12.完徹ゲームで怒られる遅い朝
――ミカエルが強すぎる。
肩が重く、首がガチガチで、頭がくらくらしているのにコントローラーを手放すことができない。
自分でもびっくりするくらいに目がギンギンに冴えていて、異常なほどに眠くなかった。
ラウムが寝室を出て行ってから、シェハキムでガブリエルを撃破した。
続いて、ゼブルで能天使の軍隊を束ねる指揮官カマエルを撃破。
戦いの訓練を受けた能天使たちが押し寄せて来た時にはもうダメかと思ったが、しばらく戦っていると、イベントが起きてルシファーの演説で大勢の能天使が寝返り、ルシファーの味方についたのだ。
そして、マオンには、愛欲を知ってしまった天使たちが閉じ込められている。
天使は、天使同士、あるいは、人間と愛し合うことを禁じられているのだが、禁忌を犯してしまう天使は後を絶たず、大勢の罪深き天使たちがマオンに幽閉されていた。
後に『色欲』を司る悪魔として知られる智天使も幽閉されているので、マオンの支配者であるサンダルフォンをやっつけて彼を解放しなくてはならない。
サンダルフォンにはメタトロンという双子の片割れがいて、やっかいなことに二人同士に倒さなければ、ひとり倒したと思っても1分後には復活してしまう。そのため1分以内にもうひとりも倒さなければならなかった。
マコンでは、ウリエルと戦う。
反則的に強いウリエルだが、こちらも反則的に強い味方がたくさんいるので、なんとか勝てた。トドメの一撃をベリスが必殺技を出して決める。
「いいなぁ、必殺技! 私も出したい」
「出せばいいだろ。赤いオーラが出たら出せるんだから」
「やり方が分からん」
「はぁー? 『LZ』を押しながら『B』で出るだろ」
「そうなんだ?」
最終ステージにしてようやく必殺技の出し方を知り、舞台はアラボトである。
天界も地獄も七層になっている。
天界の七層目であるアラボトは天界の中でももっとも高い場所にあり、神の玉座がある。『神の門』が出現するのもアラボトだとされるが、それはシトリーの兄がつくったゲーム上の設定であり、実際には誰にも分からない。誰も目にしたことがないからだ。
アラボト戦はスタート直後から智天使の軍勢が押し寄せて来る。一撃では倒せない相手に苦戦しつつも突き進んで行くと、必殺技のゲージがフルになったちょうど良いタイミングでカシエルが現れた。カシエルは、この智天使たちの指揮官だ。
ベリスに教わった通りにボタンを押すと、シトリーの体から光が放たれる。そして、その体がぐにゃりと崩れるように前屈みになると、四つ足の獣に姿を変えた。
(虎? 違う。チーター? 違う。豹だ!)
黄金色に輝く毛並みに豹独特の模様が浮き出て、美しく大地を蹴る。鷲のような大きな翼が豹の背中で広がった。
「なんで豹!?」
「はあ?」
画面では豹によるネコパンチと噛み付き攻撃が連続して繰り出されていて、カシエルの体力を大きく削っている。
ベリスも大剣を振り回してカシエルに攻撃を放ちながら、訝しげな表情をこちらに向けてきた。
「だって、シトリーが豹に変身した」
「だから? それがなんだって言うんだ?」
カシエルが撃破された効果音が響く。
「お前、なんか変じゃないか? さっきから質問が多いし。忘れてるにも程があるだろう」
ベリスがコントローラーを片手に持ち直すと、ぐっとこちらに顔を近付けて来た。窺うような、探るような鋭さを感じさせる目つきだ。
「なあ。魔力が感じねぇんだけど?」
どきりとして慌てて体を反らし、ベリスと距離を取る。
「お前、魔力どうした?」
(――どうしたも何も人間なので)
まさかそんなこと言えるはずがないので、唇を結んで押し黙る。
お互いに気安く接し過ぎて忘れてしまっていたが、自分はシトリーの偽者であって、ベリスとは友達でも幼馴染みでもない。それどころか、ただの人間で、女子高校生だ。
ヒヤリと嫌な汗が背筋を流れる。
兄のつくったゲーム通りならば、ベリスに正体が知れた時点で、ジ・エンドだ。
(しまった! 疑われてる!!)
