close to me
携帯が鳴った。
今年受かった大学の初登校中。てぽてぽと歩きながらそれを見てみると、知らない番号だった。
ぽち。
「お久し」
ひどいノイズの合間から、何だか猫を連想させる女の声。だけど、それは僕の知らない声だった。
「三ヶ月振りかな? 事故の話はもう聞いてる? 驚いたでしょ。もう、こっちも大変でさ。まあ、色々と頑張ってはみたんだけどね。でも、やっぱり駄目みたい。そっちには帰られそうもないや……」
僕に相づちを打つ暇すら与えず、一方的に話し続けて、最後には涙声。何が何だかさっぱりだ。
何と言えば良いのかわからず、ほとほと困り果てていると、電話の向こうはノイズと鼻をすする音だけを残し、ずいぶんと静かになってしまった。
「……あの、番号間違えてませんか?」
我ながら、女の子の扱いが下手くそだなぁ。電話の向こうで泣いている女の子に対して、ただ一言、「番号間違えてませんか」だ。うん、これはひどい。
案の定、返ってきた言葉は「ひどい」だった。
「もしかして、私の事忘れちゃったの? たったの三ヶ月間しか離れてないのに。それとも、新しい彼女でもできた?」
ますます話がこじれてきた。もしかすると、これは間違い電話なんかじゃなくて、新手のイタズラ電話なんじゃないか、という気がしてきたくらいだ。
「今、急いでて時間がないんですけど」
このまま彼女のペースに巻き込まれてしまったら、最後には、慰謝料よこせ、なんて事を言われかねない。
「あら、あなたが忙しいなんて珍しいわね。何してるの?」
残念ながら、完全に彼女のペースのようだ。
「大学に行く途中。初登校だから遅れたくないんですけど」
「大学!? 初登校!?」
そのまま彼女は黙ってしまった。彼女自身、これが間違い電話だという事に気が付いたのだろうか。
「そういえば、何だか声が少し若いもんねぇ」
そうそう。だからあなたが電話を掛けるべき相手は僕ではなくて――。
「でも、番号は合ってるんだよなぁ」
疲れたよ、僕はもう。
「……あ、そうか!」
しばらくの沈黙の後、というか僕が携帯の電源ボタンに指を伸ばそうとした時、その声は響いた。
ようやく気付いてくれたのだろうか。
「情報伝達速度の光速突破による因果律の崩壊……かな?」
「はあ?」
思わず声に出してしまった。何を言っているのかさっぱりわからない。全くもって意味不明、というやつだ。
「じゃあ、本当に間違い電話か何かだと思ってるんだ。まあ、無理もないか。あなたが大学に入学した時には、まだ私に会った事もないんだもんねぇ」
イタズラ電話側にメーターの針が大きく傾く。
「そういうお話に付き合ってる時間はないんです。もう切りますよ」
「待って待って待ってよぅ。イタズラだと思っても構わないから、話聞いて。これが最後の電話なんだから」
再び涙声。正直うんざりだったけど、さっきもひどい事言っちゃったし、話くらいなら聞いても良いかな、と思った。それに、電話代がかかるのは向こうだしね。
わかりました、と呟くと、鼻をすする音がぴたりと止まる。
「私はね、あなたの彼女……かな? 何か、すごく曖昧な付き合いだったけどね」
そうなんですか。そういう意味の言葉を漏らす。
「職業は物理学者。これでも、その世界じゃ結構な有名人なんだよ。で、今は宇宙飛行士としてこの船に乗ってる。――宇宙飛行士と言っても、物理学的実験のための研究クルーとしてなんだけどね」
「つまり、物理学者である君は、今宇宙にいて、そこから電話を掛けてきている、と」
「そゆこと。すごいでしょ」
僕の間の抜けた「すごいですね」という言葉は、彼女の猫みたいな笑い声にかき消されてしまった。
「……だけど、地球に帰る途中で船のメインエンジンが原因不明の故障を起こしちゃってね。そっちには帰られそうもないっていうのは、つまりそういう事」
「大変だねぇ」
「もう、冷たいなぁ。――あ、でもこの電話が過去のあなたにつながったという事は、間違いなく地球には向かっている、という事になるわね、この船は」
