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明後日の朝

 この少年は誰だ。

 隣で何事もないかのように食パンを口に運ぶ少年。

 おそらく小学生高学年から中学生くらいの、背が少し小さい黒髪の少年。

 

 お互い同じ方向を見る形で椅子に座り、テーブルには朝食が置かれている。

 テレビでは朝の天気予報がやっていた。


 なんだ、この感覚は。

 全て覚えているはずなのに、何も思い出せない。


 少年の肩を叩く。

 俺は聞いた。


「君は……誰だ……?」


 少年は、まっすぐ俺の目を見つめている。


 ………………。

 しばらくの沈黙が生まれる。


「誰って……」


 少年は口を開く。


「誰……誰……誰……?」


 俺から少し目を少し下に逸らす少年。

 一方俺は、目線をそのまま動かさずに口を開いた。


「名前は……? 覚えてる?」


「覚えてる……。でも……思い出せない……。忘れちゃった……?」


 忘れていることすら忘れているのか。

 頭の中で、日本語がぐるぐる回る。


 何か、何か思い出そう。


 きっと、この少年は俺と同じような記憶状態なのだろう。

 なんとなくそんな気がした。


 もはや、自分の体が自分の意思で動いているのかすらわからない。

 思考に制限がかけられているような感覚。

 それなのに、身体はこれが正しいと言っている。


 時計が七時を指す。

 七時……そうだ。

 そろそろ会社に行く時間だ。

 会社……そうだ。

 俺は会社員であった。

 会社に行こう。

 

 ただ、会社にどうやって行くのか。

 分からない。


 少年が口を開いた。


「そうだ、学校……」

 

 学校…………。

 学校、か。

 懐かしいな。


「俺も。会社、行かなきゃ……」


 今の声は誰だ。

 少年の声ではない。

 俺だ。


「あー、やだ。もうやだ。休みたい」


 俺だ。

 表情を変えずに口だけが動いている。


 俺は、会社に行きたくない。

 そうだ。

 行きたくないんだ。

 会社。

 なんでだっけ。


 時計の針は、六時一分を指す。


 思えば、頭の霧が少し晴れた気がする。


「君……学校、どこの学校?」


 今のは俺の声だ。

 頭で考えたことが、そのまま声に出たから分かる。


「分からない。でも、中学校」


 中学生……。

 俺は次に名前を聞くことにした。


 だが、少年が先に口を開く。

「名前は……なんですか?」


 俺は……分からない。


「ごめん、分からない。君は?」


 少年は案の定首を振る。


 思い出したいのに思い出せない。

 とてももどかしい。

 そして、その思い出したいものは名前や会社なんてものではない気がした。

 もっと、こう、大切な、大切なもの。


 俺は言った。


「何か、思い出せないか?」


 少年は言う。


「うーん……なんか、すごく嫌だ」


「俺が?」


「ううん、違うよ」


 そういえば、俺もそんな気がする。

 会社には行きたくないし、黒いモヤモヤが体を包んでいるような気持ち。


 お互いの共通点は、気分が暗いこと……?


 俺は少年に聞く。


「なんで嫌なの?」


 少年はしばらく黙った後、また首を横に振って答えた。


「分からない」


 外では、雨が降っている。

 俺は言う。


「雨が降っているからかな?」


「確かに、やだね」


 少年の声が緩くなるのがわかる。


「俺は、雨が降ると必ず美味しいお昼を食べに行くんだ」


 再び少年と目が合う。


「そうなの? 何が好き?」


「ラーメンとか、かな」


「ラーメン? 僕も好き! いいなぁ……」


 そんな話をしている場合ではない気がする。

 ただ、相変わらず体はこれで正解だと言っているのだ。


「いいことだらけじゃないんだよ? お金がかかるんだよ……、貯めたいのに。雨だからって言う理由をつけて、言い訳をして、そういうラーメンはあんまり美味しくないしな」


「そんなに美味しくないの?」


「美味しいには美味しいんだ。ただ、同時に罪悪感みたいなものが襲ってくるんだよ」


 そう。

 まるで今自分を覆っているようなもの。


「なんか、僕もわかる気がする……。学校をずる休みした時のお昼ご飯は、ちょっと美味しくないかも」


「よく分かってるじゃないか」


「えへへ……!」


 そうだ、自分を覆っているのは罪悪感だ。

 

