陸
いつもは待ち遠しい昼休みも、今日はあまり待ち遠しくなかった。むしろ、このまま一生来なくても良いと思ってしまったほどに。だが、そんなことが起こるはずもなく、四時間目終了のチャイムが学校中に響いた。
俺は弁当を持つと、由子に声を掛けた。
「由子、行こう」
「うん」
教科書を片づけると、スクールバッグから小さな弁当箱を出して立ち上がる。一つ一つの動作に怯えてしまうのは、体が強張っているせいだろうか。
教室を出る直前、由子が学ランを引っ張ってきた。息が詰まるようで、俺は少しの間固まってしまった。
怪しまれてはいけない。
俺はいつもの様になるように、自然な対応をする。
「……なん、だ?」
「職員室へ行かなくていいのか?」
その言葉を待っていた。本当は聞きたくなかったが、変えることは出来ないだろう。
「あ……ああ、昨日言っていたプリントか。忘れていた」
俺は自席に戻り、弁当を机の上に置いてプリントを探す。リュックサックから取り出し顔を上げると、由子がいた。
「これ、だよな?」
「ああ。じゃあ、私は先に行っているよ」
そう言って、俺の弁当を取ろうとする。だが俺は、この弁当を由子に取らせたくなかった。咄嗟に俺は、伸びてきた由子の腕を掴んだ。
「え?」
ほとんど無意識に近かったため、俺も戸惑ってしまう。だが、手を離すことはしなかった。自分でも分からないだけで、離したくなかっただけかもしれない。
「あ、その……俺、急いで行ってくるから、教室で待っていてくれ」
「え」
「あ、その、すぐに戻ってくるから、な?」
由子の顔はいつもの無表情だが、今は戸惑いと困惑が入り混じった表情を少し浮かばしている。そんな表情をさせてしまったことに申し訳なく思うが、由子の為なのだから仕方がない。
絶対に待っていろよ、ともう一度念を押してから、俺は職員室へ向かった。
あの由子が約束を破って屋上へ向かうとは考えられないが、もしもの時があったと思うと怖い。
数えるほどしか生徒のいない廊下を走り、落ちない程度に減速しながら階段を下りてゆく。
職員室のある管理棟一階に入った時、放送委員の生徒とぶつかりそうになった。相手が避けてくれたためぶつからなかったが、もしかしたら衝突していたかもしれない。
職員室に入り担任の名前を呼ぶ。やはり、先生は忙しそうですぐにはやってこない。俺は担任の近くまで小走りで歩み寄り、プリントを提出した。
「おお、ありがとう」
「はい、失礼しました」
早口でそう告げ、そそくさと職員室を後にした。
教室棟の階段を上がるとき、男子生徒が三人降りてきたことを思い出す。今回もまた下りてくるのではないかと、考えなくても体で感じた。
大丈夫だ。由子は教室にいる。屋上にはいない。
そう言い聞かせて、俺は階段を上がった。
教室の扉を開ける。途端に俺の心は落ち着いた。由子は約束通り、教室で待っていてくれたのだ。席には座らず、後ろに設置しているロッカーにもたれていた。その上には俺と由子の弁当が置かれている。
「由子、悪かったな」
「いや、大丈夫だ」
黒板の隣にある時計を見ると、あれから五分も経っていないことが分かった。
俺は自分の弁当を手に取ると、由子に「じゃあ行こうか」と声を掛けた。
「うん――」
「あっ、西田くん」
声がした方を見ると、俺の席に座っていた女子生徒――滝澤がいた。
「机、借りるね」
「ああ、いいよ」
滝澤の他にも三人女子生徒がいて、俺の席の他に由子の席も使っていた。前にある机を引っ付けて、四人で昼食をとっているようだ。
あれだけの人数で楽しく話しながら食べることが出来たら、どれだけ楽しいことか。
そんな事を思いながら、俺と由子は屋上へ向かった。途中の階段で昼食を食べていた生徒を見たが、やはり俺たちを見てひそひそと話していた。恋人だとからかうのならば、お前らが由子と食べてやってほしい。こんな由子だけどきっと、滝澤のような昼休みを過ごしてみたいだろう。
コンクリートの床の上で座るのは、少し冷たい。だが、今はそんな気持ちなどない。
こうやって由子と弁当を食べるのが久しぶりに感じ、自分でも分かるくらい高揚している。実際に久しぶりかもしれない。休みを挟んでいたと考えればそれほどでもないが、あんなことになって、きっと『由子が死んだ後にやってくる明日』が来ればこうやって由子と弁当を食べることは無くなる。だから、こういう些細な時間が、俺にとっては大切になっていくんだ。
