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2.二次元イケメンが三次元イケメンに

 

 何ひとつイメージに違わずそれは佇んでいて、あんぐりと口を開けて、それを見上げてしまう。

 ヒビが入ったような蔦と深緑の苔に覆われた城壁。

 錆びた鉄の城門は無駄に装飾が多く、その装飾が華やかなものであればまだ良かったが、製造に携わった者たちの呻き声が聞こえて来そうなほどの禍々しさを放っている。


(あれだ。あれに似ている。ロダンの『地獄の門』)


 『地獄の門』というフレーズが脳裏に浮かんだとたん、うわぁーっと悲鳴を上げたくなった。

 まさにこの先に地獄のような展開が待ち受けているのではないかと、嫌な予感しかしない。

 門の高さを越えて尖塔が数本立っている。マゼンタ色の鬱々とした空に赤と青の二つの月が浮かび、それらを覆い隠すように桃色の雲が長く薄く帯のように浮かんでいる。


「ここが……」

「魔王城ですわ」

「やっぱり?」



 ▲▽



 魔王の身代わりを承諾した後、さっそく魔王の居城とやらに向かうこととなった。

 ラウムと共に教会のような建物を出ると、灰色に乾燥した大地が視野いっぱいに広がった。一歩踏み出すたびに土煙が舞うその大地を歩き続けると、やがて針金のように細く低い木々が姿を現す。


 そこで後ろを振り返ると、先ほどの建物は開けた土地にぽつんと奇妙に佇んでいたことを知る。

 いったい何のための建物だったのだろう。人の棲み処ではないことは確かだ。

 さらに歩き続け、低木の数が増えて土煙が舞わなくなった頃、ラウムが前方を指差して言った。


「あそこに馬車を待たせています。先ほどの場所は馬車で乗り付けることを禁じられているので、申し訳ありませんが、どうぞそこまで頑張って歩いてくださいね」


 視線を向ければ、屋根のついた立派な馬車の後ろ姿が見えた。いかにもファンタジー世界で王侯貴族が乗っていそうな装飾ごてごてしい箱型の馬車である。

 近付いて来る二人の気配を察したのか、御者台から男が下りて来て、踏み台を地面に置くと、馬車の扉を大きく開いた。


「うわっ!」


 馬車に乗り込もうとして、馬車に繋がれている獣が馬ではないことに気が付く。


「何あれ!?」

「魔獣ですけど?」


 さも当然ですけど何ですか? 的な口調でラウムが答えた。


「いや、見れば魔獣――って言うの? 魔界の獣なんだなぁって分かるけどさ」

「なら、どうしてお尋ねになったのでしょうか?」


(どうしてって……)


 限りなく馬に近い四つ足の獣なのだが、顔が恐ろしく凶悪で、口に収まり切れない鋭い牙や長過ぎる舌から涎がだらだら垂れている。

 眼球は赤く血走っているし、体毛はなく、鰐のような固い鱗で覆われていて絶対に撫でたくない感じだ。

 そんな獣を目にしたら、何あれ? と聞きたくなるのが、人間というものではないだろうか。


「――っていうか、馬を指して、あれ何? と聞かれたのに、動物ですって答えるように、魔獣ですって答えるって、ざつ過ぎない?」

「あら、あの魔獣の種族名が知りたかったんですか? エクウスです。人間界の馬のような獣です。ええ、まあ、ほぼ馬ですね」

「ほぼ?」

「懐いていないエクウスは、人間も悪魔もバリバリ食べます」

「肉食じゃん!」

「あの牙、あの見た目で草食だったら、むしろびっくりしませんか?」


(いや、それは分からんけど)


 獰猛そうなほぼ馬を横目に馬車に乗り込んで、そこからしばらくすると、土を蹴り上げるようにして駆けていたエクウスの蹄の音が変わった。

 カツカツと硬い物を叩くような音を聞いて馬車の窓から外を見ると、どうやら馬車は岩地を駆けているようだ。

 そうかと思えば、わずかに馬車が傾き、向かい合って座るラウムの方が高くなる。ゆるやかな坂道をのぼって行っているようだ。


 やがて馬車が止まり、ラウムに促されるように外に出ると、そこが崖の上だと知る。

 そして、岩肌が剝き出しとなった崖の一番高い場所にそれは佇んでいた。

 ――魔王城である。



 ▲▽



 おどろおどろしいという表現に相応しい不気味な城だ。

 正直、足を踏み入れたくはない。とはいえ、駄々を捏ねても無駄であろうことは、ラウムの表情を見れば分かった。

 彼女に腕をガッチリと掴まれて城門をくぐった。


 ぐわぁぐわぁと異様な鳴き声を響かせて、烏のような、蜥蜴のような生き物が頭上を飛んでいく。その影を追って視線を上げると、城壁の上に見張りの兵士が数人佇んでいるのが見えた。

