お土産
ここまでの閲覧ありがとうございます。あと半分くらい続きますので、お付き合いいただければと思います。
その日からというもの、鈴音は毎日僕の家に顔を覗かせるようになった。
毎日来ると言っても、彼女の通学路なんだろう。いつも決まって学舎帰りであろうお馴染みの矢がすりと袴姿で。いつも決まってお馴染みの鈴の音と共に僕の庭の金木犀を覗きにやってくる。
夕暮れ時が近付くと彼女を思い出す。
先生、と僕を呼ぶ声が待ち遠しくなった。
彼女が帰ってきてから日が暮れるまでの、時間にして約30分間。
長いようで短い時間を使って僕達は語り合う。
僕は家から出ること自体が少ないため彼女ばかりが喋っているが、僕は毎日彼女の話を聞くのが楽しみだった。
彼女の目から見た世界を知るのが楽しかった。
彼女はいつも、その日あったことや友達の話、学舎での授業の話を僕にしてくれる。
時々愚痴が交じることもあるが、語る彼女の瞳はとても輝いていて、毎日充実しているのだろうと見てるこちらが嬉しくなるほどだ。
昼間は原稿とにらめっこをして頭を捻っている僕にとって、彼女との語らいはいい気分転換になる。今となっては夕暮れ時を楽しみにするほど。
「これでちゃんと原稿も進んでたら・・・最高なんだけどなぁ・・・・」
今日もまた、畳に等身大の大の字を描きながら天井を見つめた。
文机には、あの日から全く進んでいない原稿がそのままになっている。
書いては捨て、書いては捨て。
床にはくずかごに入り切らずに転がった、丸められた原稿用紙が散らばったまま。
彼女との会話を小説の参考にしようとも思ったが、それも失敗に終わった。どうしてもうまく行かないのだ。
違う舞台を与えられて舞えと言われたところで、満足に舞えるわけがない。
少なくとも、僕にはそんな器用な真似はできない。
満足に舞うこともできず、衰え、枯れ果ててしまう自分が脳裏をよぎった。
「・・・・これで書けなかったら・・・僕はどうなるのだろう・・・・」
僕はまた、拗ねる子供のように両腕で顔を覆った。
この行為に何か意味があるわけではないが、自信を失いかけたときというのはやけに光が眩しく思えるものだ。
今はただ、その光から目を逸らしていたかった。
視界を遮ると、他の感覚が鋭敏になる。
新聞配達員の足音、頬を撫でる風、その風に乗って漂ってくる庭の金木犀。
そして遠くから聞こえてくる、鈴の澄んだ音。
「・・・・鈴・・・・?」
僕は上体を起こして外に目を向けた。
雲行きが怪しくなったのか少しばかり外は暗くなっている。確か今日は、夜には荒れた天気になると新聞に書いてあったか。
しかし、まだ夕刻ではないはずだ。
でも確かに、聞き慣れた鈴の音を耳にした。
僕は縁側に立ち、草履に履き替える。
むせ返るような甘い香りが立ち込める庭。その柵から身を乗り出して辺りを見回すと、ちょうど僕の家を目指して歩いていただろう鈴音と目が合った。
『あ、先生!』
彼女は僕を見つけるなり、ぱっと明るい表情になり小走りでこちらへ駆け寄る。
いつもの小袖に袴の装いとは違い、この辺りではあまり見かけないであろうワンピースを翻す彼女。いつもお下げにしている髪は解かれ、その頭には可愛らしい髪飾りが留めてあった。
「やあ、今日はやけにハイカラな格好をしてらっしゃるようだ。」
「似合いますか?お母さんには『嫁入り前の娘には丈が短くてはしたない』って怒られるんです。」
そう言って、膝下ほどしかないワンピースの裾を翻してみせた。それに合わせて、主人の気分を知ってか知らずか、鈴もチロチロと小気味いい音を鳴らしている。
途端、ふわりと舞った裾から、柔らかそうな白い太ももがちらりと覗く。
「○☓□△※ゝ*@∑!!!!!!????」
驚きすぎて、声にならない声が出た。
心臓がバクバクとうるさいほどに音を立てる。
いや待て。僕は何も見ていないぞ。
見てないったら見てない。
無防備に晒された彼女の太ももなんて断じて見てない。
僕は自分にそう言い聞かせ、人知れず目を逸らした。
婚礼も済ませていない娘さんの柔肌を見たなんてことが知れたら、それこそオオゴトだ。
「確かに・・・うら若い娘さんに膝下丈というのは・・・少しばかり心配だな・・・」
故意ではないにしろ、先程見てしまった柔らかそうな太ももを思い出して顔が熱くなった。見ていないと言い聞かせた割に、全く効果がない。
それどころか、あの弾けるほどに眩しい太ももが脳裏に焼き付いて離れない。あまりにも淫靡だ。
僕に対してもこの無防備さ。親御さんの心配もごもっともだろう。
