漆
由子が死なない『今日』を送れば、『明日』がやってくる。
そんなことを考えて目覚めた朝でもやはり、『今日』だった。
昨日の夜、目を覚ましたら明日が来ているのではないかと考えた。だが、やはりそんな都合の良いことは起こらないようだ。少し期待していた分、体が重たくなる。
その影響か、目を覚まして体を起こした後、しばらく立ち上がる気になれなかった。カーテンの隙間から眩しい太陽の光を浴びても、目が眩むだけで布団に潜りたくなっただけだった。
しばらくすると、母が俺を呼ぶだろう。それは、何度『今日』を送っても変わらない事である。
今か今かと心が待っている。そうなると分かっていたら、それだけを待って動けなくなる。
太陽から視線を下した。俺は目を閉じようとしたのだが、あるものを見て目を開いた。
向かいの家の窓に、由子の姿が見えたのだ。丁度カーテンを開けたところで、頭には寝癖が見えた。由子のいる窓には朝日が入ってこない。だが、反対側の窓から入ってきているようで、部屋は明るい。
由子は俺に気づき、小さく手を振った。あの由子が手を振ったことに少し感激した。由子があのようなことをするのか。きっと、誰もが想像しないのではないだろうか。由子には失礼かもしれないが、俺が本当に思ってしまったことなのだから仕方がない。
さすがに振り返さないのは失礼なので、俺も手を左右に振った。何だか照れくさい。
「一朗―。ご飯出来てるよー」
母の声がして、俺は仕方なく一階へ向かう事にした。もう少しこの時間を堪能していたかったが、仕方ない。
全ての準備を終え、俺は由子の家に向かった。朝会ったため、不安は取り除かれている。由子は出てくるだろうか、今日は『今日』だろうか。朝、姿を見ていなければ、そんなことを考えているだろう。例え、朝の食卓が変わっていなかったとしても。
由子が出てきた。朝見た時にあった寝癖は無くなっていた。さすがの由子でも、あの寝癖は無視できなかったようだ。
「おはよう西田」
「おはよう」
軽めにあいさつを交わして、俺と由子は学校へと足を進めた。
中学校は徒歩十分の位置にあるので自転車通学しても良いのだが、俺と由子は徒歩で行くことに決めた。行くまでに急な坂道がある為、自転車では行きたくなかったのだ。夏になると、汗をかいて通学しなければならないのは、由子が断固拒否した。冬になると、雪で埋もれた地面にタイヤを食われ、思うように進めない。それも、由子が断固拒否した。俺は別によかったのだが、母が「由子ちゃんと行ったら?」と提案したと共に、由子が「一緒が良い」という視線を俺に浴びせたこともあり、俺は由子と徒歩通学することにしたのだ。
始めは十分も由子と歩くのは辛かった。何せ、由子とは基本話さないからである。あの沈黙を十分間も過ごすのは、難関と言って良かった。だが、二学期に入ればそんな事は無くなった。むしろ沈黙であるのが普通で、何かを話す方が珍しくなったのだから。
昇降口ではまた、ある人物と出会った。
滝澤だ。
よそ見をしていた由子が滝澤の背負うリュックサックにぶつかった。由子は思いのほか勢いよくぶつかったのか、滝澤は前にいた友達にぶつかっていた。
可愛らしく小さな悲鳴を上げた後、こちらに振り向いた。
「あ、小倉さん、と西田くん」
「ごめん滝澤」
滝澤の言葉を遮るようにして、由子が謝った。気持ちが込もっていないようだが、由子はきちんと込めて言った……はずだ。俺でも気持ちを読み取ることが出来なかった。少し不安だ。
「いいよ、大丈夫」
滝澤は笑顔でそう言ってくれた。どこか焦っているように見える。まさか、気持ちが込もっていないことに戸惑っているのだろうか。
「みゆー、私ら先行くねー」
「がんばってー」
滝澤の友達は肩を叩くと、先に歩いて行ってしまった。一緒に行かなくて良いのかと思ったが、滝澤は特に気にしてないようである。友達の行動に戸惑うどころか、顔を真っ赤にしている。何か赤らめるところがあっただろうか。
