18.雨のように丸太杭が降った街
※グロ描写あり
大公領に入ったとオセが教えてくれてからも黙々と進むと、突然ザアザアと雨が降り始めた。
オセが片手を頭上に掲げて大きなビニール傘のようなバリアを張った。同じようにあちらこちらでバリアの傘が開くが、オセほど大きなバリアは他にない。
皆はせいぜい数人程度が中に入れる大きさだが、オセは百人の頭上をひとりで護っていた。
「これは魔力で降らせた雨かと思われます。おそらく降らせたのは、ネリッサでしょう」
「ネリッサ?」
オセの言葉を繰り返すと、馬を横に寄せてラウムがそっと小声で教えてくれる。
「プロブス将軍の副官です。水の魔法が得意なのです」
雨を降らせるためには、大きな魔力を必要としていて、さらに水の魔法の適正がないといけないらしい。
つまり、誰でもできることではないので、雨の中に魔力を感じたのなら、その雨を降らせた者を推測することは容易いのだという。
「ネリッサであるなら、プロブスはネムスの街に留まっているかもしれません」
ふたつの月が東の空に昇ってから随分と時間が経った。
月は追いかけっこをするように空高く昇っていき、先に進む月がちょうど頭の真上にやってきた時にネムスの街壁が見えた。
気付くと、いつの間にか雨がやんでいる。
「陛下、これを口に当ててください」
ラウムが細長い白い布を差し出してくる。それをマフラーのように首に巻いてから口元の部分を引っ張って顔の下半分を覆う。
なぜ口を覆う必要があるのだろうかと不思議に思っていると、すぐに焦げた臭いが辺りに立ち込め始めた。
しかし、それだけではない。焦げ臭さに混ざって異様な臭いがする。
それを香ばしいと感じる瞬間もあったが、鼻を刺すような刺激臭がしたり、むせるような、吐き気を催すような臭いだと感じる時もあった。
街壁に近付くと、それがひどく損傷していることに気が付いた。積み重ねられた石が砕け、穴が開いていたり、煤に覆われていたりする。
あちらこちらに飛び散っている赤色は、血だろうか。バケツをひっくり返したように赤黒く染まった地面を見付けると、ぞっと血の気が引いた。
「街壁の外でも戦闘があったようですね」
ラウムがまるで独り言のように言うのを聞いて、こくんと頷いた。
その時、街壁の大門から何者か出て来るの見えた。馬にも防具を纏わせ、自身も板金鎧をしっかりと身に付け、その上に漆黒のマントを羽織っている。
「プロブスです」
オセが言うや否や、プロブスが馬を駆けさせ近付いてくる。彼は隊列の先頭を行くフォルマと軽く挨拶を交わすと、フォルマと共にこちらに駆けてきた。
フォルマの副官が進軍を止めて休息の合図を出す。隊列は街壁の外で広がるようにして昼食の支度を始めた。
「陛下、オセ様」
プロブスとフォルマは揃って下馬すると、プロブスが跪いて頭を深く下げる。オセは素早く馬から降りて、プロブスの体を支えるようにして彼を立たせた。
「プロブス、よく無事で」
「オセ様、無念です。まったく力が及びませんでした。申し訳ございません」
オセは他の二人の将軍とは少しだけ異なった気安い態度でプロブスに接している。
プロブスの方もオセに信頼を寄せている様子が口調や態度から見て取れた。
「いったいここで何が起きたんだ?」
オセが問いかけると、沈痛な面持ちでプロブスが顔を俯かせて、ぽつりぽつりと語り出した。
「ネムスの街の上空に天使が穴を開けたとの情報を得て、ガルバ将軍と連絡を取りつつ、ネムスに向かって進軍しました。しかし、到着した時には既に天使軍が油を蒔いて、火矢を放っていました。ガルバ将軍は炎の中でも構わず飛び込み、天使軍と戦う覚悟がおありだったのですが、ここでガルバ将軍を失うわけにはいかず、わたしの判断で街の中には入らず、ガルバ将軍と共に外から少しでも天使の数を減らすことに力を注いでいました。――しかし、その結果がこれです。天使軍は街の外にいる我々には見向きもせず、執拗に街を攻撃し続けました。朝になり、天使軍が去った後、街の惨状を見て、ガルバ将軍を止めたことが正解だったのか、わたしには分からなくなりました。共に炎の中へ飛び込んで、ひとりでも民を救うべきだったのではと思って悔やまれます」
「雨を降らせたのは、ネリッサ?」
自分も馬から降りてオセの隣に立つと、プロブスに問いかける。
