その2
白く輝く街は耳に違和感を覚えるほど静まりかえっていた。父は車道の真ん中をゆっくりと歩き出した。父の歩いた道には、猫が引きずられたためにできた赤い線が引かれていた。
大通りまで出て誰かに見られては大変だ。僕は咄嗟に父を呼び止め、僕の家からさほど遠くない小さな玩具屋に行きたいと誘った。しかし、おかしくなった父に言葉は通じるのだろうか。
父は立ち止まってこちらを見た。僕と目が合うが、その目は以前のような、威厳のある、そして優しい目ではなかった。僕の言葉を理解したのか、玩具屋のある路地へと歩みを進めた。
小さな玩具屋は、僕が生まれるずっと前からある、古びた小さな店だった。それでも毎年そこでクリスマスプレゼントを買ってもらうことになっていた。流行りのゲームなどは置いていない、木製のままごとやブリキの車、ぬいぐるみなどが、所狭しと並べられていた。先月のクリスマスも、ここでピカピカに磨かれたブリキのスポーツカーを買ってもらったばかりだ。こんな形でまた向かうことになるとは。しかし僕にも、何故そこへ行こうと誘ったのか分からない。
まだ早朝であることもあり、店は閉まっていた。父は窓から玩具屋の中を覗き込んでいた。なにかに目を奪われているようだった。僕は呼び鈴を鳴らすと、しばらくして老いた店主が目を擦りながら出てきた。
「あぁ、坊やか。こんな朝早くにどうしたんだい」
僕は毎年見るそのおだやかな老人の顔に安堵し、涙が零れた。父は店主が出てきたことは気にもとめず、じっと何かを見つめている。僕は思い出したように店主に聞いた。
「僕のおじいちゃんについて、何か知っていることはありませんか」
それを聞いて店主の顔は一瞬にして曇った。重いため息を吐き出し、父を見た。黙ったまま店主は胸ポケットからメモとペンを取り出し、何かを書き留めると、僕に手渡した。店主は1度店内に入り、父の目線の先にあった大きな犬のぬいぐるみを持ってくると、父の前に差し出した。父は猫の死骸を手放し、そのぬいぐるみを強く抱きしめた。強すぎたのか、首元の糸が少しほつれた。
「そいつは昔、お前の父さん子どもの頃に飼っていた犬をモデルに作ったんだ。リアルに作りすぎたんでね、全然売れなくてな。そいつを覚えていたんだろう。持っていきなさい。それを引きずって歩くよりはマシだろ。それから、そのメモに書いた場所へ行ってみなさい。ヤツのことがなにか分かるだろ。…ワシはあれほどそんなくだらないことは止めておけと言ったんだがな。ヤツはワシの幼なじみだったんだよ。坊やの目の色は、ヤツにそっくりだ。」
店主はそう言うと、涙で濡れた頬を指で拭ってくれた。父はぬいぐるみを大事そうに抱えたままこちらを見ていた。店主は「気をつけていきなさい」と言って僕を抱きしめた。
次の瞬間、鈍い音がして目の前が真っ暗になった。何かに締め付けられているような感覚だ。僕はもがいてその締め付けられているものから逃げ出した。父だった。父が店主から僕を奪い取ったのだ。店主は真っ赤になった雪の上に倒れていた。か細い声が聞こえる。
「そんな身なりでは連れて歩けないだろう。ワシのこの黒いガウンを父さんに着せなさい。ワシはもうダメだ。早く行き…」
店主は言葉を言い終わらないうちに息をしなくなってしまった。そっと店主の黒いガウンを脱がし、父に着せようとした。正直、僕も殺されるのではないかと、父に近づくことに恐怖を感じていた。手足が震える。
父の方から僕に近づいてきた。すると僕をそのガウンごと抱きしめたのだ。先程の締め付けるようなものとは違い、以前の優しい父親のようだった。僕はそっと父から離れると、父の肩にガウンをかけた。その時、父の胸ポケットから白い封筒のようなものが見えていることに気付いた。祖父からの手紙だ。父に気付かれないように、ガウンを着せながらそっと抜き取った。
父に背中を向け、手紙を開くと、殴り書きのように書かれた文章と青く発光した液体のシミが出てきた。
「やっと私の研究が終わる時が来た。私の命ももうすぐ終わるであろう。継承者に研究を引き継いでさらにこの薬を完全なものにしてもらいたい。継承者はお前だ。当初の約束通り、この薬をお前の…」
文章は青い液体で滲んでしまい、先が読めない。研究?薬?継承者?謎は深まるばかりだった。店主からもらったメモには、僕の通う小学校の名前が書かれていた。