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初恋、始めました。  作者: 三咲
2/3

鈴の音

お目通しありがとうございます。

2話になります。

少しでも楽しんでいただけているなら嬉しい限りです




 僕は外の様子を見るために、畳の上を腹這いになって縁側まで移動する。

 ・・・怠惰な事この上ないが、正直なところ寝起きの体では立って歩くのがあまりにも億劫だったのだ。


「ふふ、可愛く咲いたね」


 細い枝が組まれた簡素な塀の隙間から、向こう側で誰かがしゃがみこんでいるのが見えた。

 腰ほどまでの低い柵ではあるものの、腹這いの自分の目線ではこれ以上を伺い見ることができない。

 しかし声だけで辛うじて女性だということがわかる。

 僕がこちらから見ていることに気付いていないようだ。

 彼女は体を丸めて膝に頬杖をつきながら、時折幸せが溢れ出したかのような笑声を漏らす。


 誰だろう。


 そんな純粋な疑問が首をもたげる。

 夕暮れの風に乗って、覚えのある甘い香りが鼻腔をくすぐった。

「どなた様かな?うちに何か御用でも?」

「きゃあ!?」

 あ、転んだ。


 彼女は小さな悲鳴を上げるとしゃがんだまま一歩飛び退き、尻餅をついた。

 その様子は、塀の隙間からでもまざまざと見受けられたのだ。優しく声を掛けたつもりなのだが、どうやら驚かせてしまったらしい。

 悪気はなかったのだが、女性に恥をかかせてしまったような気がする。

 手を貸そうかと思い気怠い体を持ち上げようとすると、彼女はそれよりも早く体勢を立て直して塀から顔を出した。


「あ、あの!ごめんなさい!・・・お邪魔するつもりは無かったのですが・・・」


 彼女は狼狽えながら、僕に向かって深々と頭を下げた。

 彼女の動きに呼応して、また小さく鈴の音が鳴る。


 矢がすりの小袖に紫の袴。女学生か。

 黒絹の下げ髪に薄桃色のリボンがよく似合う、まだあどけなさの残る娘だった。

 そうは言っても、僕ともそこまで歳は離れていないだろう。

 僕もまだ、学生時代が古き良き思い出になるほどの歳ではないのだ。

「もしかして、先日お引越しして来られたという小説家の先生でいらっしゃいますか?」

「ああ、まあ・・・・」

「やっぱり!お名前、存じ上げております!著書を拝見したことはありませんが、とっても高名な方なんだとか!」

 僕は彼女の問いに、なんとも言えない曖昧な返事を返す。そんな言葉を、彼女は肯定と受け取ったらしい。

「私、隣の家の娘で、鈴音と申します。ご近所さんなのにご挨拶が遅れてしまって申し訳ありませんでした」


 鈴音と名乗った娘は、まるで色めき立つかのように目をきらめかせた。

 謝罪をしている割には、全く申し訳なく無さそうだ。それどころか、むしろ嬉しそうにすら見える。

 まあそういうところも、少女らしくていいじゃないか。

 そう思うとなんだか微笑ましい。


 隣の家とは、我が家の垣根を隔てた向こう側の家のことだろうか。

 ご近所さんどころか、数歩歩けば辿り着く完全なお隣さんではないか。

 引っ越してきてからずっと家にこもりきりだったから、近所付き合いなど皆無だ。隣の家にどんな人が住んでいるのかすら知らなかった。

こちらとしても申し訳ないことをしてしまったな。


「あ・・・・もしかして私、とてもお忙しい時にお邪魔してしまいましたか?」

「・・・・?いや、そこまで忙しいわけでも・・・・?」

「なんだかとても疲れていらっしゃるようにお見受けしますし・・・御髪もかなり乱れていらっしゃったので・・・」

 遠慮がちにそう言われてはたと気付く。

 掻きむしってボサボサになった上、うたた寝でついた寝癖。人前だと言うにも関わらず、依然重力に任せ床に伏したのままの身体。

 自分は今、到底人様に見せられるような格好では無い。


 僕は飛び起きると服の裾を払って整え、髪を申し訳程度に撫で付けた。仕上げに、今までの堕落を誤魔化すように一つ咳払いをする。

 取り繕ったところでもう遅いだろう。

今ばかりは、怠さに身を任せた自分の不甲斐なさを呪った。


「・・・・で、君はそこで何をしていたのかな?」