プロブスの癖のない銀髪は背中を覆うように長く伸ばされ、マントの漆黒に雪が降り積もっているかのように見えた。
すごく綺麗だと目を奪われていると、彼がアイスブルーの瞳をこちらに向けて深く頷いた。
「ネリッサです。どうにか炎を消そうとしたのですが、油のせいか、天使の力なのか、なかなか消火できず、天使軍が去ってからようやく消えはじめ、つい先ほどすべての炎を消すことができました」
「ネリッサに命じて雨を降らせたんでしょ。プロブスは最善を尽くしたと思うよ。貴方たちが無事なだけで、私は嬉しい」
「陛下……」
プロブスが、ほっと息を胸の底から吐いたように見えた。
彼は、彼がオセに向ける信頼と同じくらいか、或いは、それ以上の信頼の情を込めて、こちらに眼差しを向けて来る。
なんだろう? ただの王と家臣ではない、それを越えた想いを感じた。もしかしたら、他の将軍とは異なった関係性がプロブスとシトリーにはあるのかもしれない。
「――ところでガルバは? 姿が見えないけど、どこにいるの?」
「ガルバ将軍は天使軍を追って先に発ちました。ネムスを燃やした後、天使軍は南へと移動していったので、ガルバ将軍も南に進軍しているはずです」
「大公やべリス公と合流できていると良いが……」
オセが言うと、プロブスもフォルマも頷く。
ハウレスは王都を出た後、べリスと共に彼の軍団と合流するために、まっすぐ西ではなく、まずは南西に向かった。
べリスの軍団と合流すると、それから西に進路を変えたはずなので、おそらく南からネムスの街を目指していたはずである。
未だここにたどり着いていないのであれば、ここよりももっと南の方を進軍していると考えられる。
「わたしは助けられなかった命を弔うため、ここに残り、埋葬をしておりました」
「気持ちは分かるが、今は天使軍を追い駆けることの方が先だ。更なる犠牲を出してはならない」
やや厳しめの口調でオセが言うと、プロブスは項垂れながら、はいと小さく呟くように応えた。
そのしょんぼりとした様子が可愛らしく見えて、シトリーは傍らにラウムを手招くと、彼女の耳元に口を寄せる。
「オセとプロブスって、もしかして、仲良し?」
「あら、嫉妬ですか?」
「えっ、違っ! ちょっと気になっただけ!」
思わず大きくなってしまった声を押さえようと、慌てて自分の口を両手で塞ぐと、ラウムがちらりと視線を寄越してきた。
そして、人差し指で自分の顎を撫でるようになぞって、小首を傾げる。
「詳しくは存じ上げませんが、千年くらい前に、プロブス将軍を我が君が引き取ったのだと聞いております。親に捨てられて雪の中を彷徨っていたところ、偶然そこに我が君が通りかかって、哀れに思って拾ったとか。将軍が7歳くらいの時の話だと聞いています」
「シトリーがプロブスを拾った? でも、プロブスには彼を捨てた親がいるから、シトリーが彼の親とか兄とか、配偶者になったとか、そういうわけではないんだよね?」
「ええ、そうです。誕生してすぐに拾ったわけではないので、関係性への強制力はありません」
ちょっぴりホッとして、それじゃあ、とラウムに問いかける。
「オセとプロブスの関係は?」
「妬くほどの関係はないと思いますよ。我が君を通して交流があっただけだと聞いています。幼い将軍に剣や文字を教えたのは、オセ様だったみたいです」
「そうなんだ……。プロブスって、髪が綺麗だよね。小さい頃、絶対、美少女っぽかったと思わない?」
「そうですね。思いますけど、今はがっしりムキムキ体型で、美少女とは程遠いです……。それと、将軍のあの髪は、我が君が『勝手に切るな。ちゃんと手入れをして、サラサラ髪になれ』と命じているから、あのような髪になっているのだと思います」
「えっ、そうなの⁉ そんな命令を出すなんて地味にひどいね。プロブスも律儀に聞く必要ないのに」
「きっと将軍にとって、我が君に褒められていると思って嬉しいんですよ。――プロブス将軍って、ユキヒョウなんですよねぇ。豹族ですから、我が君にとって特別な存在なんですよぉー。ずるいですぅ」
「ユキヒョウ……? 豹族?」
何それ? と聞き返そうとしたが、その時オセに呼ばれて、そのまま昼食タイムとなってしまった。
オセとフォルマとプロブス、ラウムと共に昼食のパンとスープを食べながら今後の進路について話し合う。