この時間は、由子とは今までの中で一番良い昼食の時間で、あの事故が起こる事は無かった。
二度目の下校時間がやってきた。随分長く感じられたが、回数ではそれほど経っていない。このまま無事、家まで帰り着くことが出来れば、由子があんなことになることはない。
終礼を終え、帰宅の準備をする。由子は帰る準備万端で、既に準備を終えて机の上にスクールバッグを置いて俺を待っている。急いで準備を終えると、リュックサックを背負い、
「由子、帰ろう」
と、声を掛けた。
「ああ」
由子は疲れているのか、少し声が低い。他の人からすれば変わらないだろうが、その変化が分かるのが幼馴染というやつだろう。生まれた時から一緒にいると、小さな変化でもすぐに気付ける。
教室に生徒が残る中、俺と由子は誰かに見られることなく教室を出る。――そうしたかった。
「おい、西田」
後ろの扉に一番近い席にいる太田が声を掛けてきた。太田に話しかけられることはあまりないため、自然と背筋が伸びた。
「ん、ん?」
そう返事をすると、親指で教卓の方を指した。
「三谷が呼んでる」
教卓を見ると、こっちへ来いと手で示している担任――三谷先生と目が合った。さっきからずっと呼んでいたのか、ジェスチャーが大きい。
「……俺?」
「俺だよ。このクラスに西田なんて、お前しかいねーだろ?」
プリントに不備でもあったのだろうか。確かにすべて書いてあることは、母の確認済みだと思っていたのだが。
疑問に思いながら三谷先生の元へ向かった。
「西田お前、図書委員だろ?」
「はい」
ふと視線を逸らすと、向かい側に滝澤がいた。確か、滝澤は図書委員長だ。
先生が話したいことは、すぐに検討がついた。
「今日図書委員会があるんだ。面倒で放送を入れるのを忘れていた。と、いう事でこの後図書室に来てくれ」
予想通りの台詞だった。三谷先生は図書委員会担当だから、その言葉が出てきても可笑しくはない。
「はい」
「滝澤もな。俺行くか分からないから、これで進めといてくれ」
そう言って、滝澤に一枚の紙を渡した。
「はい、分かりました」
三谷先生は駆け足で教室を出て行った。
先生の「行くか分からない」は、絶対に来ないのと同じだ。毎回のようにそう言って、来たことは一度も無い。
それにしても、面倒で放送を入れるのを忘れていたという事を素直に生徒に言うのは、正直にも程があるだろう。あの様子から見ると、昼休みに忙しそうにしていたのは演技だろうか。
すぐに下校しようと思っていたが、これではそうならなさそうだ。
「西田、私先に帰る」
首を縦に振りそうになったが、俺は考えた。
この後一人で帰って、事故にあったらどうしようか。俺はまた、後悔をすることになるだろう。だからと言って、委員会をさぼることは出来ない。先生はいないが、そんなことをすると心が痛む。
「由子、一緒に図書室へ行こう」
「え?」
「ほ、ほら。由子って本が好きだろ? 本を読んで待っていてほしい」
「でも、私は部外者だ」
「大丈夫だ。滝澤は多分許してくれる」
何の証拠もない発言だ。
俺は振り返り、滝澤の方を見た。
「滝澤、由子も来ていいか?」
突然のことで驚いているのか、固まって動かない。いくら滝澤でも、このことを許すことは出来ないだろうか。
「……あっ、いいよ」
「本当か、ありがとう」
由子の方を見ると、喜んでいた。もちろん、いつもとあまり変わらない表情だが。
本好きなら、放課後の図書室をいつか体験してみたものだ。前に由子が言っていたことを思い出した。
「じゃあみゆ、ばいばーい」
「良かったじゃーん、頑張ってねー」
滝澤の友人たちが彼女の肩を叩きながら言い、そのままの流れで教室を出て行った。
いつの間にか教室は静まり返り、俺と由子、滝澤の三人しかいなかった。滝澤と目が合うと教室を出て、図書室に向かった。
図書室は鍵が開けられており、中にはすでに他学年の図書委員たちが集まっていた。始めから開いていたようで、おそらく三谷先生が開けておいてくれたのだろう。意外と優しいところがあるじゃないか、と思ってしまったが、担当教師としてこれくらいの事はすべきだ。
鍵は机の上に置かれていて、最後に返しに来いという事のようだ。
委員ではない由子に目が行く者がいたが、俺と目が合うとすぐに逸らしてしまう。まあ、いつものことだ。