しかもこの子は比較的お転婆で、またすぐ裾が翻ってしまいそうで余計に心配だ。
「可愛らしいが・・・もう少し所作を気にしたほうがその・・・いいと、思う・・・」
「か、可愛いですか!!?・・・えっと・・・、嬉しいです・・・ありがとうございます・・・」
彼女は少し頬を染めてはにかんでいるが、喜んでいる場合ではないぞ。
本当、所作には気をつけて貰わないとこっちの身が持たない・・・
それに、世の男たちにあの太ももは魅力的・・・・・否、扇情的・・・・
いや違う、刺激が強すぎる。
あの太ももは当分僕を苛み続ける気がするぞ・・・。
「えーっと・・・・ところで、そんなにめかし込んでどうしたんだい?今日は休校日かな?」
冷めやらない顔の熱をどうにかしようと、忙しなく手で顔を仰ぐ。未だに心臓はうるさく鳴っているし、なんだか喉がカラカラだ。
そう、きっと今日は暑いのだ。まだまだ残暑は厳しいのだ。
だから別にこれは・・・・彼女の肌を拝んでしまったからでは無く・・・・ただ、暑いだけで・・・・・・
「・・・・先生、今日は秋分日。祝日です」
言われてハッとする。もう秋分日なのか。
ということは今日は23日。
残暑もへったくれも無い。むしろ最近肌寒いくらいだ。
そういえば暑くてうだる日もめっきり減って、毎日過ごしやすくなってきた。落ち着いてみれば、手で仰がなくても熱が引くほどには涼しい。
普段は夕刻以外の時間あまり外に出ないので実感がなかったが、遠くの山々もよく見てみればちらほら赤や黄色に色付いている。
いつの間に来ていたんだろうか。気付かぬうちに秋も本番になっていたようだ。
「秋分日なんて、忘れていたなぁ・・・・」
「先生、執筆に追われて日付感覚が衰えているのでは・・・・?」
「そうかもしれない・・・」
「本当、ご自愛くださいね・・・」
「面目ない・・・・」
いつもはキラキラとした鈴音の瞳だが、今回ばかりは何か、心配そうというか、可哀想なものを見るような生温かい目だった。
しっかりと毎日暦を確認しながら生きたほうがいいと言う戒めになりそうな目だ。
女学生にこんな謎の配慮をさせてしまうとは、なんとも情けない・・・・。
「そ、そういえば、僕に何か用事でも?休みの日に来るなんて珍しいじゃないか。」
こうして会話を変えて誤魔化すのも何回目だろう。
彼女と出会ってからというもの、この誤魔化し方が常套手段となりつつある。彼女はいつも驚くほど素直に、僕の誤魔化しに乗ってくれるのだ。
しかしながら、未だに僕の誤魔化し方は上手くはならないのだけれど。
「あ、そうそう忘れるところでした!私、さっき街に行ってきたんです!ハンバーグを初めて食べたんですよ!」
「ほう、それは良かったね。して、味は如何だったかな?」
「とっっっても美味しかったです!いつか私も、未来の旦那様にあんなに美味しいハンバーグを作って差し上げたいものです・・・・」
彼女は恍惚の表情を浮かべ、ほぅ、とため息をついた。
ハンバーグか、懐かしい。
街にいた頃に『洋食』なるもの幾度かを食べたことがある。オムライスやグラタンに憧れて洋食屋へ繰り出して行ったっけ。
ただ僕には肉があまり体に合わなかったのか、その度に胃もたれしてしまったけど。
「未来の旦那様には毎日美味しい洋食を食べていただきたいので、花嫁修業も頑張らないと!その時は味見してくださいね!先生!」
「はは・・・美味しく作れたらね・・・」
彼女が本格的に花嫁修業を始めたら、彼女が嫁ぐまで僕は毎日胃もたれ生活かもしれない・・・。
そして嫁いだ先では今度、彼女の未来の亭主が毎日胃もたれに悩まされ続けるのではないだろうか・・・・
女性の作ったものに文句をつけるのも男らしくない。これは今のうちに胃薬を買っておいたほうがいいかもしれないな・・・
「・・・・で、ハンバーグを食べる為に街まで出かけたのかい?」
「わ、私そこまで食いしん坊じゃないです!街にはこれを探しに行ってたんですよ!」
彼女は手提げのカバンをごそごそと漁り、一冊の本を差し出してきた。
「先生の本!探して買ってきました!」
ドクン、と心臓が跳ねた。
彼女の手には、明るい彼女の印象とはかけ離れた表情のおどろおどろしい表紙。あの頃書いていた、僕の本が抱えられていた。
ああ、まだ書店に売っていたんだな。もうとっくに新しい作者の本が並んでいるとばかり思っていた。
僕の本は、もうみんなに飽きられたのだとばかり。
怪談を楽しんで書いていたことが思い出される。書き終えてから一年も経っていない筈なのに、なんだか遠い昔のことのようだ。