俺と由子は靴を履きかえる。滝澤の友達が言った、「がんばってねー」の意味がよく分からないが、友達内での暗号か何かだろうか。
「あ……ねえ」滝澤の声だ。「今日の体育……で、一緒にペア組まない?」
俺は振り返った。滝澤と目が合った。頬はさっきよりも紅潮している。
「……」
「……お、小倉さん!」
名前を呼ばれた由子は、上履きを履きながら問い返した。
「……私?」
「う、うん」
滝澤は由子の方を向き、返事を待つ。少し考えた後、由子は俺の方を見てきた。
体育でバドミントンをするようになってから、俺と由子は毎回ペアを組んでいる。由子とペアを組まなければ、俺はおそらく一人になってしまうだろう。それを気にしてくれているのか。
せっかくのチャンスだ。由子には出来るだけたくさんの人と仲良くなってほしい。滝澤は友達が多いため、自然と由子も友達が増えるのではないだろうか。
俺は由子に向かって、「別にいいよ」と口パク気味に言った。
「……分かった、いいよ」
少し不機嫌そうだが、由子の為だ。由子には楽しい学校生活を送ってもらいたい。例え、『今日』が最後だったとしても。
体育は一時間目にある。時間ぎりぎりに着替え終わった俺は、皆より遅れて体育館に向かった。
本鈴一分前に体育館に着いた。俺が最後だったようで、ちらほらと生徒たちは並び始めている。視線を逸らすと、ステージの端に座っている由子を見つけた。寒そうに細い腕を擦っていた。
俺は由子に近づいた。
「由子、ジャージを忘れたのか?」
他の生徒は学校指定の紺のジャージを着ているが、由子は半袖にハーフパンツを身に着けているだけだ。白い肌には鳥肌が立っていた。
「ああ」
三回目の時は持って来ていたが、今回は忘れてしまったのか。同じ今日を送っている中でそんなことがあって良いのだろうか? まさか、朝窓越しに手を振ったことが原因か? あの行動のせいで、由子はジャージを持ってくるのを忘れてしまったのだろうか。
だが、由子にこのまま体育をさせるのは見ているこちら側が辛くなる。あまり動かない由子は温まらないだろう。
俺は上ジャージを脱ぐと、由子に差し出した。
「これ着ろよ」
由子の膝に投げ捨てるようにして置く。それを見つめ、由子は「でも」と言った。
「……西田が寒いじゃないか」
「俺はいい。由子はあまり動かないから温まらないだろ」
「……ありがとう」
チャイムが鳴り、俺と由子は列に並んだ。
バドミントンではペアを作る為、ダブルスで試合を行う。練習もそのペアと行い、少し経てばすぐに試合をする。
由子は俺を気にしながらも、滝澤とペアになった。
別に大丈夫とは言ったが、それは一人になっても悲しくないという意味であって、他にペアになる当てがあるのかと聞かれればノーと答えるしかない。ほとんど由子としかいない俺に、ペアになってくれる人がいるのだろうか。無理ならば保健室にでも行って仮病を使えばよい。
また保健室か、と思わず鼻で笑ってしまった。幸い、俺の一人笑いを聞いていたものはいなかった。
徐々にペアが増え始めている。生徒の人数は偶数なので一人余ってしまう事はないが、まともに話したことのない生徒と一緒になるのは、相手が可哀想だ。
こちらから誘いに行くべきか。いざとなれば俺にだってそれくらいの勇気はあるはずだ。
「誰か、余ってる奴いねー?」
男子生徒の声が聞こえた。あまり、いやまったくと言っていいほど話したことのない男子だ。だが、どこに声を掛けてもペアばかりで、自分のペアが見つからずに困っている。
今がチャンスだ。
……なんと声を掛ければよいのか分からないが、状況から判断してくれるだろう。
一歩一歩、妙にゆっくりと進めていく。思い通りに足が進まない。まさか、緊張しているのではないよな? ただクラスメイトに話しかけるだけだ、緊張するわけがない。
俺の行動が遅かったせいか、その男子生徒はペアを見つけ、ラケットと羽を取りにステージの方へ歩いて行ってしまった。