しかも、べリスは聞き逃している様子だが、先ほど自分のことを自分で『シトリー』と言ってしまうミスを犯してしまっている。『シトリーが豹に変身した』って。バレたか? バレてしまうのか。
じーっと見つめられ、柘榴石の瞳に焼き殺されそうだ。
(なんて言えば誤魔化せる? 体調が悪いとか? それって、風邪? 悪魔って、風邪をひくのか?)
ピンチを目前に頭がフル回転して、あっ、と思い至る。
近すぎるベリスの体を両手で押しやって距離をつくると、やけくそ気味に言った。
「ラウムと遊んでる!」
「あ?」
「だから、今、ラウムと遊んでて、魔力が無くても過ごせるかどうかの人間ごっこをしてるんだ」
「なんだ、それ?」
(うん、私も聞きたい。なんだよ、それ。さすがに無理がありすぎたか)
――と思いきや、意外にもベリスは納得した様子で姿勢を正して座り直した。
「お前、まさかあのクソ女に魔力を封じられてんじゃないだろうな?」
「アハハハ」
なんと答えれば良いのか正解が分からず乾いた笑いで返すと、ベリスは心底呆れたようにため息をつく。
どうやら危機は去ったようで、こちらはホッと肩を撫で下ろす。
(これからもラウムを理由にしよう)
むちゃくちゃな言い訳でも、ラウムが絡んでいると、そんなこともあるのかもと思わせてくれるみたいだ。
再びベリスはコントローラーを両手に持ち直すと、アバターを操作しながらこちらを見ることなく口を開いた。
「お前さ、あのクソ女を側におくのやめろよ。俺、前にも言ったよな? あのクソ女、腹の中が読めねぇし、いつかとんでもないことをしでかすぞ」
それは親しい友人としての忠告なのだろう。
たぶん、ベリスの読みは正しい。ラウムは既にとんでもないことをしでかしているのだから。
(シトリーの死を隠すために人間を召還して身代わりにしてるなんて、とんでもないことだよね)
だけど、召還されてしまった身としては、元の世界に帰るために、この魔界においてラウムと運命を共にするしかない。彼女を遠ざけるなんて選択肢はないのだ。
画面から衝撃音が鳴り響く。思わず、びくりと肩を揺らして画面を見やれば、神々しいまでの光を背にミカエルが姿を現した。
そして、このミカエルがとてつもなく強かったのだ。
「これ、無理ゲーじゃない?」
既に二人揃って3回ほどミカエルに殺されている。
二人ともなので、アラボト戦を最初からやり直さなければならず、アラボト戦のミカエルと遭遇するまでの道のりは職人並みに腕を上げてしまった。
「ルー……こぉ、うてい、へーかがさぁ、前に出てくるのもひどくない?」
「今うっかり名前を言いそうになっただろ? やめろよな。死ぬぞ、マジで」
「うう……っ」
このゲームは、プレイヤーである二人とも戦闘不能になってしまうとゲームオーバーなのだが、大将であるルシファーが戦闘不能になってしまったら二人が無事でもゲームオーバーなのだ。
これまでの戦いでは味方が善戦していれば後方に下がってくれたルシファーだったのだが、アラボト戦に限っては味方の誰よりも前に出て来るから、自分さえも死にそうなのにルシファーも死なないように護らなければならないから大変だ。
「仕方ないよなぁ。実際、皇帝陛下とミカエルは一対一で戦ったんだもんな」
ゲームなので、プレイヤーもミカエルと戦えるようにしているだけ。そして、ルシファーとミカエルの戦いの結末は誰もが知っている通りだ。
