「6月、コトハとサトウとボンボニエール」1.その存在は笑い声とともに
改稿については後書きで説明しております。
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6月を題材とした回は、過去の話がメインです。
優月が17歳になる年度の話からになります。
(4月と5月を題材とした回は、優月が23歳になる年度の話です)
「今回、胡椒も塩もほんの少しで、隠し味のような気持ちで」
「ほうほう、では、こしょっと(こそっと)、しおしお(しょうしょう)」
「あっは! ――あら……? 私……?」
ん?
再生した料理番組を流し聞きながら、高校課程の勉強をしていた優月は、手を動かしながらも内心で首をかしげた。
胡椒と塩の量をめぐるやりとりは、番組出演者のものだ。
けれどそのあとの、中音で耳に優しく響くような声での笑い声や言葉は、優月が今いる部屋付近から聞こえた気がした。
部屋、もしくはキッチンスペース、トイレやバスルーム、玄関付近など。いわゆる、アパートの一室内の、どこか。
だが、反応してよいのかわからない。
ひそかに悩む優月は、なにも気づいていないかのように勉強を続ける。料理番組も、次の料理に進む。
「それではこのように、くるみ餡をこちらで包みまして」
「わかりました。くるみ餡をくるみます」
「あっはは! ってだめよ。おとなしく。聞こえてないだろうけど……静かに静かに」
聞こえて、いるんですが……。
と、返していいものか悩んでいるうちに、優月は今日の分の勉強を終えた。
料理番組の再生を止め、いつもの就寝時間が来ていたから、寝ることを検討する。
よくわからない存在がおそらく、自分が一人ですごしているアパートの一室内にいる。
そう気づいたにもかかわらず、いつもどおり寝ることを、ためらわなかったわけではない。
とはいえ急きょなにかするにしても、浮かぶ案それぞれに、デメリットや疑問点も浮かんでしまう。
結果、消去法のような形で、いつもどおりを選ぶことにし、ベッドに入った。
聞こえてきた声に悪い感じがしなかったのも、理由といえば理由だ。
その後しばらくは、不思議な声を聞くこともなく、日々をすごした。
あの料理番組を再生すれば、声がまた聞こえるか、確かめられるような気はした。
だが、確かめて、聞こえるとわかったところでどうするのか。それを悩んで確かめないまま、日々がすぎていった。
だるい。それにものすごく、眠い。
部屋のローテーブルに伏せながら、優月は顔をしかめた。
先日、ちょっとしたトラブルから、ひどく雨に打たれた。そろそろ六月になろうかという時期なのに、その日はずいぶんと冷え込んだ日だった。
そこですぐ、どうこうということはなかったが、そのあと若干スケジュールがたてこんで寝不足が続いた。
次第に、風邪っぽくなっているような気はしていた。
どうもかなり具合が悪いなと思った途端、動くのがつらくなる。
タイマーが鳴っているが、起き上がれない。
お茶、煮出してるのに……コンロ……止めないと……。
そう思いつつ、意識が遠のいていく。
「ちょ、ちょっとこれ、どうするのよー!? 止めなきゃ。ちょっとー!」
あぁ、あの声だな。やっぱりいるんだな。
声に気づいて意識の片隅で聞きつつ思いつつ、体を動かすのがどうにも億劫だ。
「もう! 止めちゃうわよ! えい」
その声とともに、次第に静かになるコンロ付近。
どういう仕組みかわからないが、その存在がコンロを操作してくれたようだ。
助かった。ありがとう。
心の中で思いながら、優月はローテーブルから体を起こし、今度はその位置から床に横たわった。気になるので背を向けるのをためらい、キッチンスペースが見える形で寝る。
「あっ、ちょっとー! そこで寝るの? 背もたれになるほどベッド近いのよ。布団入りなさいよう!」
不思議な存在が発する、至極もっともな言葉を聞きつつ、優月は意識を手放した。
「あああもう、大丈夫かしら。全然起きないわよ」
戻りつつある意識の中、あせっているような、あの声の言葉が聞こえる。