そう言った後、彼女は数字やアルファベットをぶつぶつと呟き始めた。そして最後に一言。なるほど。
「電話の電波を光の速度で飛ばしながら、それを高速で追いかければ、光速不変の原理でその電波は光の速度を超える事になる。そうすれば、原因が先で結果が後という因果律が崩壊して、原因よりも先に結果が現れる。つまり、あなたが電話を受けるという結果が、私が電話を掛けるという原因より先に現れた、というわけ。……私の言ってる事、わかる?」
「さっぱり」
耳元に大きなため息。
「そういうところは相変わらずだねぇ。ま、そこが好きだったんだけどさ」
ずいぶんとおかしなところを好きになられたもんだ。
「そういえば、私がこの船に乗るって決まった時、あなただけは反対してたね。みんな、自分の事みたいにすごく喜んでくれたのに、あなただけは最後まで悲しそうな顔して……。うん、そりゃそうよね。あなたは、もう私が帰って来られない事を知っていたんだもんね、この電話で」
また鼻をすする音が聞こえてきた。泣き虫な物理学者さんだなぁ。
「ごめんね。私があまりにも浮かれてたもんだから、電話の事言い出せなかったんでしょ。それとも、私が言っても聞かない女だって知ってたから、あえて言わなかったのかな」
「どうなんでしょうね」
電話の向こうの彼女の事も、そして彼女が本当に電話を掛けたかった相手の事も、何一つ知らない僕にはそう答えるのが精一杯だった。
「でも、あなたが全てを話してくれたとしても、きっと私は船に乗ったと思う。実験は全部成功したし、そのデータも地球に送信済み。やれるだけの事はやったって感じかな。それに電話が過去につながるなんていう、おもしろい体験も――」
ノイズがますますひどくなり、彼女の言葉はそれにかき消された。その合間を縫って、ピーピーという電子音が聞こえてくる。
「あちゃ、もう電源がなくなりそう。たまたま持ってきていた携帯電話を船の通信ユニットにつないで、電源もそこから直接つないでるから、この電話が切れると同時に船自体の電源も落ちる事になる」
「するとどうなるの?」
「酸素は供給されなくなっちゃうし、温度も下がり続ける。もって、十分てとこかな。まさに、余命幾許もないってやつ」
ノイズの向こうから乾いた笑い声。
「ごめんね。今のあなたにしてみれば、ずいぶんとタチの悪いイタズラ電話でしょう。……だけど、忘れないで。この電話の事。私の事。何一つ、忘れないで欲しい」
もう、それが鼻をすする音なのか、ノイズなのかすらわからないほど雑音でいっぱいの僕の携帯は、それでもかろうじて、彼女の最後の言葉ってやつを届けている。
「もう切れるね」
寂しそうに呟く彼女。
「最後に、今まで一回も言った事なかったけど。愛してるよ――」
ひときわノイズが大きくなり、そしてぶつりと静かになった。
もう何も聞こえない。ノイズの向こう側で微かに僕の名前を呼んだ彼女の声は、もう聞こえないのだ。
「何なんだよ、いったい……」
携帯をポケットにしまい顔を上げると、そこはすでに大学の正門。僕の大きなため息と同時に、講義開始のチャイムが鳴り響く。
「やばい」
慌てて走り出そうとした僕は、門柱の影からふわりと飛び出してきた白い塊とぶつかってしまった。目の前に、ぶ厚い本やレポートの束がばらまかれる。
「ひゃあ、ごめんなさい。考え事してたもんだから」
白衣を着た女の人が、猫みたいな声で謝りながら、その本やレポートを拾い集める。
「あ、新入生? 初日から遅刻とはなかなかやるねぇ」
顔もなんだか猫みたいだ。眼鏡をかけた猫。
「急げばまだ間に合うと思うよ。うちの教授達、時間には結構ルーズだから」
ほんと、ごめんね。そう最後に言って、彼女は走り出した。道路を横切り、向かいにある大学院棟の入り口へ。
僕は、自分が急いでいた事も忘れて、それが建物の中に入って見えなくなるまで、その背中を見つめ続けていた。
――そう、それが僕と彼女の最初の物語。
そして、最後の物語だ。




