「7月、文、筆、紙」3.シープ、スリープ、そして起きる
テーブルに置かれた、グレーのクッションマットの上。
握りこぶし大、白いふわふわボディの羊のぬいぐるみ、ひっつー。
テーブル脇の椅子に座り、優月は小声で呼びかける。
「……ひっつーさん」
ひっつーの、まん丸の黒目は開いたまま、体勢も、特に横になっているわけではない。
だが、寝続けているし、呼びかけによって起きた様子もない。
優月は少し声量を上げて、再び呼びかける。
「ひっつーさん。ひっつーさんっ」
『そのお声は優月さんっ!』
ひっつーは、飛び起きたような声で反応した。
「はい、優月です。こちら、珠水村の、テイク受付センター内、面談ルームの一室です。この部屋の中では、安心して話したり動いたりなさってください」
『わかりましたっ。着いたのですねっ。ありがとうございます。おやっ? テーブルの上ですかっ? よいのでしょうか』
優月を見てお礼を言ってから、ひっつーがいろいろな方向へ顔を動かし、再び優月を見た。
「大丈夫です。話しやすい高さにという、こちらの都合で、その位置にいたしました」
『それでしたら、ここにいさせていただきますっ』
「はい。もっとふわふわのクッションもあるそうですから、そちらのほうがよい場合は、おっしゃってください。それと、気になさっていた汚れはだいぶ落とせたと、担当した者が」
地面をかなり転がったうえに、長時間地面上にいたからと、ティッシュやビニール袋などを使ってほしいと言っていたひっつー。
まずその件をある程度解決してから面談ルームに連れていくと、あの歩道から移動するときに説明してある。
『そうですかっ! ありがとうございますっ。しかし、わたくしずいぶん寝入っていたのですね……気づきませんでした。汚れを落としてくださった方に、お礼を伝えていただけますか?』
「かしこまりました」
ひっつーに返事をし、優月は担当者にメッセージを送った。
ひっつーは、クッションはどちらがよいでしょうっ、と言いながら、手足や顔を動かしてみたり、少し歩いてみたりしている。
あのあと、歩道上で優月が溶けだす前に、テイクから連絡が来た。
穂風さんには、テイクから連絡してみる。
ひっつーさん本人から聞いたと現段階で明かすことはしないので、穂風さんへの状況説明の内容などはテイク側で考える。
今日の出張書道教室の終了予定時刻からすると、穂風さんと話ができるのは、けっこうあとになるかもしれない。
ひっつーさんが拒否しなければ、いったん珠水村へ。
端末が警告していないので、ひっつーさんもバスに乗せていい。
ひっつーさんの同意があっても、形としては人の物を勝手に移動させるという状況になるが、問題にならないよう対応しておく。
持ち主からはぐれたモノや、精神体のみになっているモノが周りにいないか、メンバーたちがチェックに向かう。
そういったモノがいた場合を考えて対応できるようにしていくし、ひっつーさんを発見した位置は把握済みなので、到着を待たずに優月たちは移動してかまわない。
鑑定や状態チェックへの同意を、この段階でひっつーさんから得られるようなら得てほしい。
そういった感じの内容だ。
読み終えた優月はひっつーと話し、珠水村への移動許可を得た。
移動手順や、このあとの予定なども説明する。
説明の過程で、以下のことも伝えた。
物に精神が生じた存在を、テイクではカタカナでモノと呼ぶ。
会話を聞かれても問題のないところに行ったら、優月は人間が話すときの話し方にする。以降、基本的にはその話し方で話す。
そういったことだ。
鑑定や状態チェックをすることなどに対しても、ひっつーの同意を得られた。
このあと移動を開始するということも含め、それらをテイクに連絡する。
ひっつーの要望どおり、ティッシュを使って持ち上げ、未使用のビニール袋の中にそっと入れた。
あとはおまかせしてしまってよいでしょうか。少しほっとしたからか、なんだか急に眠くなってきました……。
そう、ひっつーが言ったのは、そのあたりでだ。
珠水村へきちんと連れていくこと、面談ルームに落ち着いた時点でいったん起こしてみることを、優月は約束する。
ひっつーは、よろしくお願い……と言っている途中で眠ってしまった。
駅に行き、珠水村に向かうバスに乗る。
ひっつーが汚れを気にしていることを、バスの中でテイクに連絡し、到着後の対応を依頼した。
珠水村に戻り、テイクが使用している建物の中の一つへ向かう。
指示された部屋に行くと、汚れを落とす担当者が待っていた。担当者はすぐに、ひっつーについてしまっている汚れに対応し始める。
また、別の担当者たちも訪れ、ひっつーの鑑定や状態チェックなどをおこなっていく。
次々と各担当者が来て、必要なことをおこなっていく間、ひっつーは一度も目覚めなかった。
用意してもらった面談ルームに、優月がひっつーを連れていき、テーブルに置かれたクッションマットの上へ。
