薄っぺらな愛
『あなたを愛す。永遠に』
『嬉しい。私も——』
目を覚ますと、見慣れた天蓋。身体にのしかかる大きな布団は、しかし羽根のように軽い。
ああ、確かあの時の言葉もこれと同じように軽かったわと思い、起き上がるのに数分もかけた。
だるくて、だるくて、仕方がない。見たくもない夢を見てしまった日の朝はいつもそうだ。
「……愛など、知らないくせに」
ベッド傍の呼び鈴をならしながら、彼女は呟いた。
多分、部屋に入ってきた使用人には聞かれていない。
「ロベルタ・アマギウス侯爵令嬢。貴様との関係はこれまでだ!」
「…………」
週に一度の茶会の席。ロベルタと王子の関係を他貴族に主張する大切な場において、その言葉は突如として放たれた。
そして、耳を疑いたくなる言葉ではあったが、それ以上に目を疑いたくなる光景が目の前にある。雄々しく宣言する王子の傍には、この数ヶ月で見慣れた令嬢が控えていた。
その身はまるで薔薇の蕾のようであり、あと数年で美しい大輪を咲かせる事を予感させる。細い手首と腰、やや垂れた目尻、そして主張しすぎずそれでいて曲線的な胸。その全てが、男性の庇護欲をかきたてる一要素だ。鈴を鳴らしたような声で囁かれれば、例え魔王ですら邪険にはできまい。
ジュディア・ローゼンウッド。貴族の生まれではないが、国王にも覚えめでたいローゼンウッド商会の長女である。
近頃、ジュディアと王子がただならぬ関係であるという噂があった。ロベルタ自身、二人が共に歩く姿を幾度となく目撃している。
それでも、口は出さなかった。王子とロベルタが婚約関係にある以上、滅多な事は起こらないだろうと。
その結果がこれだ。
「ロベルタ。貴様はジュディアに嫌がらせ行為を働いていたな。侮辱、窃盗、そしてあろう事か傷害まで! 命に関わるほどであったと聞き及んでいる」
「私はその方と話した事もありませんわ」
「見え透いた言い訳だ!」
頭ごなし。
話す事に、意味はないようだった。ロベルタは誓って無実ではあるが、王子の中で答えが決まっている。これは弁明の機会などではなく、ロベルタが王子の思った事をするかどうかという確認だ。
つまり、謝罪があるかどうか。当然ではあるが、ロベルタは身に覚えのない事で謝る気など毛頭なかった。
「貴様がその気ならば、こちらにも考えがある! 沙汰は追って伝える故、それまで震えて待つが良い!」
雄々しく。大きく。
王子の宣言は、国中に響くのではないかというほどであった。事実、このまま放っておけば明後日には知らぬ者などいないほどの大騒ぎとなっているだろう。
「あなたは私と婚約関係にありながら、そのジュディアさんとも通じていたと。その事実を陛下がどう捉えるでしょうか?」
「ふん! 言うに事欠いて私を逆批判か! 馬鹿馬鹿しい!」
王子はジュディアを抱き寄せる。
「ジュディアと私は! 十五年も前に愛を誓い合った仲なのだ!」
「十五年……?」
「そうだ! 貴様との婚約はもう十年にもなるが、ジュディアとの関係の方が長い! むしろ、貴様の方が後から現れた女狐なのだよ!」
「殿下、ジュディアは嬉しく思います。あなたが私を覚えていてくださって」
「おお、忘れるものか。あの日の事は、永遠に」
今にも口付けをしそうなほどに顔を近づける二人を、ロベルタは静かに見つめた。絶句という表現が正しいが、貴族として口を開くような醜態を晒す事はない。
それを見た王子は、何を思ったのか得意げに話し始める。
「驚いているようだな!」
そしてそれに続く言葉は、なるほどロベルタに驚くべき事実ではあった。
「十五年前、ジュディアは王城に侵入していた。無論、見つかればタダでは済まないが、その日見つけたのは私だ。私達はすぐさま意気投合し、人目を憚って顔を合わせるようになる。そしてある日、私は彼女への恋心に気が付いたのだ」
「そして、私に告白してくれたのです。そうよね? 殿下」
