伍
目が覚めた時、俺の呼吸は異常なほどに荒れていた。布団越しにでも俺の胸が大きく上下しているのが見て取れた。
あれから――由子が死んでからの記憶はない。由子の遺体は見ていないが、突然朝を迎えたという事は、恐らくそうなんだろう。
由子が死ねば、『今日』は最後まで訪れないというわけだ。
また由子のあんな姿を見なくても良いのは嬉しいが、由子が何度も死んでしまうというのはとても辛い。由子は、俺が『今日』を過ごす度に死んでしまうのは、あまりにも可哀想だ。
恐らく、今日も『今日』だ。由子は生きている。
姉は味噌汁が旨いと言い、母は由子のお母さんとフリーマーケットへ行く。そして俺はまた、特別な今日を過ごす。
準備を終えた俺は、由子の家に向かった。
今日の日付は確認済みだ。ちゃんと『今日』が来ている。だから、ここに由子がいることは間違いない。
インターホンを二回連続して押す。それが、俺が来たという合図だ。郵便受けの近くで待っている。
いつもこのようにして待っていたはずなのに、今日は妙に心臓がうるさい。
少し待っていると、玄関の扉が開いて由子が出てきた。安心して、ため息をつく。
「おはよう」
間を空けてから、「おはよう」と返してきた。
「……どうしたんだ、西田。今日は随分楽しそうだな」
由子の言葉に、無意識で声調が上がっていたことに気付いた。
「え、そうか?」
「うん。……そんなに学校が楽しみなのか。今日は何かあったか?」
由子もいつもと違うような感じがした。いつもより話すのだ。「ああ」「そうなのか」「うん」を基本として話すため、それ以外に不用意に話すことは滅多にない。
由子も機嫌がいいのではないか。
そんなことを思ったが、由子には言わないでおいた。意識して話さなくなってしまっては、いつか全く話さなくなってしまうかもしてないから。
昇降口に入ると、背後から「西田くん」と聞こえてきた。声を聞いただけで誰かはすぐに分かる。
振り返ると予想通り、中西がいた。その後ろには、険しい顔をした男女が睨み合っていた。
「おはよう」
目が合うと、笑顔でそう言ってきた。
「おはよう……中西、部活は?」
「今日、ちょっと寝坊しちゃって。朝練にはいかなかったんだ。それより、昇降口で会うなんて、初めてだね」
「そうだな」
確かに、中西の言うとおりだ。これが、『普通』に時間が過ぎていく中で、なら普通なのだが今は違う。一回目や二回目は、ここで中西と会う事は無かった。つまり、何かが変わっているという事か?
いや、それは当たり前だ。皆は一回目や二回目と同じ行動をしているが、俺は違う。同じ日を送っていることに毎回気づいている俺は、その回ごとに全く同じ今日を送ることが出来ないのだ。もしかしたら、起きる時間が違うかもしれないし、家を出た時間も違うかもしれない。完璧に一緒だということはないだろう。
言葉で言うと難しいが、つまりはどれだけ同じ日を繰り返して、全く同じ今日を送ることは出来ないというわけだ。状況が異なればこの考えが成立しないかもしれないが、俺の場合はこれが成り立つ。
そのため、このようなことが起こるのは決して可笑しくはないのだ。
それを頭で確認したのちに、俺は会った時から気になっていることを中西に問うことにした。
「なあ中西」
「ん?」
「あの……太田と小和田は、何をしているんだ?」
会った時から中西の後ろにいる二人は、先程からずっと睨み合っている。
二人は一年生の頃から付き合っている。その事は全生徒が知っている。小規模校のため情報がすぐに広まるのだ。二人の事は広まって当然であれば当然である。
そんな二人は付き合って二年ほどだが、依然として何故睨み合っているのかは分からない。
すると中西は苦笑いをして二人がこうなった経緯を話してくれた。
「昨日ゲームで協力プレイを、この三人でやっていたんだ。そしたら豪くんがミスをして、負けちゃったんだ。もう一回したら、次は小和田さんがミスをしちゃって。言い合いになっちゃったんだよね。結局そのあとゲームは止めたんだけど、それをまだ引きずっているみたい……なんだ」
最近流行りのアプリゲームを思い出す。前に太田が教室で、大声で話していたことがあった。
「中西もやっていたのか?」
「うん!」
明るく返事をする中西。あの中西がゲームをするとすぐに負けてしまいそうだ。中西の話からそんな様子は窺えなかったが、本人が恥ずかしくて言えなかっただけに違いない。
中西は、ミスをしなかったのか?
そんなことが聞けるはずもなく、俺は「そうか」と頷いた。
「中西はミスをしなかったのか?」
突如背後から聞こえてきた声に、俺は肩を上げた。俺の心を読んでいたようで、とても怖くなった。
振り返ると、由子がいつもの無表情で中西の方を見ていた。
由子は気になったことをただ問うただけだが、問うべきことかは分かるはずである。
「由子、お前……」
「僕? 僕はミスしなかったよ。ゲーム大好きだもん!」
そんなことは気にせずに、中西は笑顔で答えてくれた。その笑顔がいつも以上に可愛らしかったので、西田はともかく由子でさえそれ以上何も言う事が出来なかった。ただ、「あ、そうなのか……」という弱々しい声しか出なかった。