寝ているから姿勢を横にしたほうがいいのか迷いつつ、ひとまず、体を手足で支えるような、おそらくひっつーにとっての基本形であろう格好のままにした。
少し様子を見たところ、ひっつーは寝続けながら、体勢を自分で保っている。
鑑定やチェックの結果によると、ひっつーは、現在は、羊のぬいぐるみを新たな本体としているモノ、という状態だという。
拒否反応や不具合のようなものはなく、現時点で深く寝ているのも、なんらかの不調があるからというわけではないそうだ。
羊のぬいぐるみに、ひっつー以外の存在や、以前になにかがいた気配などは、ないとのこと。
ひっつーが宿る前は、モノではなく物だったようだ。
ちなみに、優月とひっつーが歩道から去ったのち、ひっつーがいたところだけでなく、かなり広範囲を担当者が調査した。
持ち主からはぐれたモノも、精神体のみになっているモノも、いなかったそうだ。
よく寝ている様子にためらいつつ、起こすため、優月はひっつーの名前を呼んだ。
目覚めて会話をしてから、テーブル上で体を動かしてみているひっつー。動きが、どんどんキレッキレになっていく。
動きやすいですし、クッションはこちらのままにいたしますっ、とひっつーが言った。
優月が頷いたところで、汚れを落とした担当者から、どういたしましてと、お礼への返事が来た。
優月がひっつーにそれを伝えると、基本形に戻ったひっつーがお辞儀をしようとし、そのまま前に転がりだした。
テーブルから落ちないよう、優月はあわてて手を伸ばす。
ひっつーは落ちる前に見事に止まった。向きを変え、転がる前にいた位置にトテトテと戻っていく。
優月は手を引っ込めた。
『どうもこの体は転がるのが得意なようですっ。お辞儀は心の中にとどめますっ』
「はい」
優月は深く頷いた。
ひっつーが基本形に落ち着くのを待ってから、優月は話し始める。
「出張書道教室の予定からすると、テイクが穂風さんとお話しできるとしても、もう少しあとになると思います。先に、ひっつーさんの鑑定やチェック結果などについて説明をと思うのですが、かまいませんか?」
『はいっ。目は、もともとこの体はぱっちりですね。頭もしっかり起きていますっ。お伺いします』
「はい。では……」
優月は鑑定やチェックの結果などを話し始めた。
おおかた話し終えたあたりで、スマホに通知が来る。
見ると、穂風さんと話ができた、とのことだ。詳しいやりとりの内容を読んでから、ひっつーに向かって口を開いた。
「穂風さんとお話しすることができたそうです。明日の午後、穂風さんがこちらにいらっしゃいます。面談ルームでお会いすることになりました」
優月の言葉を聞いたひっつーが、手足に力を込め、体の位置を少し高くした。更に顔も少し上に向け、あふれる感情を受けとめているような雰囲気だ。
少し待ったほうがいいかと思い、優月は言葉を止めていた。
だが、大丈夫ですっお続けくださいっ、と上を向いたままのひっつーに言われ、再開する。
昨日午後、穂風にアクシデントがあり、持ち物のいくつかが車道へ。拾い集めたが羊のぬいぐるみが見つからず、帰宅しておこなう用事の予定時刻が迫っていたため、やむなく帰宅。
今日もさがしに行ける時間はない。家族に頼むにも家族もそれぞれ予定がつまっている。だが、やっと明日明後日は、穂風は時間をつくれそう。
そういう状況のところに、テイクから、羊のぬいぐるみの件で連絡が来たとのこと。
テイクが穂風の住む家を訪ねることも選択肢として提示したが、穂風が、テイク受付センターに来ることを希望したそうだ。
ほかに相談したいこともあり、面談ルームで集中して話がしたいのだという。
穂風はテイクについて、周りから話を聞いたことがあったらしい。
昨日の件に関係して、相談してみようか悩んでいることがあり、そこにテイクから連絡が来たので、思いきって相談すると決めた、とのこと。
それに、羊のぬいぐるみが見つからなかった場合も、テイクに相談してみようかと思っていたそうだ。
『いろいろお聞きして、穂風さんが、ちゃんとご無事でいらっしゃると、更に本格的に実感できましたっ。嬉しいですっ』
喜ぶひっつー。
あつい季節ではあるが。
喜ぶ相手を見てあたたかい気持ちになるのは、どの季節であっても大歓迎である。
お読みくださり、ありがとうございます。
今後もどうぞよろしくお願いいたします。
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【短編2作品投稿済みです】
「とある宿泊施設の怪、談・コトハ」
「とある宿泊施設の怪? 談話・コトハと優月」
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【2025年9/8(月)に改稿】
・前書き文を削除しました。