1.召喚されて魔王の身代わりになりました
――あなたの瞳に、自分だけがうつりたい。
最期に声を聞いた気がしたが、後ろから迫りくる苦痛と絶望と困惑に呑まれて、何も分からない。
悲しみが涙となって溢れ出て、流れて伝って――。ああ、これは欲なのだと知った。
深淵に蹲って助けを待っていると、突然、むせるようなカビ臭さを感じて、鉛のごとく沈んでいた意識がひと息に浮上した。
ガツン。
「痛っ!!」
跳び起きようとして何かに額をぶつけ、ひとり呻く。
表情を歪めながら辺りを窺うと、どうやら堅い板の上に寝かされているようだった。
辺りは闇。瞼を開いているはずなのに何も見えない。
(え、何?)
探るように正面の闇に向かって手を伸ばしてみると、肘を伸ばしきれないうちに何かに触れた。
板のようだ。ざらざらとした木目を感じる。
ずいぶんと低い天井を確認してから、次は左右に両腕を広げてみる。ほんのわずかに広げただけで腕が壁にぶつかった。
壁と言っても石やコンクリートではなく、こちらも天井と同じで板のようだ。
どうやら板の上に寝ているのではなく、木製の箱の中に入れられているらしかった。
(なんで? どういうこと?)
とにかく出よう。天井だと思った板に両手をつくと、思いっきりそれを押し上げた。
ガタッ。
音が右に左に流れるように響く。
板はずっしりと重く、力いっぱい押し上げても指三本分くらいの隙間しか動かなかった。
――だが、動く。
動くということは閉じ込められているというわけではない。つまり、出ようとさえ思えば出られるのだ。
(――出たい!)
体を丸めて膝を折ると、両足を使って力の限り板を蹴り上げた。
ガタンッ!!
けたたましい音を反響させて板が浮き上がって、そして箱の脇にドスンと沈んだ。
(どこ、ここ?)
上体を起こして改めて辺りを見渡した。
薄暗い空間に、ハッと目を惹いたのは、床から天井まである大きな窓を飾るステンドグラスだ。
西洋の宗教画をモチーフにしているらしいそれは実にカラフルで幻想的だ。
だが、それを綺麗だと感じたのは一瞬で、よくよく見てみれば、その絵はひどく気味が悪かった。
血で染まった大地に無数の十字架が立っていて、上空に蝙蝠のような羽を生やした大きな悪魔が片手に人間の生首を持って飛んでいる。
ぞっとしてステンドグラスから視線を逸らし、天井を見上げれば、普通の建物よりもずっと高い天井から太い鎖が等間隔に数本下げられていた。
鎖の先には灯りが吊るされている。その橙色の灯りは、ぼおっとした弱い力で闇をゆらゆらと掻き分けて、ステンドグラスの前の祭壇を照らしていた。
(ここ、どこなんだろう?)
教会のように見えるが、教会ならば長椅子がずらりと並んでいるイメージがある。だが、そういった物はなく、祭壇の他には何もない、だだっ広い空間だ。
その中央に黒い箱が置かれていて、どうやらその箱の中に寝かされていたようだ。
鼻をつくカビ臭さがその箱からだと気付いて、板の縁を跨ぐようにして箱から出た。そして、知る。
(げっ)
棺だ。先ほどまで寝かされていた漆黒の大きな箱は、間違いなく木棺だった。
(なんで私、こんなところに入っていたんだろう?)
訳が分からない。
たしか学校の教室にいたはずだ。――いや、違う。学校から家に帰ったのだ。
それから、すぐに友人が遊びに来て、一緒にゲームをしていたはず……。
(――いや、待って。違うな)
自分がゲームをしていて、友人はそれを見ていたんだ。
(ゲームは、引き籠りの兄貴がつくったやつで……)
パッと兄の顔が脳裏に浮かぶ。
幼い頃から外見も性格も少しも似たところがないと言われている自分たち兄妹は、自分が高校一年生で15歳、兄はその五つ年上だ。
兄は五年前、高校入学と同時に引き籠りになってしまい、そのまま高校を中退して、昼間は寝て過ごし、夕方に目覚めると、ひたすらパソコンに向かうという日々を過ごしている。
ずっと自室にいて、誰とも会わず、いったい何をしているのだろうかと疑問に思っていたら、はたして今日いったい兄に何が起きたのか、突然に自室から出て来て、兄が言ったのだ。
――ゲームをつくった。プレイしてくれ。
友人と部屋で寛いでいたところでそんなことを言われ、戸惑いもあったが、ようやく部屋から出てきた兄の頼みだ。兄に促されるままパソコンを立ち上げ、指示されたサイトにアクセスすると、フリーゲームがダウンロードできるページに飛んだ。
(えっ、……これ?)