「ああ、そうとも。再会した時は嬉しかった。初めは分からなかったが、君の手のひらのホクロを見て気が付いたよ。幸せを掴む吉兆の証だ」
仲睦まじく寄り添う二人を見て、ロベルタは吐き気がしそうだった。ここはロベルタの家で、二人はあくまで客人である。その立場から糾弾されているだけでも腹立たしいというのに、なぜ浮気現場を見せつけられなければならないのか。
不快。その一言に尽きる。
この場を早く収めたくて。なにより、早く立ち去りたくて。
「お話はわかりました」そう言ってしまった。「今日のところはお引き取りください」
糾弾する気も起きない。時間の無駄であると分かってしまったからだ。
国王への報告は、王子とジュディアのみで行われた。
自らの都合ばかりに配慮された話は、およそ事実に即したものではなかった。腹を立てたロベルタが醜く吠えただとか、暴力を仄めかしただとか、最後には罪を認めただとか。しかし、それが偽りであると訂正する者がその場にいなかったため、ロベルタへの沙汰は二人の望んだものが与えられる運びとなった。
つまり、婚約破棄。さらにはアマギウス侯爵領の一部剥奪。貴族としては、これ以上にない屈辱である。
自らの正義を成し遂げた王子は、これから過ごすだろう愛する者との幸せな生活に想いを馳せていた。
「ねぇ、殿下。愛しているとおっしゃって」
「もちろん愛しているとも。永遠に。あの日もそう言って告白したね?」
「……ああ、そうでしたわ。私、何度も聞きたい」
「ああ、愛している。あの日、押し花と共に送った言葉だ。そういえば、あの時の押し花はまだ持っているかい?」
「えっと……あ、使用人が間違えて捨ててしまったの。ごめんなさい……」
「いや、それならば仕方のない事だ。それに、今の私ならばもっといい物をたくさんあげられるよ」
こんな生活が、永遠に続くと思っていた。ロベルタを排除した以上、邪魔する者など何もないと。
ロベルタに初めて会った日、王子は『愛していない』と伝えた。『愛を伝えた人がいるのだ』と。だというのに、今更邪魔をしようなど言語道断である。多少卑怯な手を使いはしたが、王子は全く罪悪感を抱いていなかった。
「王子殿下! いらっしゃいますか!?」
扉が激しく叩かれ、ひどく慌てた声が鳴る。愛する者との時間を邪魔された王子は、見るからに不機嫌になった。
「なんだ、不躾に」
「申し訳ありません! 火急の要件でありまして!」
「申してみよ」
「はい!」
一呼吸。間をおいて、声はただならぬ様子で続けた。
「ロベルタ侯爵令嬢が自害なされました!」
「聞けば、首を吊ったと」
王子がアマギウス侯爵家に赴くと、当然だが騒然としていた。たった一人の愛娘を失ったアマギウス侯爵は抜け殻のようであり、物乞いの方がまだ生気に溢れているだろうとすら思える有様だった。
「既に埋葬は済まされたのですか?」
「娘は罪人として死にました。葬式をあげるなど恐れ多いですから。それに、家の墓に入れるわけにもまいりませんから、裏の森に名前のない石を立てさせていただきました。これだけはお許しください」
侯爵は、最後までロベルタの無実を信じていた。それは公において誤りではあるものの、娘が自殺するなど無念に違いない。それを思えば、肩を落としてはいるものの、気丈に振る舞っている方なのかもしれない。
例え、それが普段の侯爵からは考えられないほどに力のない声であっても。
「それで、私を呼ばれたのは一体……?」
「ああ、そうでした。これです」
そう言って侯爵が差し出してきたのは、一冊の本だった。
いや、侯爵はその本に挟まった紙片を取り出す。そして、それを王子へと差し出した。
「栞……ですか?」
「ええ。娘の亡骸の足元に、これを殿下にお渡ししてほしいと書かれた紙が落ちておりました。罪人でありながら言葉を残すなど不遜かと存じますが、なにぶん奇妙に思ってお聞きしようかと。殿下、これに見覚えはありますか?」