街の中で亡くなった者たちを弔っていたというプロブスの兵士たちも街から出てきて共に食事を取ったが、彼らは皆、なんとも言い難いひどい臭いを纏っていて、食欲もなく、げっそりとした表情をしていた。
彼らの表情ひとつ取っても、街の中の惨状を物語っている。
「カマエルの軍団も南に移動し、大公も南にいる可能性が高いことを考えますと、我々も南に向かうべきでしょう」
「わたしもそう思います。天使が次の街にたどり着く前に、その後方を攻めるべきです」
「次の街って?」
「ソルムと呼ばれる、ネムスと同じくらい大きな街です」
「じゃあ、そうしよう! ソルムに向かう」
「御意」
二人の将軍が同時に返事をする。ちらりとオセに視線を向けると、オセは目を細めて頷いた。
休息を終えて出陣の支度が整うと、プロブスの軍団を加えて進軍を再開する。
ネムスの街の惨状を目に焼き付けておくべきだという将軍たちの意見を取り入れて、街の西門から大通りを進み、南門から街を出ることになった。
プロブスの話によると、大通りは特に死者が多く、建物を燃やす炎から逃げてきた者たちが大勢、上空から落とされた天使たちの杭によって体を貫かれて絶命していたという。
大通りの遺体はあらかた他に運び、埋葬したというが、すべてではないとプロブスは言っていた。街のあちこちには未だ無惨な殺され方をした遺体が転がっているらしい。
アリスに跨がると、同様に自分の馬に跨がったラウムが隣に並んだ。
「陛下とわたくしは街の外をぐるりと行きませんか? なぜ、わざわざ街の中を通るのか理解できません」
おそらく天使たちの非情さを見せ付けて自軍の士気を高めるためだと思ったが、それを口に出して説明する気になれなかったので押し黙る。
「だいたい、陛下には刺激が強すぎると思うんです」
(確かに)
激しくラウムに賛同するが、ラウムとはメンタルが違い過ぎて、自分だけ街の外を行きたいなんてオセにも将軍たちにも言い出せない。
本物のシトリーなら、こういう時にどうするだろうか。
本物のシトリーは、ラウムと同じくらいにメンタルが強くて、みんなは頑張れ、私は違う道を行く、と言えちゃうタイプだろうか。
(分からないけど、私が王なら、助けられなかった命と向き合いたいと思う)
目を背けるべきではないと思うのだ。
そうこう考えているうちに、隊列はどんどん街の中に入っていく。アリスの蹄がカツカツと鳴って、舗装された道を進んでいることに気付く。
大きく開かれた大扉をくぐり抜けて、アリスに乗せられながら街の中に入った。
息が詰まるような焦げ臭さ。
プロブスが大通りと呼ぶ敷石の敷き詰められた大きな道が真っ直ぐと向こうの方まで伸びている。
敷石はひどく煤け、ヒビが入っていたり、欠けていたり、ボコボコと円形の穴がたくさんあいていた。
(なんだろう、あの穴)
ひとつくらいだったら、そこまで気にならなかっただろう。だが、その円形の穴はすべて同じ大きさで、足運びにアリスを悩ませるくらいに、いたるところにあいていた。
口元を覆う布を鼻の上まで引っ張りながら視線を巡らせる。すると、道の端に直径10センチくらいの丸太杭が大量に転がっているのが見えた。
(何あれ?)
建設現場などで見かける木製の杭である。
柔らかい地盤の上に建物を建てる際に、地盤を補強するために、先を尖らせた丸太を地中深くに打ち込むことがある。まさにその時に使われる杭がゴロゴロと大量に転がっていた。
ふと、視界に大通りから横に入る細い道が映り、ぎょっとして目を疑った。
まるで針山のように丸太杭が地面に突き刺さっている。そして、その丸太杭に串刺しにされた母子が手をしっかりと握り合った姿で息絶えていた。
「陛下、前の者の背中だけを見て進んでください」
ラウムが馬を隣に寄せて囁くように言った。
「杭って、本当に杭じゃん」
「何だと思っていたんですか?」
不思議そうに聞き返されたが、これ以上の言葉を返す気持ちの余裕がなかった。正直、気分が悪い。
(みんなが杭、杭、言ってたけど、本当に杭だとは思ってなかった! だって、雨のように降り注いでいたって言ってたじゃん。雨のようにって言ったら、普通、矢でしょ? 百歩譲って、槍? いや、槍はないか。じゃあ、やっぱり矢!)