自分がこんなに動けないとは、信じたくない。行動できると思う事は簡単だが、それを実行することはとても難しい。これからはむやみにああこう出来ると言わない様にしよう。
あの男子のペアが見つかったという事は、あと一人余っているはずだ。一人でいる生徒を探し、首を動かす。
「西田くん、一緒にやろうよ」
可愛らしい台詞に女の子かと思ったが、声で誰か判断することが出来た。その声は、一人でいる俺の心を癒してくれるような、そんな声だった。
振り向くと、案の定そこには中西がいた。
「……中西、ペアがいないのか?」
「だから西田くんに声を掛けているんだよ?」
そう言って中西は俺に笑って見せた。
中西にペアがいないのは俺にとって良いことだ。中西とは席が隣でよく話しかけてきてくれる。俺も中西も少しの苦痛を感じずにプレーすることが出来る。
だが、さっき見た時には既にほかの男子と組んでいたように見えた。それは、俺の気のせいだったのだろうか。
「さっき、誰かと一緒にいただろう。確か……梅田? ペアじゃなかったのか?」
「西田くんが一人でいたから、ペアになるのを止めたんだ。梅田くんとは、前に一緒にしたからね」
曇りない笑顔からは、中西の優しさが滲み出ていた。
どうして中西は、一人でいる俺に声を掛けることが出来たのだろうか。俺は緊張してできなかったというのに。
それはおそらく、中西がたくさんの人とかかわっているからだろう。人とかかわることで、人とどのように交流すればよいのかを学んだのだ。特定の人としか話さない俺には、備わっていない能力だ。
「……ありがとう」
「ううん、いいよ。ほら、早く一緒に練習しよ?」
中西に背中を押され、駆け足でラケットを取りに向かった。
中西のコミュニケーション能力には感心し、羨ましく思った。だが、どうやらここから先は俺が手を引っ張らなければならないようだ。
中西の運動能力の無さは、あまりにも酷すぎた。
何度かラリーをしようとしたが、五回も続かない。遠近感覚がないのだろうか、下から打とうとするとほとんど空振りに終わる。強く打っても良いから上から打ったらどうだと言ったが、これも空振り、もしくは当たっても真上に飛ぶだけであった。
運動音痴であることは知っていたが、ここまでとは知らなかった。
何度も尻もちをついて、後ろに下がるという事を知らないのかと言いたかったところだが、攻めることは良くないと思い口を開かなかった。言おうと思っても、さっきみたいに言えないという事があるかもしれない。
「中西。ちゃんと羽を見ているのか?」
「見ているけど、体が上手く動かなくて……」
どうすればよいのだろうか。
由子とは時々バドミントンやキャッチボールをすることはあるが、どちらかというと運動神経の良い由子に俺から教えることなど何もなかった。そのため、人にどのようにアドバイスをしたらよいのか分からない。
「ごめんね西田くん。こんなに下手で」
「別に大丈夫だ」
「半袖で寒いでしょ? もっと動きたいよね」
「俺は暑がりだから大丈夫だ。中西、運動は練習することで上手くなるんだ。ちゃんと練習すれば、きっと上手くなるよ」
そう声を掛けると、中西は大きく頷いてまた動き始める。
動いている間にも、気を付けるべき点を口にし、中西はそれが出来るように懸命に体を動かす。中西は賢いため、俺の簡潔なアドバイスを聞き入れてそのためにどうすれば良いか、と考える。
俺のアドバイスでも相手の為になっているのだと思うと、やっていて悪い気分にはならない。
少しすれば、何とか打ち返すことが出来るようになっていた。確率は低いが、最初よりはましだろう。
「中西、上手くなってる」
「本当? 良かったぁ。西田くんの言うとおり、練習したら上手くなったね」
辛いだろうが、中西は笑顔でそう言った。
だが、今の状態で試合に臨むのはまだ早い。十分ほどで試合が始まる。中西の腕前で、試合らしい試合が出来るかは分からない。いつもの試合を思い出してみるが、いまいち分からない。確かに、下手くそな奴がいたかもしれないが、それは中西だろうか。