 石造りの建物に囲まれた石畳の上を歩き進むと、そのずっと奥まったところに大きな扉がある。大きいなと思いながら近付けば、近付くほど、最初に思った以上にその扉は大きく、おおよそ三階建ての建物ほどの高さがあった。


 扉の左右にも兵士が立っている。一見、人間のように見える彼らだが、当然、人間のはずがない。

 扉に向かって来る者の姿を見て、彼らは左右から大きな扉に手を触れさせ――その見かけから絶対に軽いはずがないのに――扉を容易に押し開けた。


「陛下!」


 まさに建物の中に足を踏み入れたとたんだった。その姿を見せるより早く、遠くからでもよく通る声が辺りに響いて聞こえる。


「やっと戻られたのですか。今朝からずっと待っていました。昨日、約束しましたよね? 今日こそは、と」


 青みかかった黒髪に、瑠璃色の瞳。すらりと背が高い青年がロングブーツの踵を鳴らして歩み寄って来た。

 彼は黒い長袍チャンパオに似た服を身に纏っているが、それは所謂チャイナ服そのものではなく、西洋ファンタジー風にアレンジされている。

 青糸の刺繍が施された襟元や、ゆとりのある袖は長袍の特徴を示していたが、フロントに大きくスリットが入り、フィッシュテールスカートのように前面よりも後面の丈の方が長く膝裏まで覆っていた。

 長袍の下には黒いズボンを穿いていて、腰元で濃藍の布を巻き、同じ色のゆったりとしたマントを羽織っている。


「……オセ?」


 目の前の青年の容貌、そして、彼の服装を見て、思い出した名前を口にしてみる。

 疑問形なのは、二次元と三次元の違いだ。兄がつくったゲームの世界に入り込んでしまったのだと気が付くまでに、やや時間がかかったのも、まさにそれが原因である。


 ゲームのストーリー上、一番接することが多いキャラクターはラウムだ。

 当然、ラウムの顔はイラストで何度も目にしている。であるのなら、ラウムと出会った瞬間にその可能性に気が付いても良かったはずだ。――ところが、である。

 今、この世界は自分にとって二次元のゲームの世界ではなく、三次元なリアルな世界だ。出会ったラウムも二次元ではなく、三次元であり、なんというか実写版なのである。


(漫画やアニメを実写化されたみたいな感じなんだよね。だから、微妙に違うわけだよ)  


 つまり、今の気分は、ゲームの登場人物であるオセの実写版俳優と出会ってしまった気分である。


「はい、オセ様です」


 ラウムがオセだと思われる青年に向かって片手を掲げ、謎にオセを紹介をした。

 兄のゲームでもここでラウムは雑な紹介をしてゲームの主人公を困惑させているのだから、これはゲーム通りだと言って良い。


「陛下、政務を始める時間をとっくに過ぎてしまっています。直ちに執務室にいらしてください」

「政務……?」


 そうだ。ゲームでもここでオセと出会い、ラウムから引き離されて、選択肢もなく強制的に執務室に連れて行かれる。

 ラウムからはオセという名前しか聞けず、オセがどのような身分にあって、魔王とどのような関係なのか、どのように彼と接すればいいのか、まったく分からない状況で彼と二人っきりになってしまうのだ。


「さぁ、行きましょう」

「ちょっ、ちょっと待って!!」


 抵抗なんてまったくできず、オセの手が伸びて来て手首を掴まれると、その手を離したら二度と会えないとばかりにきつく握られる。有無を言わさず、オセはいたいけな女子高校生の体を引きずるようにしてエントランスから城の奥へ奥へと移動し始めた。