戦場において、雨のように降り注ぐとの比喩表現がつく物は、矢だと思う。
なので、周りの悪魔たちが『杭』と言っていても、まさか本当に杭だとは思わず、『杭』という悪魔用語の少し太めの矢だと思っていた。
ところが、悪魔用語なわけがなく、ガッツリ杭であり、しかも、想像よりも太めの丸太杭だ。
そして、道にあいた円形の穴は丸太杭が突き刺さっていた跡だったのだ。
おそらくプロブスたちが丸太杭を道から抜いて、端に寄せたのだろう。
大通りの遺体のほとんどが丸太杭に体を貫かれていたというので、あの端に寄せられている丸太杭はネムスの街の住人たちの体を貫いていた物なのだ。
ある日突然、自分たちの街に天使たちが現れ、頭上から油を撒かれ、火矢を放たれる。
激しく燃え盛る炎から逃げるために住まいから出ると、天使たちが待ち構えていて、頭上から丸太杭を投げ落とされる。
丸太杭は雨のように次々と投げ付けられ、避けようがない!
杭の鋭い尖端が体に刺さり、皮膚が裂け、血が飛び散る。それでも太い丸太の勢いは死なず、肉を押し開くように深く体に食い込み、そして、真っ直ぐに体を貫いた。
見るなと言われたのに、目が意思に反して丸太杭を探してしまう。そして、起きただろう出来事を想像してしまった。
大通りはプロブスが率いる兵士たちが片付けてくれているが、そこから反れると、ほとんど手付かずの状態で晒されていた。
頭に直撃を受けて、ぱっかりと割れ落ちてしまい、残された首から下を貫かれている男。
そして多いのは、背中から腹を貫かれている者たち。少し外れて左肩から腹を貫かれている彼は、即死できなかったに違いない。強い苦悶の表現を浮かべている。下手くそ! とその杭を投げ落とした天使を罵りたくなる。
その瞬間に見上げたのか、仰向きで胸から腰に貫かれている少女がいる。小さな子供は丸太杭の太さに耐えられず、貫かれているというよりも、体が大きく裂けていた。
「……ごめん。気持ち悪い」
視覚から来る刺激の強さに目眩がする。それに加えて臭いもきつく、胃の中をぐちゃぐちゃに搔き混ぜられている気分だ。
吐き気を催し、手で口を押さえて前屈みになった。
「陛下、馬から落ちてしまいます」
ラウムの気遣わしげな声が聞こえたが、どうすることもできない。目の前が白くぼやけてきて、手綱を握り締める手が震えてきた。
「陛下」
オセの声が聞こえて、ラウムとは反対側に彼の馬が並ぶ。
「わたしの馬に移ってください」
言われた言葉の意味が分からず、じっと動かずにいると、オセの腕が伸びてきて体に触れた。
そこからは一瞬の出来事だ。片腕で背中を支えられ、もう一方の腕が掬い上げるように両膝の裏に差し込まれると、ひょいっと軽々と体を抱き上げられた。しかも、お互い馬を歩かせた状態でだ。
はっと気が付いた時には既にオセの馬の上で、彼の両腕の中だった。
驚きすぎて、喉元まで込み上がっていたものが、ストンと胃の中に落ちていった。
「寄り掛かってください。目を閉じて」
オセの青いマントの中に包み込まれるように横抱きにされている。左頬をオセの胸板にくっつけて彼に体を預けると、言われたとおりに瞼を閉ざした。
真っ暗な世界にカツカツと馬たちの蹄の音が大きく響く。
「ごめんね」
小さく、オセだけに聞こえるように囁く。
これから戦場に向かおうというのに、魔王が死体を見て気分を悪くするなんて、情けないと思われても仕方がない。
情けないだけではなく、偽者だとバレる可能性もある。魔王らしく振舞うことができなくて、今更ながら、ラウムの提案通りに街の外を行けば良かったと後悔した。
覚悟が足りなかったのだ。街の中には、埋葬どころか、亡くなったままの状態の遺体があると聞いていたのに、それの意味するところを完全には理解できていなかった。
街の住人たちは、ただ死んだのではない。無念のうちに殺されたのだ。
「情けなくて、ごめんね」
もう一度、声を掠れさせて呟くと、オセが背中に大きな手を当てて優しく撫でてくれる。
「大丈夫ですよ。陛下だけではありませんので」
「そうですよ。みんな、吐いています」
「え」
ラウムのあっけらかんとした声が聞こえたので、目を閉じたまま耳を澄ますと、馬の蹄の音の他に聞こえて来る音が様々あった。