それは、長方形の紙だ。長く使われたのか、少しよれている。
裏返すと、下手な押し花が貼り付けられていた。もう元が何色だったのかも分からないくらい古い物で、粗雑に扱えばボロボロと崩れてしまうだろう。
一見して、ただの薄っぺらな紙だ。
「これは……」
覚えがない。王子がそう返そうとした時……
「あっ」
俄かに、記憶が脳裏を駆けた。
「そんな……! こ、これは!」
下手な押し花で、元が何の花だったのかも分からない。しかし、特徴的な葉の形を見れば、王城の中庭に自生しているルクスの花に違いなかった。
それは決して珍しい花ではないものの、王子にとってはこれ以上にない意味を持っている。
そして、王子と同じく、この世であと一人だけこの花を大切に思う者がいるはずなのだ。
「ロベルタ! 君なのか!? あの日の少女は!」
涙が溢れる。決して手放してはならないものを手放した事に気がついて。二度と手の届かない事を知って。
王子は膝を屈した。自らの愚かさを知ったとしても、もはや手遅れなのだと理解してしまったのだから。
◆
「本当に良いのかい? ロベルタ。王家に抗議してもいいんだよ?」
「いいのよ、お父様。あの方はもう、私になど興味がないらしいから」
「でも、十五年も想い続けた相手なのだろう?」
十五年前。初めての王城で迷ってしまった時、助けてくれたのが当時の王子だ。あれからしばらく遊ぶ仲だったが、社交界シーズンの終わりと共に疎遠になってしまう。
たかだかその程度の付き合いではあったものの、ロベルタの心は完全に奪われた。今となっては幼心の気紛れであるようにしか思えないが、その時の想いはなんと十五年も続いていたのだ。
そして、再会の日。
ロベルタと王子は婚約者となっていた。
家同士の決め事ではあるものの、この偶然に心を弾ませた。しかし、世界で自分程に幸福な者などいないだろうと舞い上がっていたロベルタにかけられた言葉は、彼女を萎縮させてしまうには充分すぎるものだ。
『私には心に誓った者がいる。お前の事は愛せない』
ロベルタの心は、たったそれだけで惨めなものとなった。
王子の決めた相手とはロベルタに他ならなかったが、ロベルタはその事に気がつかなかった。なにより、あの時の少女を自分だと知らないなどと思いもしなかったのだ。
王子がジュディアを連れて話した事によってようやく気がつき、そしてその瞬間に彼への気持ちは失われた。今のロベルタにあるのは、一刻も早くこの国から離れたいという欲求だけだ。
薄っぺらな愛。
そんなもので、十五年もの歳月を無為に過ごしたのだから。
「今から、叔父様の家が楽しみですわ。ああ、新しい名前も考えないと。でも、お父様に会えないと寂しいから、たまには会いに来てくださいね」
「毎日会いに行こう!」
「越境には馬を潰すつもりで走らせても三日はかかりますわ。お父様」
ロベルタは、亡き母の実家である隣国の侯爵家に養女として迎えられる手筈となっている。新たな身分、新たな家族。罪人として一生を過ごすだろうこの国で暮らすより、はるかに幸福な生が待っている事だろう。
馬車に乗る娘を見送る父は、貴族としての威厳など全てかなぐり捨てていた。生気が抜け落ち、あまりにも力がない。
「お父様、そんな事では王子を騙せませんわよ」
「今日は存分に泣かせてくれ! 明日までに体力を使っておかなくては、王子を殴ってしまいそうだ!」
「大袈裟なんだから」
父に対して、ロベルタの気持ちは軽かった。
今までの苦労は、この時のためにあったのだと思えるくらいに。
馬車が発つ。
彼女の未来へ。彼女を先へ。翌日にはここへ来る王子の目の届かない場所へ。恐らくは叫ぶ王子の声が聞こえない場所へ。
https://ncode.syosetu.com/n3697ic/
続編執筆しました