「10月、目指すところへ」5.糸と布に、ちゅうもーく!
『しばらくすごしていただく部屋にご案内するため、担当の者を呼びます』
言ってスマホを操作したリョクが、再び毬香炉に視線を向けた。
『それと雫さん。滞在中、なにかに映って姿を見たときに驚いてしまうかもしれませんので、先にお知らせしておきます。行は今、毬香炉の姿をしています』
『毬香炉……』
『はい』
呟くように言う雫に返事をしつつ、リョクがスマホの画面を見せる。
そこには、毬香炉、という文字と、毬香炉についての簡単な説明文。
リョクは、棚に伏せて置いてあった小さめの鏡を手にとり、行たちのほうに向けた。
リョクが横から覗き込むようにして映り具合を見つつ、鏡を持つ手を動かして角度や向きを調節する。
『こんな感じですかね。ご覧になれますか?』
リョクが訊いたが、見入っているのか雫は無言だ。
『しっかり映ってます』
行が代わりに返事をしておいた。
行はもちろん、自身の毬香炉姿をこれまでにも鏡等で見たことがある。
雫入りの状態になってからは今初めて見たが、見た感じは前に見たときと特に変わらないようだ。
『床や地面を急に近く感じたのは、こういうわけだったんですね……』
『あっ、はい。そういうわけです……ね』
少しして、納得したような声を出した雫に、行は気まずく感じつつ返した。
一八〇センチ前後の人間の姿から、毬香炉姿に。
目線の高さ、急降下である。
(絶叫系のアトラクションかい)
そういったものが好きならば喜んでもらえるかもしれない。
だが、相手を選ばず、事前説明も意思確認も予告もなしに決行、はいかがなものか。
その状況を、行はつくりだしてしまったのだ。
やむを得なかったとはいえ、申し訳ない。
『あらためまして、その節は』
『毬香炉……香炉……お香……』
もう一度しっかり謝ろうと声を出し始めた行だったが、雫も声を出し始めたため途中で黙った。
『匂い袋……和……着物……色……』
連想ゲームみたいだと思いつつ、雫が出していく言葉を聞く。
『染め物……機織り……』
『なんだろう……なにか、気になります。そのあたり』
『わかりました。情報共有します』
雫に応じたリョクがスマホを操作する。
少しして、再びスマホを操作してから、リョクが毬香炉に視線を向けた。
『まもなく、案内などを担当する者が参ります。秋桜はん、というメンバーで、こういう字を書きます』
リョクが画面を見せる。
『秋桜はん……この、はん、は、なになにさんとかの、さんとしての、はん、ですか?』
『いえ、このはんは』
『秋桜はんです。お待たせしました』
リョクが説明しかけたところで、ふすまの向こうから声がした。
落ち着きと茶目っ気を、不思議とあわせ持ったような声。
『どうぞ』
『失礼します』
リョクの返事を待ってからふすまが開けられ、現れたのは。
『ハンカチ……?』
(です!)
雫が小声で出した言葉に、行は心の中で返事をした。
『こっち向いて浮いてる……?』
(ですね!)