咳き込む音。えずく音。そして、吐き戻している音。
たしかに気分を悪くしたのは自分だけではなかったようだ。情けなさが和らいで、心が軽くなる。
さらに注意深く耳を澄ませていると、すすり泣いている声に、天使を罵っている声が聞こえてきた。
理不尽に殺された命を想い、悲しんでいるのか、天使の非情さに憤り、その怒りの強さに感情が暴れて涙が溢れてしまったのか。鼻をすすっている音が聞こえる。
ある者は一人でも多くの天使を殺すと誓い、ある者は殺された者たち同様に天使を串刺しにしてやると息巻く。
怒り。悲しみ。怒り。悲しみ。悲しみ。怒り。怒り。怒り。
閉じた瞼の闇の中に音と感情が渦となって襲い掛かってくるような錯覚に陥り、オセの体に腕を回してぎゅっと抱き着いた。
(これが戦争なのだ。やられたらやり返す。仲間を殺されたら、必ず敵を殺すと誓う)
悲しみと怒りが交錯する。嘔吐していた者も涙していた者も皆、最後には己の武器を握り締める。
ネムスの街の惨状を目に焼き付けながら20の軍団は、街の中心で南へと向きを変えて、さらに進軍する。
目を閉じていると、音だけではなく、匂いにも敏感になり、焦げ臭さの中にふわりと優しい匂いが漂ってくるのを感じた。オセの匂いだ。
(この匂い、好きだ)
もっと感じたいとオセの体にぴったりと身を寄せた。
そうしてオセに包まれながらどのくらい経っただろうか。馬たちの蹄の音が変わり、舗装された道ではなくなったのだと知る。
陛下、とオセに呼び掛けられて、そっと瞼を開いた。
「気分はいかがですか? 水を飲んでください」
目を開くと、雨に濡れた淡黄色の大地が広がっている。ところどころに背の低い木々の姿が見え、痩せ細った草も生えている。
オセから水の入った袋を受け取ると、口の中がひどく渇いていることに気付いて、袋を口元に運ぶ。
袋と言うが、おそらく獣の皮を重ねて作られている水袋で、胃のような形状の堅くて丈夫な革袋だ。
革袋を傾けて水を飲むと、袋の入口を紐で縛ってオセに返した。
「ありがとう。苦くなくて飲みやすかった」
ラウムから渡される水は苦いのに、オセに分けて貰った水は苦くないのはなぜだろか。
たぶん気のせいなのだろうけど、甘いとさえ感じる。
「まだ気分が優れないようでしたら、もう少しこのままわたしの馬に乗っていて構いません」
「うん、じゃあ、もう少しこのままがいい」
オセの胸に寄り掛かれるのと、そうではないのとは、だいぶ差がある。体を預けることができると、ずいぶんとラクなのだ。
(アリスは賢い馬で、乗り心地は良かったけれど、絶対にオセの腕の中の方がいい。百倍くらい心地が良いし、ラクだし、安心できる)
悩みなんて何一つないという気持ちでいられるし、なんならこのまま眠ってしまっても大丈夫だと思えた。
(最初から、オセに頼んで同じ馬に乗せて貰えば良かったんだ)
こんな居心地の良い場所なんて他にないのに、なぜ最初からそうしなかったのだろうか。何やら損した気分で、悔やまれる。
(けど、オセが城を出発する時に言い出さなかったということは、今は気分が悪いから特別で、自分の力で馬に乗れるのなら自分で乗れということなんだろうな)
シトリーは魔王であって、愛でられて、甘やかされて、大切に護られてなんぼのプリンセスではないからだ。
あともう少し。あともう少しオセの腕の中で休んだら、自分の馬に戻ろうと決めて、オセの胸に頬をくっつけて瞼を閉ざした。
【メモ】
プロブス
『ふたつ月の国』の三大将軍のひとり。シトリーの家臣。中級悪魔。豹族。
ネリッサという水魔法が得意な部下がいる。『陛下』或いは『シトリー様』『オセ様』
銀髪を長く伸ばしている。アイスブルーの瞳。ユキヒョウ。26歳くらいの外見。
シトリーがまだ『雷雪と宵の国』で暮らしていた頃、親に捨てられて雪の中を彷徨っているところ拾われる。シトリー2000歳くらい、プロブス7歳の頃の話。
幼い頃からオセとも交流があり、その頃は、シトリーとオセから『弟』のように可愛がられていた。
重装騎兵も数百ほどいるが、そのほとんどが重装歩兵の軍団を率いる。




