のことである。

 だから、すごく分かりやすく言えば、すべての人間が異性と『えっちしたい』と思わなくなれば、シトリーは消滅するが、誰かひとりでもそう思う限りシトリーは死なないということだ。

 

(いや、もう、間違いなく不滅じゃん。誰かひとりでも『えっちしたい』と思ったら復活するんでしょ。思わないとか、ないし! ――あっ‼ もしや、全人類が同性愛者になったら、シトリーって、消滅する!?)


 じつに興味のわく仮説だと思うけれど、今はそこを深掘りしていられないので、シャックスに話の続きを促した。


「シトリーが不滅だということは分かったけど……。でも、ラウムはシトリーが死んだと言ったんだ。もし本当にシトリーが死んだとして、その後、シトリーはどうなったと思う?」

「本当に死んだのなら――完全に消し飛んでしまった場合を除き――復活させるために亡骸を復活場所に運ばなければならない」

「消し飛ぶって?」

「亡骸が残らないくらいに燃え尽きたり、木っ端みじんになった場合だ。この場合、まず体を再生させる必要があるため、復活までに時間がかかる。――魔界には人間の悪意が流れ込んでくる場所がいくつかあり、シトリーは『ふたつ月の国』の中で一番強く悪意が湧く場所にたかどのを建てた。そこがシトリーの復活場所だ」

「堂?」

「そこそこ立派な建物だ。中に祭壇がある」


 ぱっと閃いて、もしかしてと声を上げた。


「教会みたいな建物のこと? 私、そこで召喚されたんだよ。――えっ、でも、あそこにシトリーはいなかったよ? 別の場所に運ばれたんじゃない? えー、でも、誰が運んだんだろう? ラウムかなぁ。あっ、そうだよ。ラウムがどこかに隠しているんだよ!」

「なんのために?」

「なんのって……」


 ――あれ? なんでだろう?


 シトリーは死んでも復活するのだから、その死を隠す必要はない。早いところ復活させてしまえば良いだけだ。

 死んでしまったシトリーの体を隠す必要って、なんだろう? 本物のシトリーには死んでいて欲しいということだろうか?

 今まで信じてきたものが大きく揺れ動いた気がして、胸がざわつく。そのまま押し黙ると、シャックスが呆れたように瞳を細め、面倒そうに口を開いた。


「シトリー、君は自分が人間だと言い張るが、そうだと思う根拠はなんだ?」

「根拠? 自分が人間であることの根拠? ――はぁ? そんなのないよ。人間だから人間だって言ってるだけで」

「確かに魔力が弱々しい。おそらく封じられているのだろう。同様に記憶も封じられていると考えられる」

「待って。封じられているって、何? 私、本当にシトリーじゃないから」

「シトリーだ。我がシトリーを見誤るはずがない」


 シャックスは幼い頃、シトリーとずっと共に過ごした。

 笑うのも、泣くのも、すべて分かち合い、一緒に遊び、一緒に学び、一緒に休んだ。何をするのも一緒で、心など境がないかのようだった。

 そう言って、シャックスは幼い顔を困惑させて、こちらを見上げてくる。


「シトリーは唯一無二。そっくりな者などあり得ない」

「でも……」


 そんなことを言われても、自分は人間で、悪魔であるはずがない。

 そもそも、この世界は兄がつくった乙女ゲームの世界であるはずで、自分はそのゲームに紛れ込んでしまっただけなのだ。


 ゲームの女主人公と同じ立ち位置なのが、昨今流行りの転生もの、あるいは、転移ものの漫画や小説のようで気になるが、自分はまだ夢オチの可能性も捨てていない。

 明日こそは現実世界で目覚めるはずと願いながら毎晩眠っている。


 ――そんな自分がシトリーなはずがない!


「じゃあさ、聞くけど」


 自分がシトリーではない証がひとつある。


「シトリーって、少年王だよね? 私、女なんだけど?」


 嘘をついていると思われたくなくて、シャックスの小さな左手を掴むと、自分の胸元にぎゅっと押し当てた。

 あるのか、ないのか、微妙なほどにしか膨らんでいない胸だが、まっ平らではない。

 それなりに柔らかい感触が左手を通してシャックスに伝わったはずだ。


 伺い見るようにシャックスに視線を向けると、彼は能面のような無表情でピシッと体を強張らせていた。

 スッとシャックスが左手を引いて、拳を握る。そして、ぼそりと呟くように言った。


「シトリーは、少女だ」

「え?」

「シトリーの体は少女のそれに違いない」


 ちょっと言っていることの意味が分からなくて言葉に詰まる。


「何言ってんの? シトリーは少年なんだよね? だから、私、サラシを胸にがっちり巻いていたんだけど? あれ、ちょっと苦しいんだよ。――今は、ちょっと訳あって巻いてないけどさ」