試合前に練習試合でもできればよいのだが、そう簡単には出来ないだろう。
「中西どうだ? 試合上手くいきそうか?」
「うん! いつもよりちゃんと出来る気がするよ!」
いつもはちゃんとでさえ出来ていないのか。中西の『ちゃんと』がどの程度なのか分からないが、期待してよいだろう。
「啓太、お前がそう言ってちゃんと出来たことなんて、一回もなかっただろう?」
背後から聞こえてきた声に反応し、俺は振り向いた。
随分と失礼だが、そう言った人物を見て有り得なくもないな、と思った。
太田と、その恋人である小和田がいた。中西のことを言ったのは太田だ。ラケットで羽を弾きながら、からかうように笑っている。
「太田、それは啓太くんに失礼でしょ」
そう言って羽を取り上げたのは小和田だ。よく先生に注意されるほど色が濃い地毛の茶髪が、動きに従って滑らかに揺れた。
「本当の事だから仕方がねえ。あいつは運動音痴、略して運痴だ」
「それも失礼」
太田の頭を叩くと、小和田はこちらを向いて言った。
「ごめんね、練習の邪魔しちゃって」
「ううん、大丈夫だよ。西田くんのおかげで、結構上手くなったんだよ」
「そうなの? 良かったね。啓太くん、いつも試合にならない程の下手くそっぷりだから、今日は期待してるね!」
小和田も大概失礼だ。
もちろん、俺がそんなことを言えるはずもない。
小和田は時々、結構な毒舌で人を馬鹿にしている。それなのに、小和田の周りには常に男女関係なく人がいる。不思議に思っていたのだが、その理由は中西が教えてくれた。
小和田が毒を吐くのは、信頼している人だけらしい。
それを知っている皆は、毒を吐かれたイコール信頼されていると方程式を作った。毒を吐かれても小和田を嫌いになれないのは、そういう理由があるからだろう。
「うん! 多分出来ると思うから、期待しててね」
はにかんで返す中西。
「じゃあ、早速お手並み拝見といこうか」太田は小和田の肩に手を置いた。「ネット張ってあることだし、練習試合でもしようぜ。啓太が上手くなったって言うんなら、それなりにいい試合、出来んだろ?」
「それなりに、じゃなくていつもよりいい試合、だけどね」
「どっちでも良いんだよ。西田、お前は啓太と組め」
指された俺は、無意識に背筋が伸びた。
「ダブルスなのか?」
「当たり前だろ。啓太が一人で戦えば、すぐに試合が終わっちまう。お前が、啓太をカバーしてやるんだ」
確かに、今の状況で中西がシングルスで勝てるとは思えない。ダブルスで試合をするのは、授業ではいつもの事だから、当たり前といえば当たり前だ。
練習試合が出来ればと思っていたので、これは良いタイミングだ。中西の腕前をしっかりと拝見させて頂こう。
コートに入り、じゃんけんでサーブ権を決める。太田に指名され、中西がじゃんけんをしに行ったのだが、予想通り負けて帰ってきた。
バドミントンのルールは、本来の物と同じである。ただ、二十一点先取のところを全員がたくさん試合できるようにと十五点先取に変えている。今回の練習試合では、それをもっと少なくし、十点先取にした。
太田と小和田は、学年の中でも運動神経が良い。太田は陸上大会の県大会で優勝したほどだ。野球部ではキャプテンとして大いに貢献し、大会優勝回数は太田が入部してからぐんと上がった。小和田もテニス部のキャプテンで、行く先々の大会で必ず入賞していた。引退した今でも、二人はよく部活に呼ばれる。
こんな経歴を持つ二人との試合。正直、負ける気しかしない。
「西田くん、頑張ろうね」
「ああ」
最初のサーブは太田。サーブは対角に打つのがルールである為、サーブを拾わなくてはならないのは中西だ。手加減を知らないと言われている太田のサーブを中西に取れるだろうか。
「じゃあ、行くぞー」
太田の声で、試合が始まった。
軽々としたサーブが打たれた。だが、それは鋭く速い。
こんなものが中西に取れるはずもなく、バランスを崩すだけで一点取られてしまった。
