「10月、目指すところへ」8.むかしむかし、とまではいかない過去、毬香炉は、
「私が投げつける……ですか」
「正確には、投げつける役を引き受けるか検討してほしい、だな。これから詳しく話す」
ひとまず言葉にした優月に、テーブルをはさんで向かいの椅子に座っているリョクが言う。
行に、生きた人の魂が入って出られなくなった。行は人の姿を保つことが困難で、毬香炉姿で魂と同居中。解決に向けて、テイクのいろいろな担当が動き始めている。
そういった話を優月が初めて知ったのは一昨日の午後。
ただ、その時点では、優月自身がその件に関して、直接的かつ具体的になにかをという話ではなかった。
モノ対応担当メンバーとして、知っておく必要がある。
また、モノ対応担当メンバーのスケジュールが変わりやすくなるし、優月に回ってくる作業の量も増えると思われるから、そのつもりでいてほしい。
おもには、そういった話だった。
気になるけれど、テイクが解決に向けて動いているのだから、心配はしなくてよいだろう。
優月は優月で、自分に来た仕事にしっかり取り組もう。
そう思って勤務していたところ、今日の昼すぎ、行のことで話があるとリョクに呼ばれた。
メンバー用の面談ルームに行き、リョクから切り出されたのが以下の話。
毬香炉を開ける必要がある。おそらく投げつけて開けることになるだろう。その投げつける役の第一候補が優月である。
という。
聞いた優月は、私が――、とひとまず言い、リョクがより正確に表現し、と、そういった状況である。
「ではまず、なぜ開ける必要があるか、からだが」
リョクが説明を始めた。
魂の、体のほうが今どこにいるかも含め、状況等、いろいろとわかった。
相手方とのやりとりがうまくいったので、明日にはその人の体をこちらに運び、戻すための実際の行動をする予定。
行からその人の魂を出し、体に戻して目覚めさせるのは、タカマサがおこなう。
出す際、毬香炉の外側から干渉した場合、魂にも行にも、かなりの苦痛と負担がある。
よって、毬香炉が開いている状態でおこなうのがよいと考えている。
「そのために開けたくてな」
「はい」
「投げつけなければ開かない状態のままと、ほぼわかってはいるんだが。それでも本番、まずは一応念のため、普通の開け方で開けることを試してみる。それで開けばいいんだがな。おそらく難しいだろう」
「……はい」
「誰かが投げつけて開けることになると考えている。だが、優月も知っていると思うが、誰でもいいとはいかない」
「そうですね」
そのあたりの事情も含め、行についていろいろとまとめられた文書がある。
優月がモノ対応担当として働き始めたとき、読んでおくようにと言われて読んだ。
ちなみに、モノ関係の能力を持っている優月について、まとめられた文書もある。
モノ対応担当のメンバーは読んでおくことになっているし、ほかのメンバーも必要なときには読む。
コトハについての文書もある。それも優月も読んでおくべき文書なので、内容を知っている。よって、その文書に優月がけっこう登場することも知っている。
リョクや月乃、三ネコなど、いろいろなメンバーの文書もあるし、それらの文書を優月も読んだ。
モノ対応担当をしているメンバーの文書はだいたい、モノ対応担当が読んでおくようにとされているものなのである。
さて、その、行である毬香炉。
行である毬香炉をつくったのは、律の弟が、とても親しくしていた者だ。
ここでは、つくり手、と呼ぶ。
つくり手は、なんらかの能力者だったのだろう。なにもないところから、毬香炉をつくり出したのだという。
大切な相手である、律の弟に贈りたくて、つくり出したそうだ。
そして、つくり出されたときから、毬香炉はすでにモノだった。のちに行という名になる。
ここでは、毬香炉、状況によっては、行と呼ぶ。
つくり手がなにかをつくり出したのは、この毬香炉が初めてだったようだ。
つくれるかも、つくりたいと思い、初めてつくってみたらできたと、律の弟に話したそうだ。
つくるのはこれきりにしておこうということも、二人で話していたという。
律の弟は、つくり手から贈られた毬香炉を、とても大切にしていた。
だがあるとき、いろいろとあって、第三者によって毬香炉が投げつけられるという出来事が起きてしまった。
地面にたたきつけられ、開いて転がった毬香炉。
汚れはついたけれど、拭けば綺麗になった。
傷や欠け、変形等は見当たらない。
一見、前とどこも変わらない毬香炉。
けれど、閉まらなくなった。閉められなくなった。
律の弟が閉めようとしても、つくり手が閉めることを試みても。
その事実を前に律の弟がした選択は、閉まらない毬香炉のまま、大切に持ち続けていくということだった。
一方、行は気づいていた。
強い敵意、悪意、あふれるほどの負の感情。それらを持つ者によって投げつけられた毬香炉。