なので、このゲームのミカエルはアホみたいに強くて、しんどい。
「けど、たぶんさ、皇帝陛下はミカエルに負けてやったんだ。さっきも話したけど、神に命じられて叛逆したわけじゃん? でも、その叛逆は成功しちゃダメなんだ。どこかで負けなければならないって分かっていながら天界に攻め上って、どんどん征服できちゃって、あと少しで神の喉元に手が届くってところまで来て、目の前に現れたのがミカエルだったんだ」
ミカエルが倒れてしまったら、もはや神の盾と為り得る存在はない。神自身には戦うすべがないので、ミカエルを倒すということは、実質、神を倒すということだ。
「きっかけは神の命令だったかもしれないけど、あとちょっとで天界が手に入るっていうところまで来たのに、それを手放してしまった皇帝陛下は、結局、誰よりも神に縛られている存在なんだと思う」
「……うん。そうかも」
そんなわけで、めちゃくちゃ強いミカエルを倒すためにリトライすること八回目。ウリエルだって三回目には倒せたのに。
「助っ人があったらなぁ」
「助っ人って、誰が来るのさ」
名の知れた堕天使たちはすでにアラボトに集結している。もちろんべリスの父親もいるし、元女神の大公もいる。今よりちょっぴり若いハウレスもいて、驚いたことに彼はかなり強い術を飛ばしてきて、二人とも何度も助けられた。
「あーあ。俺もこの時代に生まれていたかったなぁ。すげぇ楽しそうじゃん」
そんなことをぼやくべリスは、べリスの父親が魔界に墜ちてからつくった子供なので、魔界生まれだ。
そして、シトリーも魔界生まれなので、べリスと同じく、天使と堕天使たちの戦いには参戦していない。
だから、こうしてゲームで遊ぶことで当時の戦いを想像するばかりだ。
「せめてゲームでは天界を攻め滅ぼしたいよなぁ」
「ミカエルが強すぎて無理。――って、ほら! 私ヤバい! 死ぬ死ぬ!」
「マジだ! 逃げろ、シトリー。一時避難!」
「やー無理! 追い掛けてくる! なんでこっち来るかな。来るな! 来るな! ヤバい! ヤバい!」
必死に逃げるシトリーのすぐ後ろをミカエルが猛スピードで追いかけてくる。そのミカエルを追ってルシファーも大公もベリスの父親も走ってくる。
「助けてー。また死ぬとかヤダー!」
その時だ。画面の上方に文字が出る。
――『ストラスが参戦しました』――
(はあー?)
逃げるのに必死過ぎて幻覚が見えたのかも。
目を瞬いてから、もう一度よく確認しようと見開くが、既に文字は消えている。
「おーい。どこまで逃げた? シトリーもミカエルも見失ったんだが」
ゲーム画面は上下に分かれ、ベリス視点は上画面、シトリー視点は下画面に写し出されている。ベリスが自分の画面とその下の画面をチラチラ見比べながら聞くので、必死に逃げながら短く答えた。
「ここ! 宮殿の入口!」
「っんなところまで逃げたのかよっ!」
「だって、ずっと追いかけてくるんだもん。それより、さっき誰かが参戦したって」
ベリスは、ああ、と事もなげに答えた。
「シトリーの兄ちゃんが来たな。一緒に遊ぶの久しぶりだなぁ」
「は? このゲーム、オンライン?」
魔界の電気供給事情も気になるところだが、まさかインターネットやらWi-Fi事情まで気になってしまうとは思わなかった。
――というか、魔界にインターネットがあるというのが信じがたい!