 今までのことを全て無かったかのように誤魔化し、話を切り替える。

 彼女はさして不審な顔をすることもせずに視線を下に落とした。

「花が、今年も咲いたので・・・」

「花?」

「はい。先生がいらっしゃる前、この家はずっと空き家だったのですが、この花は毎年咲くんです。<!n>

なので、今年ももうそんな季節なんだなぁと」

「ほう・・・・」


 僕は庭用の草履に足を通し、彼女の前に植わっている低木を覗き込む。途端、柔らかな甘い香りが僕を包み込んだ。

 覗き込まねば見えないような位置に、鮮やかな橙色をした小さな花がいくつか開いている。

 先程風に乗ってきた懐かしく甘い香りの正体はこれだ。


「これは・・・金木犀の木だったのか・・・」


 あまり植物に興味がないからか、引っ越してきた先の庭に何が植わっているかなど気にしたことも無かった。

 身を引いても周りを漂う甘い香りを僕は胸いっぱいに吸い込む。

 毎年なにかしら出会う香りなのに、どこか懐かしい気分になるのが不思議だ。

 もう少ししたら木一面に花をつけ、むせ返るような甘い香りを漂わせるんだろう。

「私、この香りがすごく好きなんですが、この辺りにはここにしか咲いていなくて・・・だから毎年、こうして覗きに来るんです」

「・・・・・なんなら、木犀の枝を一本差し上げようか」

「え!?お、お構い無く!先生のお宅のものなのに、申し訳ないです!私はただ好きなだけなので!」

「いや、構わないよ。それに、好きなら尚の事こいつを連れて帰ってあげてほしい」


 手折ったばかりの枝を差し出すと、彼女は少し困った顔で僕と金木犀とを交互に目を向けた。

 どうしたものかと決め兼ねる手が宙を彷徨っている。

 緑ばかりでまだ数えるほどしか花は付いてないが、それだけでも十分すぎるほどに芳しい香りが辺りを包む。

「まだあまり咲いていない枝だが、蕾は多い。水に挿しておけば、そのうち沢山の花をつけると思うんだ。」

「ですが・・・」

「貰い手がいないとなると、折られてしまったこいつも立つ瀬がない。これは僕の我儘だ、貰ってやってはくれないだろうか」


 さあ、と差し出す手を彼女へ寄せる。

 彼女は暫く逡巡していたようだったが、やがて観念したのだろう。少女らしい丸い瞳を少し細め、先程と同じように笑声を漏らしながら引き取り手を待っていた枝に手を差し伸べた。

「・・・では、お言葉に甘えて・・・」


 受け取った金木犀を眺める彼女の頬は、夕陽に照らされて紅葉色に染まっていた。

 大事そうに、枝を優しく胸に抱く。

 すると黒髪の下げに袴という出で立ちも相まって、今し方僕の手を離れたばかりの金木犀の枝がまるで破魔矢のように見えた。

我が家の枝ながら立派なものだ。

 新しい主人を得た金木犀の梢は、夕風になびいてどこか嬉しそうに揺れている。


「これ、宝物にしますね!」

「大袈裟だなぁ、ただの枝ですよ」

「嬉しいからいいんです!」


 本当に嬉しそうに、声を弾ませる。

 まさか枝一本でこんなにも喜んでもらえるとは思わなかった。

 若い娘なのに物欲がないんだろうか。

 彼女は枝をまじまじと眺めたり顔を寄せて香りを楽しんだり、まるで新しい玩具を手にした子供のようだった。


「そろそろ辺りが暗くなるな・・・隣とはいえ、お若い娘さんに夜道は危ない。早く帰りなさい」

「もうこんなに日が短くなったのですね・・・そろそろお暇させていただきます。金木犀ありがとうございました!おやすみなさい!」


 それだけ言うと、彼女は踵を返し駆け出した。

 踏み出す度に巾着に括られた、リボンと同じ薄桃色の鈴が音を鳴らす。

 どうやら我が家のお隣さんは、明るくて元気なお転婆娘のようだ。

 彼女の性格とは相反して落ち着いた、澄んだ鈴の音が鳴り響く。


紺と橙で暮れなずむ空に

彼女が纏っていた金木犀の残り香が

いつまでも漂っていた。



ここまで読んでいただいてありがとうございます。

まだしばらく続きますので、お付き合いいただければ幸いです。

次の更新は10/20を予定しております。

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