「ちょっと太田、手加減しなよ」
「俺は手加減しない」
易々と点を取られてしまったが、バドミントンのルールにより、次のサーブは太田ではなく俺だ。ここで点を取りたいところだが、上手くいくだろうか。
小和田に向けてサーブを打つ。失敗を恐れて優しいサーブになってしまった。元テニス部だったことを想像させるような華麗な返し。
中西の事を気遣ってか、球は俺の方に飛んできた。
「西田くん、ロブだよー」
小和田がそう言った。
ロブとは相手が打ってきたネット前の球を大きく後ろに返すことである。後ろに返されると、自然と上から打つ体勢になってしまう。むしろ、その方が返しやすい。
小和田は、ここでスマッシュを打てと言っているのだろうか。
無駄な失敗を防ぐため、俺は大きな弧を描いて相手コートに返した。小和田の方に返したのは、太田からのスマッシュを防ぐためだ。太田のスマッシュなんて、正直取れる気がしない。
それに比べて、小和田は優しくまたロブにしてくれた。今度は中西の番。練習のおかげか、冷静に打ち返すことが出来た。
安心することは出来ない。中西が打った球は太田の方へと飛んで行ったのだ。ラケットを振り上げる。鋭いスマッシュが来ることは見て取れた。
体勢を低くする。取れないとは思ってもやはり取りたい。取れないと言って太田のスマッシュを軽々と見逃すのは心が痛む。相手から仕掛けられた試合だが、こちらが本気でやらない理由はどこにもない。
そう思い気合を入れたのだが。球は二人の間に落ちた。ラケットを伸ばしたのだが、その時には既に床に落ちていた。
「ドンマイドンマイ!」
敵チームだが、小和田が声を掛けてくれた。
小和田のサーブ。小和田はこれまで優しくしてくれていたから、それほど強いサーブが来ないという事は予想できた。俺に向かって飛んできた球を返す。いつまでも控えめな球では点を取ることが出来ないと悟った俺は、少し強めに返して見せた。
小和田に向かった球は中西へ。また太田に返すのではないかと冷や冷やしたが、上手く小和田の方へ返った。
「おい! お前らわざと俺を避けてんのかぁ! さっきから妙に球が来ねえと思ったよ!」
それが気付かれるのに時間はいらないと思っていた。
「しょうがないじゃん。太田は手加減しないから」
そう言いながら球を打つ。その球は俺の方へ向かっている。ロブだ。
少し視線を逸らすと、太田と小和田は顔を見合い、口を開いていた。チャンスだ。ここでまたスマッシュを打てば、点が入るのではないだろうか。確実に入る保証はなく、もしかしたら打ち返されるかもしれない。だが、打ってみる価値はある。
俺はラケットを振り上げると、狙いを定めて勢いよく振り切った。
「手加減はあまりしたくないん――」
太田の言葉を遮った俺の球は、二人が油断した隙に床に落ちた。素早く反応した太田だったが、あと少しのところで間に合わなかった。
「西田くん、凄い! あんな球を打てるなんて!」
中西が褒めてくれた。自分でもびっくりするほど速い球を打つことが出来た。いつもはそれなりに手加減しているため、スマッシュを打とうなどあまり考える事は無かった。太田小和田ペアと当たっても、スマッシュを打ってまで勝とうだなんて考えなかった。由子が上手いから、俺がする事はあまり無かったと言った方が正しいだろうか。
「おい西田」
機嫌を損ねたような太田の声。心臓が飛び跳ねた俺は思わず、「えっ、はい」と、同級生に敬語で返事をしてしまった。
振り向いて見てみれば、太田の表情は柔らかくなっていた。
「お前、ちゃんと出来るんじゃねえか」
「……え?」
柔らかい表情と、優しい言葉。太田から放たれているとは思えなかった。
「前から思ってたんだよ。こいつ、運動を楽しんでやってんのかってな。ただボール追いかけて、走って、飛んでるだけ。命令されて動くロボットかって思ってた。でもよ。今のお前見て、安心したよ」
太田はそんな風に俺の事を見ていたのか?