ダウンロードが終わり、ゲームが始まると、キラキラしたタイトル画面がパソコンのスクリーンいっぱいに映し出された。
金髪の正統派イケメン、赤毛のやんちゃ系イケメン、そして、黒髪の知的系イケメンのイラストが出てきて、ゲームのジャンルを察する。
いわゆる、乙女ゲーというやつだ。
(えっ。え? ええーっ‼ 兄貴、ゲームつくったって、乙女ゲーつくったの!? なんで!?)
ぶっちゃけ兄は、我が兄ながら陰気な印象のある男だ。
神経質っぽく細身で、食も細い。常に俯き加減で、ぼそぼそと聞き取りにくい声で話す。
そんな兄なので、ゲームをつくったと聞けば、ホラーゲームだと勝手に思い込んでいた。それも、血肉がバシャバシャ飛び散るスプラッター系のホラーかと。
(なぜ乙女ゲー?)
巨大なハテナを頭上に掲げる思いで、タイトル画面のスタートボタンをクリックした。
そして数時間。友人とあれこれ言いながら、兄がつくった乙女ゲーをプレイし続けた。――と、そこで記憶が途切れている。
(ゲームしながら、寝落ちした?)
では、これは夢なのだろうか。
混乱する頭を整理しようと額に手を置いた時だった。
「まあ!」
甲高い声が響き、びくりと肩を跳ねさせる。すぐに後ろを振り返ると、いつの間にか背後に少女が立っていた。
少女は腰まである黒髪を二つに分けて結い、満面の笑みを浮かべている。その笑みが妙に恐ろしく思えて後ずさった。
そもそも少女には気配がなかった。いくら考え事をしていたからとはいえ、真後ろに立たれるまで気が付かないなんてことがあるだろうか。
少女は自身の顎の前で両手の指を組むと、黒曜石の瞳をキラキラと輝かせて、ずんずんと距離を詰めて来る。先ほど後ずさった距離など、あっという間である。
ぐぐっと顔を近付けて、互いの息が交わるような近さで少女は言った。
「素晴らしいですわ。まさか成功してしまうなんて!」
「だ、だれ?」
ぐっと少女の肩を両手で押しやって再び距離をつくると、少女は不満げに唇を尖らせてから、思い直したようにニッコリと笑みを浮かべて名乗った。
「初めまして。わたくし、ラウムという者です。この度は魔界へようこそお越し下さいました。わたくしもまさか、わたくしごとき者の召喚術が成功するとは思いも寄らず、あなた様が棺から出て来られて、びっくり、ドッキリですわ!」
「ちょっ、ちょっと待って! 今、なんて言ったの?」
『魔界』と聞こえたようだし、『召喚術』とも聞こえたようだ。
その意味を理解しようと努力に努力を重ねながら、少女に聞き返した。
「ここ、魔界?」
「はい」
「あなたが私をここに連れてきたの?」
「はい、召喚しました」
「召喚!?」
少女は、けろっとした表情で答えた。まったく悪びれる様子がない。
「ええっと、もう一回聞くね。ここ、魔界?」
「はい」
「あなた、何者?」
「ラウムです。魔界で暮らす悪魔です」
「あっあくっ、まぁっ!?」
顎が外れるかと思うほどびっくりしたので、変なところで言葉を区切ってしまった。
信じがたい思いで、自らを悪魔だと言う少女を改めてまじまじと見つめる。
見た目は、自分と同じくらいの年齢だろうか。あのステンドグラスの絵の悪魔のように耳がとんがっていたり、角や尾があったり、蝙蝠のような羽が生えていたりしたら悪魔だと納得しやすかっただろうが、目の前の少女はごくごく普通の人間の姿で、とても悪魔には見えない。
むしろ、可愛い女の子だ。休み時間や放課後は部活動よりも可能な限り教室に居座り、大好きな雑貨や大好きなスイーツなどの話題で、ひたすら友達とくっちゃべっていそうな少女である。
「嘘でしょ。――っていうか、これ、夢だよね?」
「大変心苦しいのですが、現実です。ここは魔界です。わたくしは悪魔です。わたくしがあなた様を召喚させて頂きました」
「……」
返す言葉を失って、開いた口を、ただ、ただ、閉じるしかない。
すると、そんな自分を少女はにこにこ笑みを浮かべて上機嫌に見つめてくる。
――いや、なんで上機嫌? なぜ笑う? おかしいだろう!