室内に表面全部を向ける形で真四角に広がり、ちょっとだけ浮いているハンカチ。
『秋桜柄のハンカチで、秋桜はん……?』
『大枠としては、そういうことになります』
リョクが声に出して答えた。
秋桜柄のハンカチ、秋桜はん。
アイボリーの地に、たくさんのピンク系の秋桜。とても丁寧な刺繍だ。
秋桜はんという名は、もともとは持ち主が何枚ものハンカチを、柄の名前のあとにハンカチからのハンをつけ、呼び分けていたことから始まる。
コスモスハン、と呼ばれていたハンカチは、秋桜はんという字にすることを、のちに、持ち主とも相談して決めた。
『刺繍……柄……名前……』
雫が、先ほど気になることを並べたときと同じトーンで言葉を出し始めた。
なんだか少し別の世界に行っているような雰囲気もある。
一方、秋桜はんは。
浮いたまま、すっと室内に入り、後ろを向く。
そしてハンカチの上の角二つを使って、ふすまを閉めた。
『えっ? 閉めた? あっ、さっきも自分で開けたんだ。布じゃないの?』
小声ながら、ほんの少しテンション高めに雫。珍しく、丁寧語でなくなっている。
目にした光景に衝撃を受けたからか、言葉並べを止めて、こちらの世界にしっかり戻ってはきたようだ。
『布です』
リョクが答えた。
といっても、秋桜はんの布は、必要に応じて、かたさ等いろいろ一時的に変えられるそうだ。
秋桜はんについて詳しく話せる段階やタイミングが来れば、雫に、そういったことを具体的に説明したりもできるかもしれない。
秋桜はんは、再び室内のほうを向くと前傾姿勢になり。
『飛んだ!』
雫が声を弾ませる。
前傾姿勢で少し高めの位置に浮き上がった秋桜はん。そのまま空中をすすすすーっと滑るように移動し始めた。
少し距離があるときは、この方法のほうが移動しやすいらしい。
秋桜はんは、リョクと毬香炉の近くまで来て停止した。
そして姿勢や、いる位置を調節する。
表面全部を相手に向ける形に。そしてちょっとだけ浮いて、ハンカチの下の辺が床や地面などの影響を受けないように。
秋桜はん的、基本姿勢だ。
『飛ぶハンカチ……飛ばされて……悲鳴……』
雫がまた言葉を並べだす。
『お礼……話して……あんずちゃん……きょうちゃん……そうだ! きょうちゃんのお母さん!』
たどり着いた、といった感じの雫の声が、室内に響いた。
『……うまくまとめて話せるかわかりませんが、いくつか、思い出したことが』
『伺います』
落ち着いた調子に戻った雫が言い、リョクが応じる。
それを受けて話しだした雫によると。
気づいたら、自分の体から出ていた。
ベッドに寝ている自分。
体に戻ろうとしたら戻ることはできたが、目覚めない、話せない、動けない。
出入りできるようなので、再び出た。
出てしまっている自分に、周りは気づいていないよう。
誰かに助けを求めることはできないか、移動してみる。
どうやら自分がいるのは大きな病院らしい。
お見舞い? 通院? 歩いている、きょうちゃんのお母さんの姿を見かけた。
きょうちゃんは、あんず、という漢字で、きょう、と読む。名前。
前に会ったとき、杏ちゃんも杏ちゃんのお母さんも、ハンカチのあんずちゃんと会話をしていた。
ハンカチのあんずちゃんは、ひらがなで、あんず。
話すハンカチと自然に会話をしていた人なら、僕に気づけたりしないだろうか。
姿が見えなくても、もし僕が、なんらかの方法で言葉を伝えようとしたら、受けとってくれるのではないだろうか。
もしそれらが無理だったとしても、杏ちゃんたちが今どこに住んでいるかわかれば、目が覚めてから会いに行けるかもしれない。
『……僕としては、そちらの目的のほうが大事だった気もします。また会いたいって、思っていたから』
そういった気持ちも言葉にしながら、雫が話を続ける。
雫が小学四年生のとき。
旅行中、宿泊先近くの庭で、悲鳴をあげて飛んでいく白いハンカチと遭遇した。
ハンカチが向かう先には池。
雫はとっさに手を伸ばし、ハンカチをつかんだ。
そこにあわててやってきた二人。
ハンカチの持ち主だという人は、杏と名乗った。
雫より背が高く活発そうな杏。
数歳上だと思ったので、同じ学年だと知り雫は驚いた。
杏と一緒に来たのは、杏の母親。むらさきに、いなほのほで、紫穂。