「鞄は邪魔にならないところに置いておいて、好きに本を見ればいい」
由子は頷いた。
俺は着席し、委員会が始まるのを待つ。
滝澤の声で委員会は始まる。今日は『図書室便り』に載せるおすすめの本を決めるようだ。自分で本を選び、その本のあらすじ、注目点を書いて、上手く書けているものを便りに載せるのだ。ここで一番重要になるのが、『この本のキャッチフレーズをつけるとしたら、あなたはどうするか』というものである。これを実際に便りに載せ、面白そうだと思わせることが出来ればその本の貸し出しは多くなる。
面倒な者にはそう感じるが、やってみれば楽しい。まるで編集者になった気分を味わえるのだから。
「おすすめの本って、漫画はだめなんですかー?」
一年男子が手を上げて言う。敬語を使っているが、伸び伸びとしていて敬意を払っているとは思えない。そんなところは、田舎学校の良い所と言っていいだろう。
「漫画は止めとけ。つーか、ここに漫画なんて置いてねーだろ?」
滝澤の代わりに、二年男子が返事をする。大きな体をして、バスケットボール部のキャプテンだ。俺もこの夏に引退したが、元バスケ部だ。部活中はよく睨まれていた。
三年生でまだ引退していないのは吹奏楽部だけで、十一月にある文化祭で最後の演奏をする。中西も吹奏楽部だが、受験があるというのにこの時期まで部活をよく頑張っていると思う。
「え、図書館にある本じゃないとだめなんですか?」
一年女子が焦ったように質問する。
「うん。皆が借りられないと、これを書いても意味が無いからね」ここは、委員長の滝澤が答えた。「家にあるなら持って来てここに置いてもいいけど、傷がつくかもしれないから大切な本ならおすすめしないな」
あまり本は読まないが、はまった本があった。シリーズの本で、昼休みに受付をしていて暇だった時に手に取った本だ。読んでみると面白く、全巻読んでしまった。外国の本で分厚く、見た目ではあまり読む気になれないが、読んでみると面白い。確かその時は俺以外誰も借りたことが無かった。
その本を書くことに決めた俺は、棚の端に並んでいるシリーズの第一巻を手に取った。
由子は既に座り、本を読んでいた。
本を見ながら歩いていると、突然声が掛かった。
「あっ、それ面白いよね」本から顔を出すと、そこには滝澤がいた。「えっ、あ、西田くんだったの?」
「ああ。……この本、読んだことあるのか?」
「う、うん。前にね。端の方にあったから少し気になっていたんだ。表紙は地味だけど、内容はスリルやインパクトがあって、読んでいて楽しくなるよね」
「ああ、俺もそう思う」
「……あ、貸出記録にあった『西田』って、西田くんのことだったんだ。私てっきり、二年の西田さんのことだと思ってた」
「……そう、か」
二年の西田さんと言われても、顔が出てこない。顔と名前が一致しないのは、よくあることである。
滝澤は本を探しに、棚の方へ行った。俺は席に座り、早速紹介文を書き始めた。
しばらくすると騒がしかった図書室は静かになり、皆ペンを動かしている。と言うのも、先程二年男子が「うるせえな、早くペンを動かせよ。早くしねえと、委員会終わんねえだろ」と声を掛けたのだ。掛けた、と言うほど優しいものではなかったが、それを聞いてペンを動かし始め、静かになったのだ。
そのおかげか、俺は集中でき、すぐに終わらすことが出来た。
皆が終わるまでその本を読むことにしたが、二年男子から視線が気になって集中できなかった。
日が暮れるのが早くなると、下校時間も早くなる。いつの間にか下校二十分前になり、それを告げるチャイムが鳴った。数人、まだ書き終えていない委員がおり、チャイムを聞いてペンを早める。
「じゃあ、書けている人はここに出してください。十分前になったら持って行くから、それまでに書けなかった人は明日、三谷先生に提出してください」
滝澤の台詞が委員長らしい。滝澤は副生徒会長になるのではないかと思っていたのだが、これでも良いと思う。
由子に声を掛けるが、本の中に入り込んでいるようで返事が無い。きりの良いところまで待っていようと思い、隣に腰かけた。
「に、西田くん、私もうここ出るけど、どうする?」
「あ、悪い。鍵は俺が返しておく」
「え、あ……ありがとう」
滝澤は自分の鞄と集めた紙を持つと、「……じゃあね」と言って出て行った。