「どう見ても風邪っぽかったわよね。薬は――あ、よかった。キッチンに近い棚だわ。どっちのむのかしら……とりあえず両方。あとは、飲み物……この小さめのペットボトルのお茶でいいわね、水じゃないけど。食べ物は……ゼリー飲料がいいかしら」
ガサゴソガタガタ、声とともに音がする。
「よし。そろったわ。でもどうやって届けようかしら……」
声の主、しばし、沈黙。
優月は横たわって目を閉じたまま、行動を悩んでいた。ぱっと見は、寝続けている状態のはずだ。
「ここから動けないなら、物だけ届けるしかないわよね。手の届く位置に、本人にはぶつけないように。せっかく用意するんだもの。気づかれないと困るから、少しは顔あたりにも。……できるかしら」
なんとも自信なさげな声が、優月の耳に届く。
「物だけ飛んで来る時点で怪しさ満点でしょうけど……当たりどころが悪かったら、もっとまずくなるわよね? 初のピッチングがピンチーイングになっちゃう……」
それは、ピンチの進行形のつもりなのだろうか。
ぼうっとした頭で優月は思わず考える。
「まぁやってみましょ。あまり振りかぶらずー、とう!」
声の少しあとで、伸ばした手の指先付近の床に、衝撃を感じた。
「あ、わりといい位置だわ。ではこの調子で、とう! と、えい! えい!」
再び手の付近、手の付近、その次は、顔付近。
そろそろ反応しても、おかしくないだろう。
優月はそろりと目を開ける。
顔付近に来たのは、薬だ。解熱剤。
顔を動かして見ると、手の付近には、風邪薬、ペットボトル、ゼリー飲料。
のそのそと手などを動かして風邪薬をのみ、優月は再び、眠りにつく。
「はやく治ってー」
小声で叫ぶという、器用な声での願いを、耳の端で聞いた気がした。
しばらくして起きたら、だいぶスッキリとしていた。
トイレに行ったあとで、ゼリー飲料を口にし、優月は今度はベッドに入った。
「よく寝るのよー」
ほっとしたようにかけてくれるその声に、心の中でお礼を言いつつ、優月はまた寝た。
お腹が空いた。
目が覚めて思った優月は体を起こす。体温をはかってみたところ平熱だ。
ベッドから出て身仕度をしてから、優月は鮭雑炊をつくってローテーブル前に腰をおろし、食べ始めた。
「いい匂いねー。食べられる状態まで回復してよかったわ。……でも……なんで私に、食べる機能はついていないのかしら……」
前半は弾んだ口調で、後半はみるみる沈んだ口調で。
「なんか……ごめん。こっちだけ食べて」
優月は思わず声に出した。
「いいのよー気にせず食べて。って、あら!? なんか会話してない!?」
「うん、してるね」
「やっぱり聞こえてる? なんでかしら……ほとんどの人間には、声が聞こえないはずなのよ……?」
「ほとんどは、全部ではないからでは……?」
「なるほど。そうね……」
「えっと、まずは」
食べ終えて、いろいろ訊きたいこともあるが、その前に。
「この度は大変お世話になり、ありがとうございました。コンロの操作や薬なども含め……助かりました」
なんとなく、キッチンスペースが声のメインのようなので、そちらに向かって頭を下げる。
「あら、どうもご丁寧に……」
お辞儀をし返してくれているような雰囲気で、声が応じる。
「それで、あの……あなたはいったい、どういった存在……?」
どう切り出していいか迷い、なんともそのままな問いかけになる。
「このキッチンスペースそのもの、ね。それに精神体が生じているの。コンロ操作も気づいているようだし、華麗なピッチングも知っているみたいね。ああいう感じで、キッチンあたりなら物体も扱えるわ」
声からの、はっきりとわかりやすい答えに驚きつつ、優月はひとまず返す。
「見事なコントロールだったよ」
「まあ! ありがとう。……ねえ、ところで、いつから私の声、聞こえていたのかしら」
「初めて聞いたのは、料理番組に笑った声」
「最初じゃないの、それ。あのとき初めて、私自身にはっきり自分で気づいて……その途端、いろいろなことが流れ込んできたのよね」
自分について、思考や会話などに必要な知識について、人間について、この場について、人間の暮らしやこの社会について、等。
存在し、すごしていくうえでのあれこれが、どういう仕組みでかはわからないが、一気にインプットされたらしい。