 目覚めたらカイムにすべて取られていたのだ。


「ラウムが言ってたよ、シトリーは少年だって」


 あれは確か魔界に召喚されたその日のことだ。衣装部屋でシトリーの性別についてラウムと話したことを思い出す。

 あの時、ラウムは『ほぼ男性です』と言っていた。そして、『ほぼ少年』だとも。

 ほぼ、ほぼ、言っていたので、ほぼってなんだよって思ったのを思い出す。


「あー、なるほど」


 シャックスが身の置き場がないかのように身じろいだので、唐突に腑に落ちた。


「だから『ほぼ』なのね」


 シトリーは、少女性を否定して少年のように生きる少女なのだ。

 衣装部屋には男物の服がたくさんあったけれど、衣裳部屋の奥、そして、隅の方には女性用のドレスがハンガーラックに掛けられていた。

 化粧台もあり、女子っぽい帽子やら鞄やら靴やらがいっぱいあったのだ。


(コスプレとか言いながら、普通に女の子の格好をしたかったんだろうなぁ)


 どんなに否定されても、何度も何度も押し殺しても、後ろを付き纏う影のように幾度も蘇って来る『少女』をシトリーは持て余していたに違いない。

 こくんとシャックスが頷いて言った。


「ストラス様は自身の片腕となる弟が欲しかったのだ。だから、シトリーを拾った時、躊躇うことなく弟とした」

「つまり、シトリーの本来の性別をガン無視したってことね」

「シトリーは少女性を否定され、禁じられながら育った。それ故に、ある時期からシトリーの体はいっさいの成長を止めた。女になることもなく、しかし、男になれるはずがなく、永遠に子供のままだ」


 もしシャックスの言う通り、自分がシトリーだとしたら、なるほど、どうりで女子高校生にしては、丸みのない体だと思う。

 人より成長の遅れた15歳なのだろうと軽く考えていたのだが、自分の体の生育の悪さの理由がわかった。

 だけど、そう簡単に認められるわけがない。まだ自分がシトリーだという確証が何もないのだから。


「べリスはどうしてシトリーを男だと思っているの? シトリーが女だと知っている者は多いの? 少ないの?」

「分からない。皆、口を閉ざしている。拾った赤子を拾った者がどのようにしようと、他人は口を挟めないからだ。知っていたとしても知らぬ振りをしているのだろう。べリスは――」


 シャックスはそこで言葉を切って、視線を漂わせると、唇を横に引き上げて、にやりと笑った。


「誰かに教えられずとも気付く者は気付く。故に、我もべリスにわざわざ教えてやることはない。それに、分かっていないべリスを眺めているのは、面白い」

「あー」


 今のは、納得と同意の『あー』だ。


 それにしても、政務でクリスピアの案件を読んだ時には、シトリーはストラスに拾われて幸運だったなぁと思ったものだ。

 クリスピアは誕生してすぐにガスパルに拾われ、物心なんてついているはずがない赤子のうちにガスパルの妻に定められてしまった。

 この、赤子を拾ったら拾った者の好きにしても良いという決まりは、問題が多すぎると思うのだが、まさかその問題がシトリーの身にも降りかかっていたとは予想だにしていなかった。


「だめだ。頭の中がぐるぐるする」


 自分は、ただ、偽者であることを告げて、人間界に戻る手助けをシャックスに求めたかっただけなのに、シャックスから返された言葉は『君はシトリーだ』である。

 それで、シトリーとストラスの歪んだ兄弟関係を聞かされても、今の自分にはシトリーの苦しみを背負うことはできない。

 少しひとりで考えたいと言うと、シャックスはくるりとこちらに背を向けた。そして、そのまま。カイムが部屋に戻って来るまでひと言も口を利かずに、ただ、ただ、そこにいてくれた。



