弐
いつもは家を出て由子を迎えに行くが、今日は家に顔を向ける事すら出来なかった。後から、家から由子が出てきてくれないかな、なんて絶対ありえないことを望んでいた。
「一朗くん、おはよう」「おはよう。どうだい、受験勉強は」「最近、朝が寒いなあ」「もうすぐ期末試験か? がんばれよー」「おや、由子ちゃんは休みかい?」
毎日と言って良いほど挨拶をする近所の人。まだ由子に何があったか知らない高齢者のお婆ちゃんは、何気なく聞いてきた。その時俺は、
「はいそうです」
と答えてしまった。本当のことが言えず、また言えるはずもなくその場を後にした。上手く笑えていただろうか。
学校までは徒歩で十分の距離だ。いつも由子と歩く道。一人で歩く通学路は、いつもより長く感じた。
昇降口に入った時に予鈴が鳴った。いつもより早く着いたと思ったのだが、それは気のせいだったようだ。
「おはよー」「おはー」「おー、風邪治った?」「うん! もう元気元気!」「予鈴鳴ったよー。少し急いでー」「先生おはようございまーす」「おはよー。勉強したか?」「まっさかー」
昨日と変わらない。皆由子がどうなってしまったか知っているはずなのに。それほど由子のことに興味が無いのか? そんなはずはない。例え興味が無かったとしても、自分が通う生徒が亡くなったんだ。大きな学校でもないので、少なくとも顔だけは知っているはずだ。
人が亡くなったのにいつもと変わらないなんて、なんて無慈悲だ。昨日も同じ場所にいた先生までも、何も知らないように笑っている。前々からあの先生は少し苦手だ。
「おっ、西田おはよう」
「おはようございます」
長い髪を翻してまで顔を向けて挨拶をしてきた先生に、いつもより少し小さめの声で返事をした。先生は、いつも通りだと思ったのかすぐに別の生徒に挨拶をした。
教室に入り早足で席に向かう。リュックサックを机の横に掛け、椅子に座る。
窓側の一番後ろは、由子の席だ。いつもなら俺が座るのと同じ時間に隣の席も埋まる。だが、これからは誰もいない。
由子のいなくなった教室を、誰一人として悲しまないのだろうか。
いつもは席に着いたら由子と話すのだが、今日は話す相手がいない。元々それほど友達を持っていない俺にとって、由子の存在は明らかに大きかったと言って良いだろう。
本鈴が鳴る時間が近づくにつれて生徒が増えていく。皆が別の世界の人間に見えてくる。たくさんの人がいるはずだが、俺は独りでいるような気がしてならない。
他人の顔など、じっと見る事は無かった。改めて見て、人はこれほど多彩な表情を持っているのかと感心する。それと共に、時々見せてくれた由子の笑顔を見る事が出来ないのだと思うと、学校にいるのにもかかわらず涙が出そうになった。
「西田くん」
声のした方へ顔を上げる。そこには右の席の中西がいた。
楕円形のメタルフレームの眼鏡をかけ、その奥には垂れ目が覗いている。低身長で華奢な体つきの彼が体育の時によく転倒していることから、クラスのゆるキャラとして愛されている。人懐っこいことも影響し意外と頼れることから、学年問わず仲の良い人が多い。
中西は目が合うと、
「おはよう」
と、女の子の様に微笑みながら言った。
「おはよう」
そう返すと、中西は微笑んでこう言った。
「相変わらず西田くんはあんまり笑わないね」
なんと返事をするのが正しいのか分からず、「ああ」としか言えなかった。中西のように笑うことが出来れば、人生がどれほど楽しくなるだろう。
それにしても、まさか昨日言われたことを今日も言われるとは思わなかった。中西に見えない様に笑う練習をしてみるが、うまく笑えている気が微塵もしない。
「あれ? 西田くん」振り向くと、中西は小首をかしげて言う。「小倉さんは休み?」
一瞬息が詰まった。そして、ゆっくりとそれを吐いた。勿論、中西にばれないように。
昨日はあれから、午後の授業が無くなり、先生の指示によってすぐに下校した。誰もが校庭の様子を見ていたようで、すぐに話は広まった。