俺は、確かに指示通りに動くだけのスポーツをしていたかもしれない。部活はメニュー通りに、体育も先生の指示。由子と時々やる遊びも、それほど激しくない。
今、四人でバドミントンをして、スマッシュを打って。自分がこんなに動けたんだと驚いた。
何かに本気になって、一生懸命になって。それは、太田が今までして来たことである。それがあって、今の太田がいる。
途端に、俺は今まで何をして生きてきたのか分からなくなった。
勉強? 部活? 遊び?
友達とはどうしていた? 由子以外に、仲が良かった奴はいたか? 夢を持ったことはあったか? それは、中途半端な夢ではなかったか? 本気で、そう願っていたか?
生きることは、こんなにも重たく悲しいことだったか?
いつの間にか顔を伏せ、視線は茶色の床に刺さっていた。
「……そうか」
「何急にしょげてんだよ。あ、ロボットって言ったことか?」
「……何でもない。少し疲れたなと」
「おいおい、体力なさすぎだろ。お前元バスケ部だろー?」
そう言って、太田は大口を開けて笑った。特に笑うようなことではないと思うが、今は何となく、どうでもいい。
試合再開し、中西にサーブ権が回る。
俺は気分を戻すことが出来ず、スマッシュを打とうなど考えていない。点を取りたいという願望でさえ。
サーブの構えをする中西の向こうに、由子の姿が見えた。滝澤の他にも女子と、数名の男子が群がっていた。
上手く馴染めているのはよく分かる。滝澤のおかげか、由子が頑張ったのか。それでもやはり、由子はいつも通りの表情で皆と接している。何か話しているようだが、周りの声とその反響で上手く聞こえない。
由子は今、楽しいだろうか。
当たり前だ。楽しいに決まっている。
俺だって、由子と一緒にいないけれど、中西と太田と小和田と一緒にいて楽しい。少しの時間を共にするとこで、相手の事を知ることが出来る。コミュニケーションとは、そういう事なのだろうか。
もし、次の日が『今日』ではなく明日になってしまったら、俺はそれからの人生を満喫することが出来るのだろうか。由子がいなくなった世界で、俺は、孤立してしまわないだろうか。
後悔をせずに、生きることが出来るのだろうか。
……何に後悔しているんだ?