二人も旅行中で、近くのホテルに宿泊中とのこと。
散歩をしていたら強い風が吹き、ハンカチが飛んでいってしまったのだそう。
ハンカチには丁寧でかわいい刺繍がされている。紫穂によるもので、あんずの花と実だという。
杏と紫穂にお礼を言われた雫は、ハンカチが悲鳴をあげていたから、といったような話をした。
すると、あんずちゃんの声が聞こえるんだ! と杏と紫穂は驚きつつも喜んだ。
ハンカチのあんずが、雫に直接お礼を言った。
その後しばらく、杏と紫穂とあんずと雫で、楽しく話しながら時間をすごした。
刺繍、草木染め、機織り、匂い袋……そういったことについても聞いた。
今まであまり触れてこなかった分野だったけれど、興味が出てきた。
杏たちと、翌日もまた会おうと約束をしたのだが。
雫は、少し前に新しく雫の父親となった人の仕事の都合で、そのあと急に帰ることになってしまい、また会うことも連絡先を伝えることもできなかった。
雫はつい、名前や新しい名字ではなく、少し前まで使っていた母方の名字のみを、杏たちに教えていた。
そして杏たちの名字は聞いていなかった。
また会いたいと思いながら、会えないままになっている人たち。
紫穂の姿を、体から出た状態の雫が偶然見かけ――。
『近づいたけれど気づいてはもらえなくて。建物を出ていってしまうから、とっさに自分も出た……と思うんですが』
そのあとのことは、よく覚えていないとのこと。
『あんずちゃんのこと、テイクの方になら話しても大丈夫そうと思ったので話しました。でも……これ、話のほとんどが思い出話で、今の自分についての情報が……すみません』
『いえ。大事な情報です。お聞きできてよかった。ありがとうございます』
謝る雫に、お礼を言うリョク。
確かに、大事な情報だ。
あんずという名のハンカチ、杏、紫穂。
実はすでにテイクと関わりがある。
テイクの関わる範囲は広いので、雫がすでに、テイクと関わりがある相手と出会っていること自体は不思議ではない。
毬香炉姿や秋桜はんの姿や動きが、雫が思い出すためのキーになったことには少し驚いたが。
しっかり調べたり確認したりがまだなので雫には今は言えないが、この情報によって、今の雫にたどり着きやすくなったと思われる。
リョクが雫の話をテイクに伝え始めた。
行と雫は、秋桜はんの案内でこれから部屋移動だ。
『秋桜はん、さん。案内に来ていただいたのに、お待たせしてすみません』
雫が秋桜はんに言う。
『いえいえ。お話もとっても大事です。どどんと待たせちゃってください。あ、私の呼び方、秋桜はん、まででもかまいませんよ』
呼びすてなのに、そんな気がしない。さんづけすると、二重につけている気がする。
『そうおっしゃる方、多いです。自分の名前好きですが、その点においては私も実は、同感です』
朗らかに語る秋桜はん。
『さてさてではでは、ご案内しますねぇ。空飛ぶ絨毯で――ハンカチですが。ではちょっと失礼して』
秋桜はんが、しゅばっとすばやく動き。
直後、毬香炉は、秋桜はんであるハンカチの、表面側上。
空飛ぶ絨毯に乗っています、という感じに、床と並行に浮いた秋桜はんハンカチの上にいる。
『えっ? どうやったんだろう』
『はやすぎて、よくわかりません』
『ではではしゅっぱーつ。落としませんのでご安心をー』
雫と行が言葉を交わしていると、秋桜はんが明るく告げた。
『お部屋、こちらでーす』
すいすいすすいと案内されて、ホテル的な建物内の一室へ。そちらも和室だ。
畳の上に置かれた長座布団に気づく。
カバーの柄は、大きな和風の船。
『解決まで、そしてアフターケアも、テイクがしっかり対応いたします! 安心しておすごしくださいませー』
長座布団に毬香炉を置きながら、秋桜はん。
(乗りかかった船)
『大船に乗ったつもりで』
心の中で言ったのは行、声に出したのは雫である。
『そして滞在中のカバー、つまりサポートは、秋桜はんたちにおまかせあれー、布だけにー』
楽しそうな秋桜はんの声。
雫が思わず、といった感じで笑った。
お読みくださり、ありがとうございます。
今後もどうぞよろしくお願いいたします。
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