自分の声が、人間にはめったに聞こえないことも、自分の存在が相手にとっては不可解なものである確率が高いから、あまり存在をアピールしないほうがよいということも。
「だからおとなしくしていたのだけど。さすがにあの状況では無理よー」
「ご心配とお手数おかけしました」
優月は再度深々とお辞儀をする。
「あらこれはまた丁寧に……どういたしまして。……それで、どうしましょ、これから」
「ねえ?」
問いかけられ、顔を上げた優月も首をかしげる。
「私は基本的に、このキッチンスペースが居場所ね。精神体だけなら出られるけれど、その状態で物は扱えないわ。それにあまり長い時間、精神体だけでいないほうがいいみたい。人間の姿とかになる、なにか別の物に入るっていう手もあるみたいだから、場合によってはその方向で検討かしら」
「私は……すぐに引っ越しは……自分だけで決められないから、それなりに通る説明も何か所かにしなきゃいけないし……。そもそもこの状態で出て、次の人が来ていいのかどうか……。えっと、キッチンさんは、私と同居は、嫌?」
「嫌じゃないわよー。でもそれ、どちらかというと私が訊くことじゃないかしら……今更な気もするけれど……おそらくあなたにとって不思議な存在と、一緒の空間でいいの?」
問い返され、優月は小さく笑って頷く。
確かに不思議な存在ではある。けれど、見せてくれた行動も、話してくれている内容も、今すぐここから逃げようと思うものではなかった。
「あっでも……今後急に、なにか危険な存在になっちゃいそうかとか、わかったり、する?」
「んー? よほど気分がすさむとか、居場所の環境が悪化するとか、そういったのがなければ大丈夫そうよ。変化しそうなら、わかるみたいね」
「えっどうしよう。あまり熱心に掃除できてない……逆に手の込んだ料理もしてない……」
「それは別に問題ないわよ。例えば、毎回キッチンの物を蹴られるとか、毎回悪態つかれるとか、そんな感じよ」
「あ、それはしない予定。あとは……、私だけ、おいしい物を食べる……」
「正直とってもうらやましいけど、凶暴化はしません。ご心配なく」
「それは、なにより」
あとはまぁ、生活上のあれこれを見られてしまいそうなのは、それこそ今更だし。
そういったことをちょっと口にしたら、あらっ! ってシーンは、ちゃんと想像上の目を閉じてたわよー今までも、と返された。
それも、なにより。
人間と同居するわけではないから、各所に連絡するのは、かえって混乱のもとだろう。そもそも、ほかの人には声が聞こえないという確率も高いようだ。
めったに来ないけれど、来客時には、キッチンとの会話はしないようにしよう。
あとは、なにか聞かれたら、リモートでの会話、もしくはひとりごとで通すとしよう。
そういったことを話し合って決めつつ。
知っているかもしれないし、いずれ知るだろうから、優月が名乗ったりもしつつ。
「ただ……お互い初めてのことだから、ずっとこのままでいいのか、いて大丈夫なのか、はっきりとわからないし……どこか信用できる相談先があるといいんだけど……」
「そうねぇ」
「ちょっと具体的に調べたり、訊いたりしてみるよ」
「お願いするわ。あっでも、端末、キッチンに置いてくれたら扱えるかも」
「おや、便利。前の家で同居していた伯母が、もしよかったら使って、って、あれやこれや渡してくれて、いろいろあるんだよね。なんか見繕う」
イレギュラーであろう状況ながら、話の進みも意思の疎通もスムーズだ。
おそらく不思議な同居生活が、こうして本格的にスタートした。
お読みくださり、ありがとうございます。
今後もおつきあいいただけますと幸いです。
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【改稿について】
【2024年7/11(木)】空白行を入れる位置を変えたり、空白行を増やしたりといった変更をおこないました。
【2024年7/11(木)空白行関係以外の変更】
・複数箇所に、読点を追加しました。
・お腹空いた。→お腹が空いた。
・社会について等、存在し、→社会について、等。 存在し、(等。のあとで改行)