「西田くん!」
中西の声で現実に戻された俺は、慌てて前を向いた。その隙で、由子が一人の男子生徒に背中を叩かれている所を見た。冗談であることが分かるが、由子はラケットで叩き返した。
楽しそうであった。
前を向いたその時、目の前に現れた羽に驚いた俺は体勢を崩し、思い切り尻もちをついてしまった。受け身を取ることも出来ず、冷たく硬い地面に尻をぶつけてしまった。
幸い、他の生徒は自分たちの事に夢中で、俺がこんな無様になってしまったことは気になっていないようだ。
「おい西田、おまえっ……何やってんだよ!」
笑いながら言ってくる太田の顔は、そこまで開けるかと言いたくなるほど口を開け、斜め上を向いている。
「太田!笑いすぎ!」
「いや、尻もちって……」
差し出された中西の手を借りて、俺は立ち上がった。
笑われるだろうとは思っていたが、これほど大声になるとは。頬が少し熱い。由子に見られていなかっただろうか。
「西田くん、気にしなくて良いからね。僕もそんなことよくあるから」
「……ありがとう、中西」
中西の優しさに感謝する。
もし俺が中西の立場だったら、こうやって声を掛けることが出来ただろうか。想像では出来ても、実際に行動することは難しいだろう。俺はきっと、臆病者なのだ。
「ったく西田。そんなに小倉の事が心配か?」
どうしてここで由子の名前が出てくるのだろうか。
「さっき、小倉の事じっと見てたろ? いつもはペア組むもんな。それが、今回は滝澤と組んでんだ。そりゃあ、滝澤の近くにいると男女関わらず集まってくる」
にやにやしながら話しかけてくる。先程から何が言いたいのかよく分からない。
中西の顔を見ると、中西もまた笑っていた。そして、小和田も。状況をよく理解できないまま、太田は続けた。
「お前は今、俺の由子がとられて嫉妬しているってとこか?」
太田の言葉に俺は口を閉じていた。何か返事を返さなければいけないのに。
嫉妬? 俺が? 由子に?
太田は何を言っているのだろう。
そもそも、由子は俺のものではない。幼馴染で一緒にいることは多いが、だからと言って由子が俺の物になるとは限らない。
「……嫉妬なんてしていない」そう、嫉妬なんて。ただ。「……ただ、もやもやしているだけだ」
頭の隅に残っているのは、男子生徒と絡んでいた由子の姿。元はと言えば、あれのせいで尻もちをついてしまったのではないだろうか。
由子でも、と言うと失礼かもしれない。けど、あんな由子でもクラスメイトと馴染めているのだと思うと、安心しつつ、どこかすっきりしない感情が動く。これまでそんなことがあっただろうかと考える。あったような無かったような、曖昧なものになってしまう。あったとしてもきっと、忘れてしまっているのではないだろうか。何となく、そんな感じがする。
突然、太田が噴き出した。そして、笑いを堪えるように腹を抱えた。
隣からも笑い声がした。まさか、中西まで笑うのか?
「……え?」俺は何も分からないまま、立ち尽くす。太田はともかく、小和田と中西まで笑うのは納得いかない。「何だ。可笑しなところでもあったか?」
俺の困惑した表情を見て、細々と言葉を放つ。
「……無自覚かよ」
「西田くん、疎いね」
眉を顰め、中西を見る。相変わらず笑っている。
「中西、何が可笑しいんだ?」
「うーん……。見た目通りって言うか、意外って言うべきか……ね」
「中西? 何を言っているんだ?」
皆のよく分からない反応に、俺はどう反応してよいのだろう。
無自覚? 疎い? 俺は、それなりに敏感であるとは思っている。『今日』が続いていることにすぐに気付いた。入学当初、皆が俺らの事を不良でも見るような目で見ていたこともすぐに分かった。
「何だ? どうしたんだ?」
返事を聞く間に練習時間が終わり、先生の指示で試合に入ることとなった。練習試合を終えたが、納得できない。
試合前、太田がこう言った。「疎すぎると、後悔すっぜ?」
四時間目が終わり、俺と由子は屋上へ向かった。今回も由子には教室で待ってもらい、事故になることを防いだ。後から気付いたことだが、由子についてきてもらうという事もありかもしれない。
「由子、滝澤と組んで楽しかったか?」