(兄貴のつくったゲームの世界だから、なんでもありなんだな)
こちらが人間界の兄に思いを寄せている間に、ベリスはシトリーの兄のことを考えていたようで。
「製作者なだけに、兄ちゃんめちゃくちゃ強いんだよ。これでミカエル倒せるんじゃねぇ?」
なんてことを嬉々として言った。
「兄ちゃん、助けに来てくれたの?」
「当然だろ。シトリーの兄ちゃんは、いつもシトリーのピンチに絶対来る」
「へぇー」
意外だ。ベリスから見たストラスとは、そんな悪魔なのか。
ラウムから聞いた話とだいぶ印象が異なる。そんなスーパーヒーローみたいな兄という感じではなかった。
(シトリーのお兄さんかぁ)
シトリーを拾って育てたあげく、シトリーに出し抜かれてしまった悪魔である。
恨んでいるに違いないと思っていたのだが、シトリーとベリスがゲームで遊んでいると知ると参戦してきたりして、その胸の内が分からない。
(よく分からないなぁ。どんなお兄さんなんだろう?)
このゲームでアバターだけでも見ることができたら、何か分かるかもしれない。
「――よし、ミカエル発見! シトリーも見っけ。こんな大勢引き連れて逃げすぎだから」
「でも、逃げながら回復アイテムを拾って回復した」
「上出来!」
さあ、ここから反撃だと、ベリスと二人でコントローラーをきつく握り締めた時だった。
バタンッ!!
隣の部屋で激しく扉が開く。何事かと怪訝に思ったが、激闘の最中だ。無視しよう。
ばぁんっ!!
続いて寝室の扉が開いた。けたたましく響いた音に、さすがに無視はできそうにない。しかも、振り向けば、オセが寝室の入口で仁王立ちしていた。
「陛下! 何時だと思っているんですかっ!」
「え? ええー?」
何時だろうか? 夕方近くにベリスがやって来て、それでゲームを始めて、ラウムが何度か来たけど、それでもゲームを続けていて、かなり時間は経ったはずだ。
「何時?」
あいにく寝室には時計がない。オセの怒気に尻込みしながら、彼を見上げて尋ねてみた。
「10時です」
「なんだ、10時」
寝る時間だから寝ろってことかな。だけど、10時に寝ろだなんて早くない? 中学生だってまだまだ起きてる時間帯ではないか。
ところが、なんだと言ったとたんにオセの眉が恐ろしく跳ね上がった。
「朝です。いえ、朝も疾うに過ぎました。午前10時です」
「は?」
理解が追い付かなくて間抜けな声と共に、ぽかんと口が開いてしまう。
オセはちらりと視線をベリスに向けた。
「ベリス公、貴方の家令から言伝てをお預かりしております。ご自身の為すべきことを疎かにされるようでしたら、父君の元に戻られると良いでしょう、と」
「はっ、そんな脅しが効くかよ。今いいとこなんだ。シトリーの兄ちゃんが参戦してくれたから、ミカエルが倒せる!」
「何時間やり続けたと思っているんですか。ゲームはおしまいです!」
「やめられるかよ! こんなところで!!」
「そ、そうだよ。あとちょっとで倒せそうだもん。あとちょっとだから」
「いけません! またの機会に挑戦すれば良いのです」
「でも、やっと勘を掴めていい感じになってきたんだよ。ベリスは得物が重いから一撃を繰り出した後に隙ができるんだ。だから、小回りの効く私がベリスの背後を守ってやらなきゃなんなくて。そういう連携がやっとできるようになってきたところで……」
「知りません! どうでもいいです! そんなこと!!」
ここぞと思って出したベリスへの援護射撃は、ぴしゃりと言い返されて、もはや黙るしかない。
だが、ベリスはまだ諦めていなかった。そもそもベリスにはオセの言葉に従う理由がない。爵位も上であるし、シトリーとは異なって国を共同統治しているわけでもない。
こんな風に上から物を言われる謂れはないのだ。
「あとちょっと待てって言ってんだよ」
「では、ベリス公おひとりで遊んでください」
「はあ?」
「正直なところ、貴方がどうなろうと知ったことではないので。ですが、陛下を巻き込まないで頂きたい。寝食を忘れてゲームに没頭されるなど、お体を害してしまいます」
「はっ。たった一晩くらい徹夜で遊んだからって、体調を崩すかよ」
「陛下は貴方とは違うので。さあ、陛下の寝室から出ていって下さい」
「うるせぇ! 黙れ!」
カッとベリスの瞳が赤く燃え上がり、ベリスの全身が苛立ちの炎に包まれる。
ゾッとして、ベリスとオセを交互に視線を向け、そして、ゲーム画面を見やり、あっと声を上げた。
(何か来る)
鳥? ――いや、違う。天使のように見えるが、天使のような純白の翼ではなく、斑のある茶色い翼で音もなく飛んでくる。
「ほら、シトリーの兄ちゃんが来た!」
ベリスの言葉に手放しかけていたコントローラーをぎゅっと握りしめる。
(あれがストラス?)