まさか、中西は知らないのだろうか。見ていなかったとしても、誰かから聞かなかったのだろうか。下校の時にその話題を出さない訳がない。あれは大変なことだ。中西が一人で帰っているとは思えないし、だからと言って聞いていないとも考えにくい。
俺は自分の口から事を話せず、知らないふりをした。
「さあな」一度口を閉じた。「……いつもの時間にいなかったから、先に来たんだ」
嘘だ。いつもの時間に集まっている訳ではなく、俺が由子を迎えに行っているんだ。
中西は疑う事もせず、「そうなんだ」と返した。
「風邪だったら僕らも気をつけなくちゃいけないね。受験生だし、体が弱っている時は免疫力も弱くなっているからね。もしかしたら、インフルエンザになっちゃうかもしれないね。今年は流行る時期が早いらしいから、受験の時になる確率は少ないかもしれないけどね」
「そうなのか」
「うん。今日テレビでやってた。西田くんも、気を付けてね」
また中西は笑った。こんなに女の子らしい男子中学生がいるものなのか。そう思ってしまうほどの可愛さ。
ふと過ぎったのは、由子の顔。いつも何を考えているのか分からない表情をして、ほとんど変わる事は無い。俺と由子は似た者同士だが、由子ほど表情を保つことはできない。
「……うん」
すると、扉に立っている女子が中西を呼んだ。中西は明るい声で返事をすると席を立った。そういえば、昨日も呼ばれていた。女子の手には手作り感満載のおそらくクッキーを持っていた。名札の色から一年生である。吹奏楽部の後輩だろうか。昨日の女子と似ているような感じがする。
昨日来た子からは一週間ほど前に告白されたと聞いた。もしかしたら今回の子も、中西の事が好きなのだろうか。
……何だろう、変な感じがする。
朝からずっと『昨日』やら『同じような』の言葉を繰り返していると思うのは気のせいか?
昨日と同じ様なセリフを言った姉。行ったはずのフリーマーケットに今日も行く母。由子が死んだというのに、由子の母までも行っていた。今から思えば可笑しい。昨日と同じ場所に立っていた先生。同じようなことを言ってきた中西。そして、昨日の子と似たような女子からお菓子を貰う中西。
これだけではない。由子が死んだというのに、教室はいつもと変わらない。いや、変わらなさすぎる。
明らかに今日は可笑しい。改めて考えると、疑問と安心が混じり合った。
由子が死んだというのに、いつもと変わらない今日は、いったい何を示している?
何だ、何なんだこれは?
「……デジャヴ?」
そう表現すると、きっと今日という日そのものをデジャヴと呼べそうだ。
考えはある。だが、そんなことがあるわけない。他の考えは見当たらない為、これしかないのだが、そうだとは到底思えない。
帰ってきた中西に、俺は声を掛けた。
「……何だったんだ?」
すると、中西は頬を少し赤らめて頭を掻いた。
「この前、部活でコンクールがあってね。お疲れ様って、これ貰ったんだ。……あの子、僕の事を好いているみたいなんだ」
『この前、部活でコンクールがあったんだ。あの子も吹奏楽部で、一緒に演奏したんだけど。お疲れ様って、これを貰ったんだ。……あの子、僕の事を好いているみたいなんだ』
『へえ、そうなのか』
どこかで似たような会話をした。それは間違いなく、『昨日』だ。昨日、困ったように笑いながら、そして照れながら帰ってきた中西に対して声を掛けた俺に返ってきた言葉。
「へえ……そうなのか」
昨日と同じことが起きている? だけど、少し違う――。
「あれ? 来ていたんだね」
中西の声で俺は顔を上げた。視線は俺を通り越して、後ろに注がれていた。……いつの間に? 俺が考えている間に来ていたのか? 待て、まず俺の後ろにいるのは、俺が想像している人物なのか? もしそうだとすれば、俺はとんでもない体験をしていることになる。
俺は、ゆっくりと体を捻る。いるはずの誰か、そしていないはずの誰かを見る為に。
それを目にした瞬間、涙が滲みそうになった。後方から、中西の声が聞こえた。
「おはよう、小倉さん」
そこには、『昨日』死んだはずの由子が、前と変わらない表情で俺を見ていた。
「おはよう、中西……と、西田」