「12月、この月だから?」7.その日の、栞
お昼と言うには少し遅いような、けれどまだ、夕方と言うには少しはやいような。そういう感じの時間。
栞は、自宅アパートが見える場所まで帰ってきた。
栞は二十代後半。
キリッというより、ふんわりと表現されることが多い、顔立ちや雰囲気だ。
セミロングの柔らかめの黒髪。ベージュのコート。薄い色合いのグレーのジャケットと膝下丈スカートに、白のブラウス。低めのヒールの靴。
仕事のときは、だいたいこういった系統の格好のことが多い。
自宅アパートは、白い外壁の、まあまあ築年数を重ねた建物。
丁寧に手入れされているし明るい雰囲気で、気に入っている。
建物に向かい、階段を使って二階へ。
栞の住む部屋は、この階の端にある。
(急に帰ってきたから、スノードーム、驚くかな)
歩いて共有部分を進みつつ、思う。
どのくらい伝わっているかはわからないものの、仕事で泊まり、帰りは出かけた次の日の夜遅くだと、スノードームに言ってはあった。
けれど今は、出かけたその日の、午後になってまだ数時間というところ。
予定が変わって、ずいぶんとはやい帰りになった。
解錠し、ドアを開け、玄関へ。靴を脱いで進み、メインルームとされている部屋に入る。
メインルーム内、部屋の外からは見えない位置の、低めの棚上に置いてあるスノードーム。
顔を動かし、ただいまーとスノードームに挨拶しようとして、気づいた。
スノードームの雰囲気が、いつもと違う。
(なんか……空っぽな感じ……)
スノードーム自体も、ドーム内の物も全部、いつもどおりそこにちゃんとあるのに、誰もいないかのような。
栞は足早にスノードームに近づく。
このスノードームは、いつからか、なんだかいつも、にぎやかな雰囲気なのだ。
声や音がしているわけではないし、中で物が常に動いているわけではないけれど、明るい暮らしがそこにあるかのような、そんな雰囲気で。
なのに今は、物だけ置き去りにされ、みんなどこかに行ってしまったみたいな、空っぽ感。
にぎやかな雰囲気を感じるようになってから、こんなことは、今までなかった。少なくとも、栞が知る範囲では。
「ね、ねぇ……いるなら、誰か動いて教えて……?」
いないかのように気配を消しているのかもしれない。そういうことができるようになったのかもしれない。それなら頼めば、反応してくれるかも。
細い糸にすがるような気持ちで、スノードームに声をかけた。
けれど、まばたきも惜しんでスノードームを見つめていても、誰も、なにも、動かない。
(動いてくれたら、わかったのに)
動いてくれたら、いるとわかった。でも、動きがないとなると、判断がつかない。
聞く者がいないからなのか、聞こえないからなのか、聞こえても意味が伝わっていないからなのか。
それとも、聞こえて、動こうとしても、もう動けない状態だからなのか。
そう考えて、ぞっとする。
誰もいないようなのが、なにかあって、存在そのものが、すでに消えてしまったからだったら?
(怖い)
だから、無理に、考える方向を変える。
消えてしまったのではなく、どこかに行ってしまったのだとして。
そうだった場合、消えてしまうよりはいいと思うけれど、それでも、なぜ? どこへ? と疑問がわく。
帰ってくるのか、帰るつもりで出かけたのか、帰ってくることはできるのか、心配になる。
(私が出かけている間に、出かけた? でも、もし……)
栞が出かけている間に、去ったのだったら。もう、帰ってくるつもりがないのだったら。
そうではなく、ただ、出かけただけかもしれない。
栞が泊まりで帰りが遅いという情報がちゃんと伝わっていて、ではそれまでこちらも外出、と、そういうことかもしれない。
これまでだって、予定を知って、栞の外出中に出かけて、栞が帰る前に戻っていたときもあったのかも。
そういう可能性もあると、思い浮かびはする。
けれど。
抜け殻のようなスノードームを前にしていると、悪い想像や不安も次から次へと浮かび、どんどんと大きくなっていく。
(最近のスノードーム、どんな感じだったかな……)
なにか兆候は? 参考になるような変化はなかった? なにかこちらに伝えようとしていたりとかは?