モノである毬香炉が、それが原因で、負の方向に変質してしまった部分があることに。
気づいた行は、願っていた。
負の方向への変質が進まないことを。
今できる範囲で、なるべくよい状態を保っていくことを。
その後。
律の弟も、つくり手も、投げつけた第三者も亡くなってしまう、事が、起きた。
これは別に、毬香炉のことがあったからというわけではない。毬香炉がなにかを引き起こしたというわけでもない。
弟が遺した物を、律が引き受け、整理することになった。
律と毬香炉との出会いは、そのときだ。
大切にしていた物だと、明らかにわかる状態で遺されていた毬香炉。
趣のある色合い、眺めがいがありそうな透かし彫り。
開いているというのが、なんだか落ち着かない。律はそういう気持ちになった。
それに、弟が大切にしていた毬香炉は、閉めたらどんな姿なのか。それを見てみたいという気持ちにもなった。
律は毬香炉を閉め、その姿を知った。
ひとしきり眺めた律は、ひとまず毬香炉を、もとのように開けておくことにした。
開けようとして、しかし、開かない。何度か試しても、開けることができない。
開いた状態にしてあったのだから、閉めたいと思ってもせずに、そのままにしておけばよかった。
律は気にしつつ、弟が大切にしていた毬香炉を、せめて今度は自分が大切に飾っていこうと考えた。
毬香炉の存在をきっかけに律は、もともと好きで縁もあった香りの世界との関わりを深めていった。
次第に律は、毬香炉から気配のような感情のようなものを感じるようになり始めた。
帰宅した律を、おかえりと迎えるような。
仕事が立て込み、ほとんど寝る時間もないまま、また出かける用意をする律を、心配するような。
好きなことに向き合って、しばし充実した時間をすごせた律のことを、喜んでくれているような。
毬香炉と心地よい同居をしているような状態で日々を送っていたある日。
律は何度目かの、てづくりのお香を焚いた。毬香炉は使っていない。別の物でだ。
今度のは、かなり思ったのと近い、好みのものができた。
そう思ったとき。
凜としつつも、あたたかみのある低音の声が、律の耳に届いた。
その声は、自分は毬香炉だと、律に言った。
何度目かの、律作の香り。
その香りが行に届いたとき、行は今なら律に声が届けられると、なぜかわかった。
届けたい言葉は、たくさんあった。
だが、いつまで届けられるのかはわからない。この香りがある間ならずっと届けられるという確信はない。
行はとっさに、届ける内容を選んだ。
この毬香炉は、負の方向に変質してしまっている面がある。扱いに注意が必要なものになってしまっていると思われる。
できれば、こういったことを相談できるところがあれば、相談してほしい。
唐突すぎる話だっただろうに、律は真剣に受けとめ、相談先を検討してくれた。
そしてテイクに相談することを決め、相談し、テイクと行を出会わせてくれた。
テイクによって、行のいろいろなことがわかった。
これからについて、律はいそがしく参加できないことも多かったため、行はおもにテイクと考え、決めていった。
配慮が必要な面はあるけれど、トータルで考えたときに、毬香炉を本体としたまますごしていくのがよいだろう、となった。
人の姿になれると知った行は、人の姿ですごしていくことを選んだ。
普段、毬香炉の姿でいないほうが、毬香炉の事情を知らない誰かに、思わぬ行動に出られて危険が、といった事態になりにくいのではということも、選ぶときに考えたりした。
閉められなくなったり開けられなくなったりの毬香炉はその後。
投げつけなければ開かないけれど、壊れはしない。
しかし投げつけるにあたっては、いろいろな配慮と準備が必要。
なお、閉めればまた閉まるし、開いたままより閉まっているほうが、今は毬香炉にとっていいから、閉めておく。
そういった状態だ。
律は、行の持ち主を、律自身ではなくテイクにすることを提案した。
自分はいそがしく、行について、必要な時間をすぐにとれないことが多いと思う。
テイクが持ち主、としておいたほうが、村で暮らしテイクで働くと決めた行にとって、いろいろとスムーズだろう。
おもには、そういった考えからとのことだ。
でもできることなら、と律は願いを口にした。
テイクが持ち主という形にしても、そのときどきの行の今を知る、聞ける、立ち位置に、自分がいることを許してほしい。
律はそう願い、行は律のその気持ちを嬉しく思った。
テイクは、現時点では反対することはないと答えた。
以降、律は、行と直接の交流はほとんどしていない。
けれど、行のことを気にかけている態度は変わっていない。
お読みくださり、ありがとうございます。
今後もどうぞよろしくお願いいたします。
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