空を飛びながら近付いてくる。顔はよく見えないが、手足の長い、すらりとした青年だ。
暗い衣服を身に纏い、シトリーとよく似た細身の剣を手にしている。ただし、その剣身は黒金剛石の輝きを放つ。
しかし、今のオセにはストラスの登場など関係がなかった。興味もない。
「ベリス公、退室願いたい」
「シトリー、ミカエルを倒すぞ」
「え、……うん」
「ベリス公!」
オセも引かないが、ベリスもオセを無視してゲームを続けようとする。ラグに座り込んで動こうとしない。
「分かりました。父君をお呼びします」
「ああ?」
「父君の名を口にすると言ったのです」
「はっ。やれるもんならやってみろよ。死ぬぞ、お前」
ベリスの父親は、爵位はベリスと同じ公爵だが、帝王の側近であり、この国で例えたらグイドみたいな仕事を帝都で任されている長官だ。
そんな悪魔の名前を口にしたら、オセは無事ではいられないだろう。だか、それと引き換えにベリスは父親に悪行を知られ、直ちに帝都に連れ戻されるに違いない。
――シトリーとゲーム三昧しているくらいなら、帝都でわたしの仕事を手伝え!
オセには強気で言い返したものの、そんな父親の声が空耳のようにベリスには聞こえたようで、隣でベリスが身震いをした。
オセを見上げ、隣のベリスを見て、ゲーム画面のストラスを見、どうしたものかと思いながらもとりあえずミカエルを攻撃していると、オセが声を張り上げだ。
「バ!」
ぎょっとしてベリスがオセに振り向く。
「ル!」
「お前っ」
「ベ!」
「やめろ! ふざけんな、ばかやろう!」
ベリスはコントローラーを投げ捨てて立ち上がった。オセがまったく引かないので、ベリスの方が恐れを為して顔を青ざめる。
ベリスは寝室の入口に行くと、わざとオセに肩をぶつけてそこを通り過ぎた。
「せっかく来てくれたのにさ。てめぇがシトリーの兄ちゃんに謝っとけよな!」
そんな捨て台詞を吐いて、ドシドシと足音を響かせながらベリスは部屋を出ていった。
ぽつんと寝室に取り残されて、ラグに座り込んだままオセを見上げると、彼はため息をひとつ付いてから寝室の中に入ってきた。
無言で石壁を両手で押して引き出しを開くと、ベリスが投げ捨てて行ったコントローラーを拾い、引き出しの中にしまう。
パチン、と音かして、弾けるようにテレビからゲーム画面が消えて真っ暗になる。オセがゲーム機の電源を切ったのだ。
促される前に握っていたコントローラーを差し出すと、オセはそれも引き出しにしまい、引き出しを閉じた。
石壁の、引き出しよりも下の方に少し浮き出た石があって、その石をオセがブーツの爪先で押すと、テレビがくるりと回転して、元から何もなかったかのように石壁に戻った。
「陛下」
さっきまで怒っていたのが嘘みたいな穏やかな声だ。ベリスが去ったら、一対一で叱られると覚悟していただけに拍子抜けする。
「今からでも寝て下さい。疲れた顔をしています。今日の政務は結構ですので、休んで下さい」
「オセ……」
「はい」
「ごめんね?」
「何がですか?」
問われて、確かに何に対する謝罪だろうかと自分でも疑問に思う。