 ▼△



 カイムが戻って来る気配を感じてシャックスは素早くベッドの下に潜り込んだ。

 カイムは扉を開いて、僅かに怯んで見せる。


「どうかしたのか?」


 様子がおかしいと訝しく思ったようだ。

 なんでもないと言いかけて、声も出すのも億劫だと感じるくらいに気持ちが落ちていることに気が付いた。

 カイムには緩く頭を左右に振って応えた。


「夕食を持ってきた。食べるだろう?」

「……うん」

「本当にどうしたんだ?」


 床に正座していることにも疑問を抱いたようだ。不安げな表情を浮かべて歩み寄ってきたので、すくっと立ち上がって自分からカイムの方に歩み寄った。


「ご飯、食べる」

「ああ、おう。――好き嫌いはないと聞いているから、適当に用意させて貰ったぞ」

「聞いてるって?」


 丸テーブルの椅子に腰を下ろしながら、誰にだろうかと問えば、カイムは気まずそうに頬を指で掻いた。


「あなたのことをいろいろ調べさせている」

「ストーカー?」

「なんとでも」


 カイムがにやっと笑ったので、つられて口元が緩む。それを見てカイムはホッとしたように微笑んだ。

 どうやら夕食はしっかりと食べられる物を用意してくれたみたいだ。


 まず目を惹いたのは、魚の煮込み料理である。一匹まるごと皿に盛られている。

 魚の周りにはミニトマトとオリーブ、黄色パプリカが散りばめられており、見た目が華やかだ。


 それから、ガラスの器に涼しげに盛り付けられている料理は、トマトとタコのマリネだろうか。

 一見すると、ビーフシチューのように見える料理は、時間を掛けてとろっとろに煮た牛肉料理だ。それらが次々とカイムの手でテーブルに並べられていく。


 頂きますと言って最初に口にしたのは、アサリのような貝がたくさん入ったスープだった。スプーンで掬って口元に近付けると、生姜の香りがする。

 黄色いトマトとバジルの葉で盛り付けられていて見た目も良く、その味はあっさりとしていて飲みやすかった。


「それは?」

「これか? 気になるのなら食べてみればいい」


 皿いっぱいに小さくて丸みを帯びた団子のようなものがたくさん盛られている。その上にクリーム系のソースがたっぷりと掛けられ、胡椒が振られている。

 口に入れると、カルボナーラソースのような味がした。それから、モチモチとした触感。団子のようなものは、おそらくジャガイモだ。

 茹でたジャガイモに小麦粉と卵を混ぜて茹でると、このような触感になるのだ。


「食べたら元気になってきたな」


 カイムに言われて、そうかもしれないと思いながら肉を口の中に放り込んだ。

 そして、自分ばかり食べている事実に気付く。


(シャックスのご飯どうしよう)


 カチャッと小さな音を立ててフォークとナイフから手を放すと、カイムの顔を見上げた。


「残りは後で食べるよ。このまま片付けないでくれる? それから、もう休みたい。悪いんだけど、ひとりにして」

「俺に出て行けと?」


 カイムの瞳がすぅっと細められた。その表情からひしひしと感じる怒りに、さっと血の気がひく。

 怒鳴り声を上げているわけでも、暴力を振るってくるわけでもないのだが、場の空気がビリビリと震えているような気がした。


(しまった! カイムを怒らせてしまった)


 その時、シトリー、と自分を呼ぶ微かな声が聞こえたような気がして耳を澄ませる。だが、すぐにそれが肉声ではないのだと気が付いた。

 耳ではなく、心を澄ませるように頭の中を空っぽにしてシャックスの声を拾い上げる。


〈シトリー〉

(シャックス?)

〈我のことは気にするな。携行食を持っている。出された食事はすべてシトリーが食べろ〉

(うん、わかった)


 心の声を聞く能力も、相手の心に自分の声を届けさせる能力も、どちらもシャックスのものだ。

 シャックスも相手がシトリーだからこそできるのだと言って沈黙した。

 フォークとナイフを手に取ると、食事を再開させながらカイムに言う。


「失言した。謝るよ。ごめん。出て行かなくていい」

「――そうか。わかった」


 カイムはテーブルに頬杖をついて、先ほどの怒気を翡翠色の瞳のみに宿しながら、にっこりと微笑んだ。

 美味しいか? と問いかけられて、ごくんとスープを喉に通してから頷く。

 美味しいことに間違いはないのだけど、最初のひと口に比べたら味気ない気がして、このまま、この部屋にいてはいけないのだと考えを改めた。


 ――一刻も早く逃げ出さなければならない。




【メモ】


シトリー…『私』・翼のある黄金の豹・翼の生えた黄金の豹が描かれた白い軍旗。

 『オセ』『べリス』『シャックス』『ラウム』ほぼすべて呼び捨て。ハウレスのことは『じい』、ストラスのことは『兄上』。

 『ふたつ月の国』の王。ブロンドの髪・琥珀色の瞳。誕生してすぐにストラスに拾われ、『弟』として養育される。

 4歳の時、オセに対する想いから能力に目覚める。

 5秒以上シトリーと目を合わせると、性欲を刺激されるため、『男女の愛欲を燃え上がらせる美しき者』や『愛と性を支配し、高らかに嘲笑する美しき者』などといった二つ名がつく。

 160年前に『ふたつ月』の土地が現れ、王位につく。

 それ以前は領地を持たない『君主(王子)』で、ストラスの領地内の南方に館を貰って暮らしていた。



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