些細なことでも、なにか。
振り返って考えようとして、気づく。
(最近私、そこまで意識して見てなかったかも……)
挨拶をしてはいた。存在を無視していたわけではない。
だけど、気がかりにとらわれて、同じ空間にいるのに、自分のことばかりになっていた気がする。
おとなりさん。
三十代後半。かっちりした雰囲気と柔軟な思考の持ち主。
ひょんなことから仲よくなれた。
でも。
――おとなりさんじゃなくなるかも。
少し前に聞いた、おとなりさんのその言葉が、栞の頭から離れない。
ぽつりと、半ば無意識に口から出た言葉だったらしく、おとなりさん自身、言ってからあせっていた。
事情があって詳しいことがまだ話せないのに、これだけを先に言ってしまうなんて、と。
栞はそれ以上詳しく聞くことを求めはしなかったけれど、それからずっと、気になっている。
ひらがなで、おとなりさん。
おとなりさんの、さんは、なになにさんとか君とかの、さんとは少し意味が違う。
なになにさんという意味も含まれてはいるけれど、栞とおとなりさんの間では、おとなりさん、そのひとまとまりで、おとなりさんの名前というか呼び名というか、なのだ。
どの字を強く言うか、どういう音の並びで呼ぶかは、話の中でのリズムというか、そこまでの音の感じとかで、そのときそのときによる、といった風。
おとなりさんの名字は音成で、栞の隣の部屋に住んでいて。
その両方の意味をあわせて、おとなりさん、呼びにしてみたら、おとなりさんも、いいわねそれ、と気に入り、おとなりさん自身でも、栞に対しては使い始めた。
(だから、おとなりさんじゃなくなるかも、って、どの部分かわからないっていうか……)
名字が音成ではなくなるのか。栞の隣に住む人ではなくなるのか。どっちも、なのか。
もし名字が変わるとして、わりと確率的に大きそうな理由は、結婚するから、だろうか。
それぞれ事情も気持ちもあるけれど、結婚にともない名字が変わった女性は、栞の周りにもいる。
もしそうだったら、結婚お祝いのプレゼントを急には思いつけないかもしれないから、今から調べておいたほうがいい?
引っ越しだとしたら、お隣じゃなくなるとしたら、お世話になりましたと、やはりなにか贈りものを。
それぞれの場合において、なにを選べばいいだろうか。
そして。
渡す際、これからもよろしくという言葉を、一緒に渡してもいいのだろうか。
おとなりさんじゃなくなるかもしれない。
そのことに対して感じる、どうしようもない寂しさ。
それを、調べものや考えごとをすることで、どうにかまぎらわせようとしている。
栞自身、そう気づいてはいる。
おとなりさんじゃなくなっても、仲よくしてほしい。
これからもっと仲よくなっていきたいと思っていたのに。
その気持ちを、おとなりさんに伝えていいのか。悩んでいる。
(最近こんな感じで……だから、悩んでたり、ずっと調べものしてたり、テンション低めだったり、気もそぞろだったり、してたんだろうなぁ、家での私)
(もしかして……)
そういう雰囲気で、スノードームを苦しめていたのだろうか。栞と一緒のところにいるのが、難しくなったのだろうか。
「これっきりになっちゃったらどうしよう……」
思わず小さく声に出し、その自分の言葉で、ますます不安になった。
スノードームになにかあったらと心配して、相談先を調べたりはしていた。
でも、空っぽに感じるスノードームを前にして、こんなに動揺するとは思っていなかった。
声をかけたり、存在を感じたりする日々は、栞が自分で思っていた以上に、自分にとって大切な、自分の中で大きなものになっていたのだと、こうなってみて、わかった。
誰もいないように思える、スノードーム。
そしておとなりさんも、数日前から出かけている。
帰りがいつになるか、はっきりとわからない状況らしい。
おとなりさんもスノードームも栞のそばにいない日々が、今後の日常になったらと想像して、怖く、悲しくなった。
と同時に、なんか私って自分のことばかりだなぁと、落ち込む。
(なんかせめて……なにかしてないと)
そうだ、あたりを調べてみたら、さがしてみたら、なにか気づけたりしないだろうか。
スノードームの状況を知る手がかりが、どこかにあったりしないだろうか。
思って、棚付近を見たり、窓の外や、自分の住居スペースのいろいろなところを見たり。
(わからない。ないのか気づけてないのかも、わからない。――そうだ、外は?)
玄関に行きドアを開け、共有部分に出る。
まずはこのあたりを。
視線を動かし、顔も動かし。下のほうもよく見てみようと、しゃがみ込み。陰になっている部分を確認するため、更に姿勢を低くして。
「――栞ちゃん? えっ? うずくまってどうしたの? 大丈夫?」
栞の耳に、おとなりさんの声が届いた。
珍しい、おとなりさんの大きな声。
顔を上げて見ると、階段部分の方向から、栞のほうに走りだした、濃いグレーのコート姿。
響く足音。普段は静かに、歩くのに。
でも、栞の願望による幻の声でも姿でもなく。
(本物の、おとなりさんだ)
栞は、近づいてくる、おとなりさんの姿を見つめた。
(あ、じゃなくて、せめて立たないと)
しゃがんだまま見続けていては、よけいに心配させてしまう。
そう思って立ち上がったところに、おとなりさんが到着した。
お読みくださり、ありがとうございます。
次の投稿は、10/18(土)夕方~10/19(日)朝あたりを予定しています【2025年10/12(日)現在】
(状況によっては、それよりあとの、(土)夕方~(日)朝あたりになるかもしれません)
今後もどうぞよろしくお願いいたします。