「皆、帰ったのか?」
きりの良いところまで読み終えたであろう由子が、顔を上げてそう言った。
「ああ」
そう言うと、由子は急いで帰る用意をする。帰る用意と言っても、本を棚にしまうだけであるが。
「由子、面白かったか、それ?」
「うん、面白かった。やっぱり、放課後の図書室はいいな」
「借りるなら借りられるぞ、どうする?」
しばらく悩んで、由子は首を横に振った。どうせここで借りても、無かったことになってしまうのだから別にいいだろう。
鍵を返すために、職員室へ寄る。三谷先生の姿を見つけたが、とても忙しそうには見えなかった。やはり、委員会に行くのが面倒だったのだろう。はじめに鍵を開けておいたのは、生徒にこの姿を見られることを最小限にしたかったからだろうか。
昇降口には、部活を終えた中西がいた。
この学校の吹奏楽部の三年生は、十一月にある文化祭まで吹奏楽部として活動することになっている。文化祭を最後の演奏として発表するため、その時は自然と三年生のソロパートが多くなる。受験勉強があるというのに、大変ではないのだろうか。
「あ」
俺の声に気付いた中西は振り返り、笑顔を見せる。
「西田くん。どうしたの? 何か用事でもあったの?」
「ああ、図書委員会があった」
「そうなんだ、そういえば西田くんは図書委員だったもんね。小倉さんは、西田くんの付き添い?」
由子はゆっくりと頷いた。
「仲がいいんだね。幼馴染って、特別な感じがして僕、好きだよ」
「中西は、そういうやついないのか?」
「いるよ。豪くんがそうだよ」
豪くんとは太田の事である。確かに考えてみれば分からない事も無い。基本名字に『くん』や『さん』をつけて呼ぶ中西が、太田の事だけを下の名前で呼んでいる。幼いころからそう呼んでいるため、今でもそう呼んでいるのだろう。
「でも、豪くんとは一緒に登下校するくらいで、前よりは話さなくなったんだ。登下校って言っても、今は部活が無い時だけだからそんなに多くないからね」
あまり話さないと言えば、俺と由子もまあまあ当てはまる。だが、元からあまり話さなかったので、気にするべきことではないだろう。
中西と太田はほぼ対照的な見た目と性格だ。女の子のような見た目で誰にでも優しく接する中西と、それなりに大きく筋肉質で言葉づかいの粗い太田。同じような環境で育っているのにこのようになるのは、少し不思議である。俺と由子があまり話さないのは、共に育ってきたから似た者同士になってしまったのだろうか。
「そうなのか」
「うん。でも、大丈夫だよ。他の人とも時々帰るし、全然寂しくないからね」
その時、俺は中西が頑張っているのではないかと感じた。
誰にでも気さくに接する中西だが、きっと心の中には不安があるのではないか。太田の近くで育ったからこそ、こういう中西が生まれたのではないだろうか。
太田の近くにいれば、時々吐かれた粗い言葉に心を痛めていたのかもしれない。だが、それに何も言えなかった幼い中西は、笑顔で返す事しか出来なかった。太田からすれば普通に吐いた言葉で、相手を傷つけるつもりなんて全くなかった。だが、それを真に受けた中西は心を痛めていた。
中西は、どんなことがあっても笑っていることにしたのだ。そうすれば、嫌なことも忘れられる。辛いことも吹き飛ぶ。
だがやはり、幼い頃から一緒にいる太田は中西にとって、大切な存在なのではないだろうか。俺が由子の事を、大切に思っているように。
大きくなるにつれて友達は増え、いつまでも太田の隣にいることは難しくなった。性格の違う中西は、太田を囲う友達の中には入っていけない。中学校に入ると、恋人も出来た。
もしかしたら、俺が由子の隣にずっといることが出来たのは、幼馴染だから、という理由だけでもないのかもしれない。
中西は、俺が思っている以上に強いのかもしれない。悩みなんてなさそうだけど、本当はたくさん悩んでいるのかもしれない。
「……そうだな。中西は、全員が友達だからな」
「うん!」
その笑顔が少し辛そうに見えたのは初めてだった。だが俺は、見えなかったことにした。何せ、『明日』が来ればきっと、無かったことになってしまうのだから。
その後、中西と別れて、俺と由子は帰路に立った。特に危険などなく、そして由子が死んでしまうという事故も起こらず、この日は終了した。
次の日が来ることを、期待して。