「痛い、痛い。力、強いから! 腕、もげる! 肩が壊れるーっ!! 手首がちぎれる!」 

「痛くないようにちゃんと自分の足で歩いてついて来てください」

「歩くの早い!」

「急いでいますから」

「手首の血が止まってる! ほんと痛い! なんか手が痺れてきた! じんじんする」

「……仕方がないですね」


 カツンとブーツの踵を鳴らしてオセがぴたりと歩みを止めた。


「手は離せません。何度も逃げられていますから」

「じゃあ、普通に手を繋ごうよ。その方が痛くない」


 ほら、と言って手首を掴まれている方の手をパッと広げて見せると、オセはわずかに考え込むような間をつくってから手首を放し、差し出された手を取る。


「まぁ、うらやましいこと。陛下と手を繋いでいらっしゃるなんて」


 後ろからついて来ていたラウムの甲高い声が響く。


「わたくしも陛下と手を繋ぎたいですぅ」


 そう言ってラウムがオセとは反対側の方の手を握ってくる。オセの片眉がぴくんと跳ね上がった。


「ラウム伯、貴女はいつまで滞在なさるおつもりですか? ご自身の居城にお戻りになられた方が良いのでは?」

「それ、オセ様がおっしゃいますか? オセ様こそご自分の館に戻られた方が良いのでは?」

「わたしは陛下と共に政務を行うため、この城に部屋を頂いております」


 貴女はどんなに滞在し続けていても客室ですよね的なオセの心の声が聞こえた気がした。

 ゲームでも仲が良いとは言い難いラウムとオセだが、この世界では輪をかけて仲がよろしくなさそうだ。


「陛下の政務の妨げになるので、貴女はご遠慮頂きたい」


 暗に去れと言ってオセは冷ややかな目でラウムを見据える。

 ラウムはにっこりと不気味な笑みを浮かべた。


「では、わたくしは政務でお疲れな陛下のために甘い物をご用意しておりますね。陛下、がんばってください」


 最後にぎゅっと手を握り締めてからラウムは手を放すと、膝丈スカートをひらりと翻し、廊下をぽんぽん跳ねるように歩いて去って行った。


「さあ、行きましょう」


 ラウムの背中を見送ると、オセに促されて再び魔王城の廊下を進む。

 魔王城は外観こそ陰鬱で不気味だが、内装はそれほどでもなかった。つまり、人間でも住めそうな感じだ。


 薄暗く、蜘蛛の巣が張り巡らされているのではと身構えていたのだが、照明は思いのほか明るく、掃除の行き届いた廊下は、蜘蛛の巣どころか鏡のように輝いている。

 そして、廊下の途中で擦れ違うメイド服の女達はみんな小奇麗で、美しい仕草でお辞儀をしてくる。

 思わず、お辞儀を返しそうになって、おそらく本物の魔王は使用人相手にお辞儀はしないだろうと思って踏み止まった。


 ようやくオセの足が止まる。階段も上ったし、エントランスからかなり奥まったところまでやって来ていた。

 焦げ茶色の何やら細かい木彫が施された扉を開くと、いかにも偉い人が使っていそうな豪華な部屋が現れる。

 床に敷かれた絨毯の模様の繊細さ、黒光りする机の装飾、革の椅子の艶やかさ、壁面の大きな本棚、どこを見てもテンションが上がる部屋だ。まるで総理大臣や大統領の執務室みたいである。


「さっそく始めましょう。十日前から滞っておりますから、かなりの量ですよ」

「え、十日もサボってたの?」

「見事に逃げおおせていらっしゃいましたね」


 にこーっと微笑みを浮かべているが、オセのその瞳はちっとも笑ってはいない。さすが悪魔。怖い。

 オセという悪魔は、見た目の年齢が主人公よりも年上で、知的な印象のある青年だ。

 例えるのなら、教育実習にやってきた大学生のお兄さん。教科は国語っていう感じである。


 じつは兄のゲームで、オセは攻略対象のキャラクターだ。

 悪魔にしては温和で、比較的攻略しやすいキャラクターでもあり、実際、自分はオセを一番最初に攻略した。

 とはいえ、忘れてはならないことに、どんなに優しげであってもオセも悪魔なのである。

 ゲームではオセに殺されてバッドエンドになったことがある。偽物だとバレて怒らせ、そして、殺されたのである。

 黒豹のような獣の姿に変身したオセに喉元を嚙み切られて死ぬというエンディングのイラストを思い出して、ぞっとした。


(気を付けなきゃ)


 手を引かれながら執務机の前まで移動し、促されて社長椅子のような立派な椅子に座ると、オセが机の上に書類を広げた。


(――ていうか、魔王って、机に向かって事務仕事をするのね)


 兄のつくったゲームだからなのか。この世界での魔王は、人間の王様――あるいは、王に代わる国のトップとやっていることが同じらしい。

 民を束ね、税を徴収し、国を治める。

 てっきり悪魔は無秩序で、思うがままに喰って、寝て、遊んで、そうやって生きているのかと思っていたから意外だ。


(魔王の仕事がどんなもんだか知らないけど、やるっきゃないか)


 仕方なく広げられた書類に視線を落としたわけだが、そこで誤算に気が付いた。まったく読めないのである。


(こ、こ、これは……っ!?)


