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 瞼を、ゆっくりと開けた。どれほど長時間眠っていたんだと言いたくなるほど、瞼は重く、固まっている。それが眠ったことだけが理由ではないことは分かっている。

 耳元で鳴る煩い目覚まし時計をオフにすると、俺はゆっくりと体を起こした。

 昨日は早くに寝て、いつも以上に体が楽であっても可笑しくないのに、逆に重たい。無意識に出た溜息は、どかっと音を立てて落ちてしまいそうだ。

 ああ、時間は俺の気持ちも知らないで、のうのうと進んでいくんだな。

 そう思いながら、カーテンの隙間から突き刺さる光に顔を向ける。

今日も昨日と同じ晴れだ。同じ晴れなのに、いつもより眩しいと感じるのはどうしてだろう。分かっているはずの答えを自分に問うが、返事はない。

昨日のことを思い出し、俺は頭を抱えた。夢ではないことは分かっている。だが、夢であってほしい。

 ――由子が死んだなんて、信じたくもない事実だ。

 由子は屋上から落ちて死んでしまった。先生たちが最善を尽くし応急処置をして、救急車がすぐに駆け付けたが、由子は助からなかった。突然のことすぎて、俺は由子が死んでしまったことを信じることは出来なかった。例え二度と目の開くことのない由子の顔を見ても、ただ眠っているんだとしか思えなかった。だけど、死んでしまったんだと、現実を受け止めたように由子を見つめる自分もいた。そのせいか、由子に触れることが出来なかった。この機会しかないのに、俺は由子に手を伸ばすことさえも出来なかった。

 どこかに、それを怖いと認識してしまう自分がいたのだ。触れれば、由子でなくなってしまう。少しも動かない由子を見て、触れれば噛みついてくるんではないかと恐れてしまった。

 死んだ人間が噛みつくなんてことあるはずないのに。

 由子を見て、涙を流すことさえ出来なかった自分が憎い。

 もうあの由子は戻ってこないんだと思うと、後から涙が溢れ出て来た。目がこんな風になっているのは、涙のせいだ。

「一朗ー」母の声が階下から聞こえる。「ご飯出来てるよー」

 こんな状態で、学校に行けというのか。母だって由子の事は知っているはずだ。小学生のころはよく家に遊びに来ていたし、由子の母とも仲良くしている。

 そんな由子が……こんな事になってしまったのに、何も感じないというのだろうか。

 いや、そんな事は無いはずだ。昨日の夜は涙をこらえて晩ごはんを食べていたのを覚えている。俺の姉も、昨日は友達と遊ぶ約束があったようだが途中で抜け出してきたのだ。父も、仕事を早く切り上げて帰ってきた。由子とは家族ではないけれど、うちとは仲が良い。

 ならば、何故母は何もなかったかのように振る舞うことが出来るのか。

 ……いや、俺の考えすぎかもしれない。ああやって明るく見せておいて、本当は悲しくて仕方ないのかもしれない。母としての精一杯の振る舞いなのかもしれない。いつもは馬鹿な母だが、気遣ってくれているんだ。