こちらは理不尽に連れて来られて人生最大級に困っているというのに!!
次第に怒りが湧いてきて、魔界のすべての酸素を吸い尽くす気持ちで肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「今すぐ私を元の場所に帰せぇーっ!!」
「嫌です!」
荒げて言えば、相手も即座に声を荒げてくる。まさにカウンターパンチである。
思わぬ反撃に怯んで口を閉ざすと、少女は追い打ちをかけるように瞳をうるうると潤ませ見つめてきた。
「せっかく術が成功しましたのに……。わたくし、召喚術は苦手なんですぅ」
「いや、そんなの知らないし。私には関係ないから」
しくしくと泣き始めた少女から、つと視線を逸らす。昔から泣かれると弱いのだ。だって、自分の方が悪いような気がしてくる。
しかし、ここで負けるわけにはいかない。
いきなり魔界に連れて来られたのだ。よりにもよって魔界!
じゃあ、そこらじゅうに性別不明な美形天使やムチムチお肉がたまらん幼児体形の天使がウヨウヨしている天界だったら許せるのかっというと、まったく許せる気はしないわけだが。
とにかく、カブトムシやクワガタみたいに、生まれ育った場所から強制的に違う場所に連れて来られて、自力では帰ることができない現状に腹が立っているのだ。
(帰る! 絶対に帰る!)
人間界に帰るためには、自分を召喚したとか言っている少女に力を借りるのが一番の近道なのだが、当の少女は、泣いてダメならばと今度は急に怒り出した。頬を膨らませ、両手で拳を握り、その拳を上下に振っている。
なんだ、これ。古い漫画でしか見たことのないような怒り方だ。
「困るんです! あなた様にはここにいて頂かないと途轍もなく困るんです!」
「知らんが」
「実は昨夜、我が君が崩御されてしまったのです! あまりにも突然の死で、わたくしも混乱しているのですが、このことが他の者たちに知られれば、混乱どころではありません。王位を巡って我が君の国は血で血を洗う争いとなってしまいます」
「へえ」
何やら大変そうではあるが、それが自分とどういう関係があるのか分からず、冷ややかな気持ちで少女を見つめ返す。
少女は先程までのにこにこ笑顔をしっかりと仕舞い込んで、真剣な眼差しで話を続けた。
「わたくしは内密に我が君の死をお報せする手紙を皇帝陛下に送りました。その手紙が皇帝陛下に届き、皇帝陛下のお裁きあるまで我が君の死を隠すことにしたのです。――ですが、わたくしの配下の者が皇帝陛下の居城にたどり着くまで数日、皇帝陛下からのお言葉を授かって戻って来るまでさらに数日の時間を必要とします。その間、我が君の姿がまったく見られないとなれば疑う者も現れましょう」
そこで、と少女は人差し指をこちらに、びしっと向けて言った。
「我が君にそっくりの者を召喚することにしたのです」
(はっ!! まさか!)
嫌な予感は的中するもので、少女は元気良く、はい、と頷いた。
「あなた様こそ陛下のそっくりさんです!」
「冗談じゃない! なぜ魔王がごくごく普通の女子高校生とそっくりな顔をしているんだ! あり得ないだろう!!」
「それがあり得るんですぅ! お願いします。しばらくの間でいいので、陛下の身代わりを努めてくださいませんか?」
「無理」
即答だ。当たり前だろう。考える余地もない。ただの人間が、しかも女子高校生が魔界で魔王の身代わりをするだなんて!