 アルファベットのように見えるが、幼い子供が書いたみたいに傾いていたり、一本線が足りなかったり、繋がってはならんところが繋がって書かれていたりする。

 たとえば、『Ⅽ』の丸みが足りなくて『く』の字になっていたり、『Ⅼ』は『レ』に見える。その上、完全に分からない文字も混ざっていて、とにかく読めない。

 癖の強い者が書いた文章なのかと思ったが、違った。そもそも自分が知っているアルファベットでも英文でもはないのだ。


(英語ならなんとなく読めたかもしれないのに。……どうしよう。読めないなんて言ったら、偽者だとバレて殺される)


 まだまだゲームの序盤である。こんなに早く殺されるわけにはいかない。

 ちらりとオセの顔を盗み見る。彼は彼の執務机で仕事をしている。二つの机はL字に並べられていて、オセの机の方が書類がてんこ盛りに積み重ねられていた。


(うわっ。オセってば、大変そうじゃん)


 やばい、怖い、どうしようという気持ちが吹き飛ぶほどの書類の山である。見れば見るほど、オセに対する同情心が恐怖心に取って代わるように塗り変わっていく。

 視線を向ければ、オセは山を攻略すべしと黙々と書類の上で羽ペンを動かしていた。

 彼のさらさらした前髪は流れるように額を覆っていて、後ろ髪から覗く白いうなじは何やら色っぽい。形の良い眉をやや顰めながら伏し目がちに書類を読んでいる姿は、なんというか絵になっている。いつまでも見ていられそうである。


 ふとオセが視線に気が付いてこちらに振り向いた。目が合うと、少し驚いたような表情をしてから、にこーっと穏やかな笑みを浮かべた。


「何か不明な点でもございましたか?」

「えっ、ええっと……」


(すべてが不明です!)


 もちろんそんなこと、口が裂けても言えない。心の中で叫んだだけである。


「大丈夫。何でもない。さてと、私もやろうかな」


 がんばるぞーとぎこちなく拳を上げて見せて、再び書類に視線を戻した。

 すると――。


(んん?)


 目の錯覚か、でなければ、眼精疲労か。奇妙なアルファベットが奇妙に踊って見える。実に奇妙だ。

 ゆらゆらと揺れる文字に目を瞬く。瞬きひとつすると、文字がぼやけ。もうひとつ瞬きをすると、今度は文字が二重になって見えた。

 それから、ぴんっと姿勢を正したかのように文字たちが整列して、はっきりとピントが合って見えるようになった。


(あれ?)


 ――読める。


 文字が日本語に変化したわけではない。とはいえ、相変わらず英文でもない。奇妙なアルファベットであることは変わらずなのに、なぜか読めるのだ。

 どういう仕様なのかは分からないが、自動翻訳機能を獲得したらしい。


(やったね! よく分からないけど、やったね! ラッキー!!  ――ええっと、どれどれ? なんて書いてあるのかなっと。『セプテントリオ区では孤児が溢れ、治安が悪化しています』? んん?)


 悪魔が治安を気にしてることに少なからず衝撃を受ける。悪魔が気にするほどの治安悪化なら、おそらく人間ならば即死レベルの危険地帯だろう。


(いったい、どんな場所なんだ。セプテントリオ区! 絶対行きたくない)


 ハラハラしながら先を読み進めていくと、どうやらこの書類は孤児たちの対応を求める嘆願書のようだ。

 ふと視線を机の上に流せば、魔王の机の上には書類が入った箱が三つ置かれている。箱には左から順に『決』『未決』『保留』と書かれていて、それぞれ箱の中に書類が入っている。

『未決』の箱に手を伸ばして書類をまとめて数枚取り、パラパラと流し読むと、多くは先の書類同様、嘆願書のようだ。


 カンプス区では穀物が不作。

 モンス区は国境が近いので、常に不穏。

 コルリス区には少女を攫って喰っている女がいるが、証拠がないため捕らえることができない。


 どうにかして欲しいという民からの嘆願書を読んで、どうにかすべきだと思った案件にサインを書き込むのが魔王の仕事らしい。

 その後、魔王のサインのある嘆願書はオセのもとにいく。オセはそれを是と判断すると、グイドという名の悪魔のもとに嘆願書を回す。そして、グイドは彼の部下に命じて解決案をつくらせる。


 そうして解決案はハウレスという名の悪魔のもとに届き、この悪魔がサインをしなければ、オセのもとに提出されることなく、グイドに差し戻される。そうなれば、グイドたちは却下された案を再考し、修正したものを再びハウレスに提出しなければならないのだ。