 なぜだ。

 自分は、仕事を真っ当にこなして、自分の稼いだお金で、生活をしている。

 なのに、なんでこんなに罪悪感を感じるのだろう。

 忘れてはいけないことのような気がする。


「学校、ずる休みしているの?」


「うーん、みんなはそう言うんだ。でも僕は、休みたくないんだ」


「休みたくないのに、なんで休んじゃうの?」


「クラスに馴染めなくて……、みんな僕の悪口を言うんだ」


「先生に相談しないの? いじめとか」


「いや、いじめじゃないんだ。 みんなもそう言ってる。僕はクラスに馴染めてないだけで、いじめじゃないんだって。だから、休むと怒られちゃうの」


 「本人が嫌なら、それはいじめだ」

 なんてよく言うが、そんなことを言ったらいじめたいじめてないの無限ループではないか。

 俺は知っている、そう言う奴ほど、周りから人が離れていく。

 なんでそんなことを知っているのか。

 まだ分からない。


 少年は言う。


「お兄さんは自由でいいよね。会社を休んでも、お母さんに怒られないんでしょ?」


 そんなことない。

 いや、そんなことはあるのだけれど、そんなことで休んでいたら、生活なんてできない。

 この少年と違って、怒ってくれる親なんて、そう身近にいるわけでもない。

 面倒を見てくれる人なんていない。


 ある意味、不自由なのだ。


「そんなことないよ。嫌なことがあっても、会社に行かなきゃ生活ができないからね」


「そうなんだ、じゃあ僕は休んでも生活ができる仕事に就きたいな」


「そんな仕事はないと思うけど……、なんか夢とかあるのかい?」


「うーん、社長になったら、休んでも生活できるかも?」


「尚更無理だと思うよ。社長は忙しいと思う」


 社長になったら、俺の貯金なんてすぐに貯まるかもしれない。

 だけど、おそらくその分、倍忙しくなるんだと思う。

 それなら、今のままちょっとずつ貯めていったほうが楽な気がした。


「忙しくない社長になりたいな」


「それは社長というのかな……。無理じゃないか?」


「分からないよ? なれるかもしれないよ?」


「俺は無理だと思うな……」


「僕はできると思う、なれると思う!」


 この少年がもし本気でそれを目指しているのなら、どんなに馬鹿げた夢だとしても応援してあげたい。

 そう思った。

 少なくとも、自分にできないことをできる可能性があるということだ。

 

 俺は、すでに気づいていた。

 この少年が誰なのか。

 なぜこの空間が生まれているのか。

 

 なんで、こんな話をしているのか。


「それなら、学校に行かなくちゃな」


「嫌だけどね、大人になったらやらなきゃいけないんでしょ?」


「そうだね、時には間違ったことも正解しなきゃいけない。したくないことも、笑ってやらなきゃいけないんだよ」


「僕はやだな……やるかどうかは大人になってから考えてみるよ」


「それでいいと思う」


 俺は席を立ち、腰を下げ、少年と頭の高さを合わせる。

 両手を伸ばして、少年の肩に置く。

 その幼い目をしっかり見て、俺は言った。


「君はもしかしたらこの先、嫌なことがあったり、やりたいことができなくなるかもしれない」


 少年は何も言わずに、ただ黙って俺の目を見ている。


「だけど、その場でやりたいことをやって欲しい。いつかできなくなってしまうから。学校を休みたいなら休んでいい。友達を殴りたくなったら殴っていいし、お母さんに反抗してもいい」


 俺は続ける。


「親のありがたみなんて、大人になってから気づけばいい。今と、明後日くらいまでのことだけ考えて、好きなことだけやってくれ」


 しばらく沈黙の間が生まれる。


「うん、分かったよ……! あとさ、」


 思い出せたのはここまで。

 この後〝自分“はなんて言ったのだろうか。

 視界が、白い光に包まれていく。

 少年の姿が、徐々に見えなくなっていく。


「頑張って…………!」


 その少年が最後に俺に残してくれた言葉。

 過去の俺が、俺に言ってくれた言葉。

 過去の俺が、未来の俺に言った言葉。


 物凄く小さく、幼い言葉。

 ただ、確かにそれは、思い出したくてしょうがなかった言葉であった。


 ラーメンを我慢してみよう。

 雨でも、早めに会社に行ってみよう。

 あと二日頑張ったら、その日は朝だけ休みをとってゴロゴロしてみよう。


 気分は重いままだ。


 それでも……。


 明後日までなら、なんとか頑張れる気がした。

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