むしろ即答せずに僅かでも考えることのできる女子高校生がいれば、その娘を尊敬する。
「ほんと無理だから、さっさと私を人間界に帰せ!」
「……」
少女は押し黙った。その沈黙が妙に不気味で、おそるおそる少女の顔を見れば、彼女の顔は恐ろしいほどに無表情だった。
まるで顔面に『無』の一文字が書いてあるかのように、瞳の光はすぅっと消え、唇は真っ直ぐに結ばれている。
「……」
「……」
呼吸も忘れるほどの重苦しい沈黙の数秒間の末に、不意に少女の瞳がキラッと怪しく輝いた。
「そうまでおっしゃるのなら仕方ありませんね」
「え?」
「わたくし、せっかく召喚できたあなた様を人間界に帰すつもりは、これっぽちもございません。他の悪魔に頼むか、魔界で野垂れ死んでください」
「はあ!?」
――魔界で野垂れ死んでください。
エコーがかかって聞こえた言葉に耳を疑う。
「じょ、冗談でしょ?」
正直、魔界がどういうところなのか知らないが、ろくでもない場所であることは想像に易い。
なんというか、アメリカの治安の悪い場所よりも更に治安は悪そうだし、アフリカの大草原やアラビア砂漠なんかよりも野宿は厳しそうだ。
あまりのことに聞き返せば、少女はにっこりと笑みを浮かべた。
「本気です」
語尾にハートマークでも付いていそうな響きに閉口する。
すると、さらにハートを周囲に撒き散らしながら彼女は言った。
「どうなさいますか? わたくしに従い、陛下の身代わりを務めた後、五体満足で人間界に帰るか。それとも、ひとり魔界に放り出されるか。この辺りは食い意地の張った魔獣が多いので、頭からバリバリ、骨まで残さず食べてくださるかと思いますよ?」
「卑怯な!」
「悪魔ですから」
「ぐっ!!」
喉に物が詰まったような音を鳴らしてから、分かったと承諾の言葉を言いかけて、はたと気付く。
(待って。このやり取り、なんだか覚えがあるんだけど……)
既視感の原因を捜そうと視線を巡らせると、先ほどの木棺が視界に入る。
木棺はとても頑丈な造りで、蓋や箱のサイドには彫刻が施され、木材には黒漆を塗られている。そして、その見た目は、いかにもドラキュラが眠っていそうな棺だ。
(悪魔に召喚されて、棺から出て来るって……。あれ? まさに兄貴がつくったゲームじゃん?)
兄がつくったゲームのオープニングがまさに主人公が棺から出て来るシーンなのだ。
「――ってことは、やっぱりこれ、夢じゃん! 兄貴のゲームの夢を見ているんだよ! うわぁーい、よかったぁー。夢だぁ!」
ばんざーい、と両腕を上げると、少女がじとりと視線を向けて来る。
「夢じゃないですぅ」
「だって、あんた、名前なんていったっけ?」
「ラウムですけど?」
「ほらほら! やっぱり兄貴のゲームじゃん!」
兄のつくったゲームでも、悪魔の少女ラウムが主人公を魔界に召喚するのだ。そして、急死した魔王の身代わりを依頼してくる。
「夢じゃないですぅ!」
「いや、でもさ、夢じゃないなら、なんなわけ? 他に考えられるもんある?」
ラウムに問いかけながら自分自身でも考えてみる。
(夢でないのなら――。まあ、夢だとは思うけどさ)
だが、こんなにもはっきりとした夢があるだろうか。物に触れた時の感触が妙にはっきりと感じるのだ。
確認の意味を込めて、腕を伸ばし、ラウムの頬を指で突いてみる。ぷにっと柔らかい感触が指先から伝わってきた。
(うわ、めっちゃリアル!)
ぷにぷにと何度かラウムの頬を突いているうちに、背筋がゾクゾクと冷えてきた。
(……えーっと、もしかして夢じゃない? うそでしょ。じゃあ、何だって言うんだ?)
まさかとは思うが、ひとつの可能性が浮かぶ。
(兄貴のゲームの中に入っちゃったとか? えぇーっ⁉)
さっと顔を青ざめさせると、それまで好きなように頬を突かせてくれていたラウムが眉を顰めて口を開く。
「それで、どうなさるんですか? 我が君の身代わりを引き受けてくださるんですか?」
再び突き付けられた選択肢に、ラウムの顔を見つめながら、どうするべきか思いを巡らせる。
ここが兄のゲームの世界だとしたら、下手したら死ぬ。乙女ゲームのはずなのに、兄のつくったゲームは主人公が簡単に死ぬ仕様なのだ。
ゲームの世界で死んだら現実世界に戻れるということなら死んでも構わないのだが、そうとは限らない。ゲームの世界での死が現実世界の死と繋がるかもしれない。
だとすると、今の自分にできることは、このゲームの世界を何が何でも生き延びて、ゲームのシナリオを進めていくことだけだ。そして、それが元の世界に帰るためになると信じるしかない。
選ぶべき選択肢を決めて、ひとつ深く息を吐き出した。そして、告げる。
「――分かった」
【メモ】
ラウム……『わたくし』・カラス・『我が君』と『陛下』を使い分けている。
『オセ様』『べリス公』『シャックス侯』『ハウレス大公』・彼女が『大公』や『大公殿下』と呼ぶ時は、女大公のこと。
伯爵。『ふたつ月の国』の北方に領地を持つ。領地のほとんどは山地で、有翼種が多く生まれる。
元座天使。黒曜石の瞳。腰まである黒髪を二つに分けて結っている。
見た目の年齢は、主人公と同じで高校生くらい。身長158センチ。
白地に翼を広げた烏が描かれた軍旗。