俺は、体育での感想を聞いてみた。
隣の席ではあるが、用があるとき以外は話さない。休憩時間には由子は読書をするため、俺から話しかける事が出来ないのである。
「ああ、楽しかった」
由子の様子は時々見ていたが、それなりに楽しんでいたことは分かっていた。本心までは読み取れなかったため、一応聞いてみたのだ。
「そうか、良かったな」
「また一緒にやろうと言われた」
「良かったじゃないか、楽しめよ」
頷く由子。
だが、俺は知っている。『明日』以降、二人がペアを組む日が来ない事を。
その事に関して、俺はほとんど関係ないのだが、胸が痛む。果たされることのない約束を約束することは、本人を悲しませる。後から思い出し、胸を痛める。
『今日』のことは、皆の記憶に残るだろうか。きっと残るのは、最初の日――由子が死んだ日のみだ。だから、滝澤が約束を思い出して胸を痛めることも、由子と絡んだ男子も、その日の事を忘れている。
忘れられる存在というのは、その事に気づかず、その事を知っている俺が胸を痛めることになるのは、何故だろう。
「西田。昨日何時に寝た?」
「え……十時だが」
次の日が平日の場合、俺は寝坊を恐れ十時には布団に入るようにしている。母が起こしてくれるのだが、それでも不安になるのだ。
由子はその事を知っているだろうし、特に気にするところではないと思うのだが、突然どうしたのだろうか。
「どうしてだ?」
「……半日、ぼーっとしていたから。寝不足なんじゃないかと思ってな」
由子の言葉で、俺は午前中の事を思い出す。
確かに、授業を聞かずに窓の外を見つめていることが多かったかもしれない。一度受けた事だから、聞く必要はない。そういう考えもあったかもしれないが、真剣に受けろと言われたら、そんなことは出来なかったかもしれない。
「体育で少し疲れたんだ。太田と小和田と中西と、ダブルスをしたんだ。真剣に体育を受けたのが久しぶりで、眠たくなってぼーっとしていたかもしれない」
「……そうなのか。西田は、誰とペアを組んでいたんだ?」
「中西だ。運動が苦手で、太田小和田相手に苦労した」
由子は納得したように頷いた。
ぼーっとしていた理由に、それもあった。だが、本当の理由は他にもある。俺はそれが一番の原因だと思っている。
『疎すぎると、後悔すっぜ?』
試合前に、太田が言ってきた台詞。あの言葉が、ずっと引っかかっているのである。
疎い疎いとは、その前に小和田に言われた。何が疎いのかは教えてくれなかった。
太田の言うとおり、疎いと後悔することはあるだろう。最後まで気付けないことがあるかもしれない。太田や小和田は、そういう事を言っていたのだろう。
俺は、『何に』気付けていないのかが分からない。
疎い疎いと言われても、それを教えてくれないと意味が無い。
後悔はしたくない。由子が無くなった時、もっと早く屋上に行っていればよかった。プリントなんて、学校に持って来ていなければ良かった。プリントの期限なんて、気にしなければ良かった。そんなものより、大切なものがあった。どうしてそれを助けることが出来なかったんだろう。
俺は、一生後悔し続けるのではないだろうか。由子が死んだのは、俺のせいだ。屋上なんかで食べていなければ、由子と一緒に職員室に行っていれば……。
辛いことはたくさんあった。だから俺は、今のままじゃ駄目なんだ。
疎いままじゃ、大切なことに気づくことさえ出来ない。そんなのは、嫌だ。
「……由子」屋上への扉を開ける由子の背中に声を掛けた。由子は振り返る。「……ずっと、友達だ」
それは、無意識に出た言葉だった。だがそれは嘘偽りない、俺の本心だ。
「……ああ。死ぬまで、お前の隣にいる」
由子の言葉はいつも以上に優しかった。自分の運命を知らない由子の言葉は悲しく、だけど俺の心を温めてくれた。
由子が扉を開けた瞬間、聞き覚えのある鳴き声がした。それに即座に反応した由子は、視線を下に向けた。
黒猫だ。
どこからか迷いこんできた猫。由子が亡くなったあの日も、ここにいた。
由子は猫を抱き上げた。猫が好きな由子は、喜んでいることだろう。
この日もまた、何かが起こる事は無かった。俺はそれを心から安心することが出来なかった。