最近は恋愛小説を書くことに囚われているからか、見慣れたその本はやけに懐かしく感じられた。
「先生の御本ってお高いんですね、さすが大人気作家先生です・・・私のお小遣いがなくなってしまいました・・・・」
「言ってくれれば、僕の手元にも何冊か在庫があるから差し上げたのに・・・」
「こういうのは、自分で買うから価値があるんですよ!」
そういえば、身内の贈答用にと渡された数冊の本は、どこにしまったのだっけ。
あの本を見ていると、理想と現実の乖離を目の当たりにさせられるのだ。その度に胸が締め付けられるように痛む。
だから自ら、目の届かないところに隠して蓋をしたのではなかったっけ。
僕は理想とかけ離れてしまった今が嫌で、あの頃は良かったと思う度に自分の才能の無さを呪っていた。
みんなに読んで欲しいと願ったものだった筈だ。
それなのに、次第にそれが自分の無能さをまざまざと突き付けてきている気がして煩わしくなった。
あの本を視界に入れることすら苦痛になり始めて、目を背けて、本をどこか深くへ仕舞い込んでしまった気がする。
今ではもう、何処あるのかも忘れてしまった。
「・・・先生、私じつは・・・・実は、読み物が大の苦手なのです。お恥ずかしながら元来、私は文学が苦手で本を読まない質でして・・・・先生の本だから、買おうと思えたのです!きっと私は、生まれて初めて買う本が先生の本である為に文学嫌いとして生まれたんですよ。私はそう思っています!」
嬉しそうに本を抱え直して、彼女は僕を見据えた。僕はその純粋で真っ直ぐな視線に耐えられなくて、つい目を伏せる。
その本は、編集部が若手である僕を推し売る為だけに完成させた本だ。未熟な僕が書いたその物語に、文学的価値は無いに等しい。
生まれて初めて手に取ってもらうような、そんな崇高なものじゃない。
僕の自己顕示欲、編集部の財欲。それぞれのエゴが固まって出来た、私利私欲の塊だ。
「・・・・そんなに、良いものではないさ」
「先生がそんなこと言ってどうするんですか!私はこの本が欲しくて買ったんです。どうか、そんなこと言わないでください」
そう言って、彼女は笑った。
どうして彼女は、そんなふうに笑えるのだろう。まるで僕とは正反対だ。
何かトゲが刺さったかのように、僕の胸の奥がほんの少しだけチクリと痛んだ。
「私きっと、先生と出会わなければ本に見向きもしませんでした。興味なんて持てなかった。でも私は先生本人を知っているから。先生の見ている世界を少しでも知りたいから、読みたいと思ったんです」
どうしてこの子は、そんな気恥ずかしくなるようなことを臆面もなく言えるのだろう。
言われたこっちが照れ臭くて仕方がない。
なんだか逃げ出したくなるような、不思議な感覚。今までそんな経験をしたことがなかった。こんな感覚は初めてだ。
今まで貰ったどんな賛辞よりも居心地が悪い。落ち着かない。
どうしていいのかわからず、僕は戸惑った。
そんな僕を見て、彼女は僕に向けて笑いかけるのだ。
かぁ、と顔どころか耳までも熱くなるのを感じて、俯いた顔を片手で覆う。そして呆れたように、やれやれと言ったようなため息を吐くくらいの事しかできなかった。
照れ隠しとしては、全く以って不合格だ。
「それともう一つ。いつも執筆を頑張ってらっしゃる先生にお土産です。私と同じ鈴のお守り。結構ご利益あるんですよ?私が保証します!」
彼女の手のひらにちょこんと座っている空色の鈴。いつも彼女の訪れを告げる音と同じ音色だ。
僕の熱を冷まそうとする風が通り抜ける度に、彼女の手のひらの鈴が転がって小さく鳴いていた。
「先生いつも疲れてらっしゃるので・・・だから、先生の努力が実るようにおまじない掛けときました!」
進まぬ原稿に頭を悩ませて、日々憔悴しきってるのは確かにそうなんだが・・・。
僕は普段、そんなに疲れていそうな顔をしているのだろうか。
・・・・いや、僕は基本家から出ないし、あまり身なりにも気を使ってるとは言い難い。彼女が来たときに申し訳程度で髪を整えてるくらいだ。
服装も部屋着で若干くたびれているし、余計に疲れて見えるのか。
「・・・いいのかい?もらってしまって・・・」
「買ってきたのに貰い手がいないと、この子も立つ瀬がありませんので!貰ってやってはくれませんか?」
彼女は人懐こそうに笑って、さあ、と鈴を乗せた手のひらを僕に差し出す。
鈴がまた、持ち主を求めてチリンと鳴いた。
今回もお目通しありごとうございました。
続きは10/27に更新いたします。