なんとなく謝った方が良いと思って口にしたのだけど、言った後から謝罪の意味を考えてみると、たぶん、怒らせちゃったこと、そして、無理をさせてしまったことへの謝罪だろう。
「オセ、死ぬところだったよ」
「そうですね。嫌な汗が出ました。着替えて下さい。お腹は空いていますか?」
オセの手が伸びてきてマントを脱がせてくる。されるままになりながら大きく頭を振った。
「ラウムが持って来てくれた物を食べたから」
ブーツを脱ぎ、ベルトを外してチュニックを脱ぐと、肌着姿になる。
素肌が透けて見える肌着の下にサラシを巻いていることを思い出して慌ててもう一度チュニックを着ようとするが、その前にオセの腕が伸びてきて軽々と抱き上げられてしまった。
そして、オセの数歩で寝台まで移動すると、その上にふわりと優しく下ろされる。
「手を見せて下さい」
「手?」
寝台に腰掛けると、オセが目の前で片膝をつく。下から覗き込むように見られて、ドキリとしながらおずおずと両手をオセに差し出した。
「本当は放っておこうと思っていたんです。ベリス公とは久しぶりにお会いするわけですし。ですが、陛下の血の臭いがしましたので」
「え」
びっくりして思わず声が出る。差し出した両手の親指は、一生懸命にボタンを押しすぎて皮が剥けていた。
特にアバターを移動させるためのスティックボタンを押し続けていた左の親指の腹がひどい。広範囲に皮が剥けて血が滲んでいる。
「こんなになるまで遊んでいるなんて。バカなんですか?」
「やめられなかったんだもん」
「バカですね」
ため息混じりに言うと、オセは皮の剥けた親指に顔を近付けて、べろりと舌を這わせた。
「うわああああ。何してんの、オセ。汚い! あ、いや、汚いって言うのは、手には雑菌がいっぱいっていう意味で」
オセの温かい舌が二回、三回と親指の腹を往復して、それから、最後にゆっくりと、ねっとりと舐められて離れた。
顔を上げたオセの瑠璃色の瞳と視線が合う。
「治りましたよ」
「え?」
オセは懐から白いハンカチを出すと、丁寧に親指を拭って、ほらと両手の親指を見せてくれる。
確かに綺麗に治っていた。唾をつけておけば治るっていう民間療法が昔からあるけど、魔界では本当に治るらしい。びっくりだ。
「えーっと、ありがとう?」
べろべろ舐められて、ありがとうと言うのはすごく変な感じだったが、一応言っておく。
「布団の中に入って休んで下さい」
「うん」
どんなに丁寧に拭われても親指からオセの舌の感触が消えていなくて、その感触を持て余し、戸惑いながら促されるままに布団の中に潜り込んだ。
その態度を素直だと感じたようで、オセはにこーと柔らかく微笑む。再び顔が近付いてきて額に軽い口付けを受けた。
「お休みなさい」
まるでお母さんが幼子にするようなキスを残してオセは寝室から出ていった。
【メモ】
女大公
ラウムが敬愛する大公。艶やか黒髪の美女。
魔界の実力者で、ナンバー3。『魔界図鑑』の著者。
元座天使で、帝王の副官だった。
帝王が皇帝ルシファーと共に神に逆らったので、彼女も帝王の副官として戦い、堕天する。
天使になる前は古代フェニキア人が崇拝した愛と豊穣の女神だった。