 俺は布団に敷かれたままだった足を出して、部屋を出て行った。



 前言撤回、決して俺の考えすぎではなかった。

 リビングに入るや否や、母は「早くご飯食べてしまってー。お母さんこれから買い物に行ってくるから」と、優しさのかけらもない言葉を俺に振り掛けたのだ。

 机にはすでに姉が座っており、温かい味噌汁を美味しそうに啜っていた。父は俺が起きたころには既に出勤しているため、今はもういない。

 俺はいつもと変わらない朝に戸惑った。誰でもこうなるだろう。さっきまでの暗い気分なんてどこか遠くへ行ってしまった。

「一朗、突っ立ってないで早く食べれば?」姉が幸せそうな顔をして言った。「味噌汁温かくて美味しいよ。最近朝晩は寒いから、いつも以上に美味しく感じちゃうよ」

 昨日も似たようなことを言っていた。由子の事があって混乱しているのだろうか。由子の死は、周りの人間の脳を可笑しくしてしまったのだろうか。

 俺は少し顔を引き攣らせながら姉を見て、ゆっくりと椅子に座った。だが、すぐに手を付ける気にはならなかった。

「一朗どうしたの? 腹減ってないの?」

 姉が白飯を頬張りながら首をかしげる。口に物を入れたまま話したため、咀嚼音がこれでもかというほど聞こえてきた。

「こら、華。口にご飯入れたまま話さないの」

 華と呼ばれた姉は、白飯を飲み込んでから母に話しかける。

「だってさ」摘まんでいた豆を口に運ぶ。「一朗が元気ないんだもん」

 箸で俺を差す姉に、また母は注意する。

「こーっら。箸で人を差さないの」

「はいはい分かりました。って私じゃなくてさ、一朗を見てよ。椅子に座ったのに何も食べてない!」

「座ってすぐにご飯を食べなくちゃいけないわけじゃないんだし、放っておいたらいいよ。一朗だって毎日元気じゃないんだしね」

「そんなこと言ったってなあ」

「けど、今日は少し急いでもらいたいけどね」

 母と目が合い、俺はすぐに箸を取った。味噌汁は姉の言うとおり、確かに味噌の良い香りがする。いつもと変わらない食事を俺はさっさと済ませ、自分の部屋へ駆け足で戻った。

 いやいや、絶対に可笑しいだろ。

 いつもと変わらなさすぎる。可笑しくなってしまったのか、という話は置いておいて、どうしていつもと変わらない日常を過ごすことが出来るのか。

 由子が死んでしまったことが夢だった? そんなはずはない。俺だって由子が死んでしまったことを信じたいわけではない。むしろ嘘であってほしいと思うばかりだ。だが、一度死んでしまった人は生き返らないのである。それは、誰もが知っていること。

 何なんだ、このいつもと変わらない朝は。何気ない会話にも程があるだろう。

 やはり……由子は死んでいないのか? 夢だったのか?

 それだったら、俺は何て不吉で失礼な夢を見てしまったのだろう。由子が死んでしまう夢にしては、少し現実味を帯びたものだったなあ……。

 何を考えているんだ俺は。あれが夢で済むのならば、何故俺の目は重たいんだ。泣き寝入り以外の何物でもないだろう。

 再び現実を見ると、俺の気分は一気に下がる。少しでも、由子は生きているのではないと思ってしまった。それが現実ならば、どれほど嬉しいものか。母と姉を見て、思わず自分も可笑しくなるところだった。

 突如、脳裏に由子の姿が横切って行った。それは、いつものように何を考えているのか分からない顔でも、笑っている由子でもない。昨日屋上から見た、頭から血を流している由子の最期の姿だった。

 思わず考えてしまう。由子が落ちる前の姿を。転落防止用の柵に片手で必死に掴まり、堪える由子。その時に俺がいれば、由子があんなことになることはなかった。提出なんて、放課後にすれば良かった。

 途端に体の力が抜け、足を抱えて俺は座り込んだ。

 先程までの気持ちは全てそれに押し殺されてしまった。何も考えたくない。考えれば、絶対に由子が出てくるからである。それに逆らうように、頭の中は由子のことで溢れてしまった。

 完全に動けなくなる前に、俺は制服に着替えることにした。何かをしていれば、自然と何も考えなくなるだろうと考えて。

 着替えが終了しても俺の気分が復活することはなかったが、リュックサックを持って俺は階段を下りた。

一階では母が買い物へ行く準備を終えて、玄関にいた。

「母さん、今日はどこへ行くんだ?」

「フリーマーケットよ。小倉さんと行ってくるの」

「え?」

フリーマーケット?

「え、って何? 行っちゃ駄目なの?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

 母は不思議そうに俺を見る。靴を履き終えると振り向き、俺の顔をじっと見つめる。

「な……何?」

「しんどいわけじゃないんでしょ?」

「別に、そんなことはないけど」

 うーん、と唸り声をあげて何やら悩み始める母。早くフリーマーケットに行かなくて良いのかと思うが、口を閉じで目を合わせ続ける。

 すると母は俺の額に手を当ててきた。冷え性の為、とても冷たい。俺の冷え性は母親譲りだ。

「一朗、今日朝から少し変だよね。……熱は無いか。どうしたの、何かあった?」

 母の問いに、口籠ってしまう。

「……可笑しいのは、母さんの方だろ」

 そう言った後、母の後ろの扉が開いた。由子の母だ。うちの母が遅いから、迎えに来てくれたのだ。

 母は俺の言葉を不思議に思いながらも、俺に問う事は無かった。

「じゃあ、いってくるね」それだけ言って、母は外へ出て行った。「……いってらっしゃい」

 俺はカウンターに置いてある弁当をリュックサックに入れて、また玄関へ戻ってくる。靴を履きながら、俺は思った。

 昨日もフリーマーケット、行ったよな。

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