 ハウレスは、この国の財政を司っており、解決案が予算的に実現可能か否かでサインをしている。ハウレスがサインをすれば、予算の面で実現可能なわけなので、オセは他の方面でも問題がないかを判断してサインをする。


 オセのサインがされた解決案は魔王の『未決』の箱に入れられ、魔王はその案が気に入ればサインをして『決』の箱に入れる。そして、再びオセの元に戻ってきた解決案をオセが命令書として書き直し、実際にそれを行う臣下を魔王と共に選び、命令を伝えるのである。


 嘆願書と解決案、任命書などの書類をひと通り目を通して魔王の仕事とこの国の政治システムをざっくりと理解すると、さっそくサインをしても良さそうな書類を選んだ。一番最初に読んだ治安悪化の案件である。


(ええっと、魔王のサインは……っと)


 『決』の箱から既にサインされている書類を取り出すと、羽ペンに黒インクをつけて魔王のサインを見よう見まねで書いてみる。


(ええっと、Sっぽい字を大きめに書いて、ここでくるんと回って、rでiの筆記体ひっきたいっぽいやつ。……うん、書けた。上出来。よし、次!)


 次にサインすべき書類に手を伸ばしかけた時だった。


 ―― コンコン ――


 軽い音が響いた。


「失礼致します」


 扉が開き、ラウムがメイドのような格好をして現れた。ケーキとティーセットを乗せたワゴンを引いている。


「陛下は政務中です」

「休憩の時間ですぅ。いつまでもオセ様が陛下を独り占めにしないてください。――あと、ベリス公がお見えです」


 明らかに最後に告げた用件こそ最重要事項だろう。さっとオセの顔色が変わった。


「べリス公? なぜ急に」


 羽ペンを机の上に置くと、オセは椅子から腰を上げて、こちらに振り向いた。


「陛下、わたしが参ります。ですから、陛下はどうぞ休憩なさってください」

「え、いいの?」


 結構な時間が過ぎたが、結局、サインをした書類は治安悪化の一枚だけである。ほとんど何もやっていないに等しい。

 三つの箱の量が変化していないことにオセも気付いているはずなのに、彼は穏やかに微笑んで頷いた。


「大人しく机に向かって座り、真剣なご様子で嘆願書に目を通してくださいました。深く物事を考えていらしたこと、頼もしくも、嬉しく思います。どうぞ休憩なさってください」


 そう言うとオセは慌ただしく執務室を出て行った。

 魔王の仕事とは何ぞえ? と三つの箱を掻き回してさぐっていた様子が、オセには真面目に政務をしているように見えたらしい。


(ラッキー。何とかなった!)


 生き延びたことを喜んでいると、ラウムが近くまでワゴンを押してきて、にこにこと笑みを浮かべて言った。次なる試練の予感である。


「カンプス産トリティクムとガルスの卵を混ぜてふんわり焼いたスポンジと、コルリスで育てたカペルの乳から作った濃厚な生クリーム、セプテントリオ産フラグムの実たっぷりのケーキです」


 ――いや、もう。魔界用語が多すぎてわけわからん。


 ラウムに差し出されたイチゴのショートケーキっぽい物体を眺めながら、分からない為りにも聞こえてきた言葉の中に、先ほど書類で見かけた地名があったので心の中でツッコミを入れてみる。


(セプテントリオって、治安が悪いとこじゃん! フラグムっていうイチゴに似た果物をつくってんの!? 治安悪いのに!? コルリスって、たしか、少女を攫って喰ってる女がいるところじゃんか。カペルってなんだ? どんな獣の乳だよ!)


 どこからどう見ても普通にショートケーキである。

 食べられそうであるが、なんせ魔界の食べ物である。得体が知れない。

 食べてくださいと言わんばかりに差し出されたが、本当に食べられる物なのだろうか。悪魔は食べられても、人間が食べたら即死するケーキではなかろうか。

 見た目が本当に美味しそうなだけに、心底、怖すぎる!




【メモ】


オセ……『わたし』・黒豹・『陛下』『あなた』後に『貴女』・彼が単に『大公』と呼んだらハウレスのこと。

 『ラウム伯』『べリス公』『シャックス侯』・他は呼び捨て。

 青みかかった黒髪。瑠璃色の瞳。すらりと背が高く、とにかく脚が長い。指も細くて長い。端正な顔立ち。

 見た目は、教育実習に来た大学生くらいの年齢。186センチ。

 王都から見て、北西に領地を持つ。総裁。

 自分の館を筋肉ムキムキの配下たちに占拠され、スポーツジム化されているため帰りたくない。

 青備えの軍団を持つ。青地に黒豹が描かれた軍旗。



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