終
最後の総合の時間を終えた俺たちは、荷物を持って教室を出て行く。もう機会が無い限り、みんなで集まる事は無い。それが寂しいと思えるのは、変化があったから。
「西田くん、ついに卒業だね」
隣を歩く中西は、震えたような声で言った。リュックサックを抱えている。
「もう卒業式は終わったぞ」
「そうだけど……。後輩に見送ってもらうと、やっぱり卒業するのかあ、って思うよね」
今日は、卒業式にふさわしい晴れ。程よく流れる雲も、俺たちの卒業を祝うためにあるのだろうか。
中西の顔を見ると、目が少し赤くなっていた。皆の前で一言ずつ言っていく時、涙を流していたことを思い出す。涙を流せるのは、この三年間が有意義で、楽しくて、離れたくない程の時間だったからだろう。俺は、そんな中学校生活を送ることが出来ていただろうか。
昇降口を出たところで、在校生たちが花道を作ってくれている。そこを通れば、もうその道を戻ることは出来ないだろう。
「そうだ、西田くん」
中西はリュックサックから色紙を出した。卒業式の前に書いた色紙だ。
「これって、西田くんが書いたんだよね?」
そう言って、ある文章を指した。『一人でいた俺に、声を掛けてくれてありがとう。助かった』
「ああ、俺だ」
「だよね。名前が書いてなかったから誰かなぁって思ったんだけど、西田くんの名前だけ、どこにもなかったから、そうだと思ったんだよね」
「悪い、忘れていた」
「ううん、いいんだよ」
そう言って中西は笑った。この笑顔も、もう見る事は少なくなる。
卒業生は見事全員、志望校に合格することが出来た。それぞれの道のために、共に三年間、または九年間過ごしてきた仲間と別れる。もちろん、一緒の高校に通う子もいるが、新しくできた友達と仲良くして、その時間は減るのではないだろうか。
中西は最寄り駅から五つ先の進学校に通う。同じ電車通学でも、部活などで電車の時間がずれて会う事は少なくなるだろう。太田と小和田は一緒の高校に行くのかと思ったが、別々の高校だという。しかも遠距離になるというのだから、二人の先がどうなるのかは俺には分からない。
そして俺は、家から一番近い高校に通う事になった。由子がいれば、由子と通う事になっていただろう。
由子が転落死してから、俺の周りが変わっていった。普段あまり話しかけてこないクラスメイトが話しかけてくるようになったのだ。始めはどういう根端だ、と疑問に思った。だが中西が、「西田くんが少しでも元気になってくれて良かった」と言ったのを聞いて、皆が心配してくれているのだという事に気付いた。それから、教室の端にいた俺はどんどんと中心に寄るようになった。もうみんなと集まることが少なくなると寂しく思ったのは、このようなことがあったからだ。
あれから、俺は何かを忘れている。俺は、忘れた事の欠片を持っているが、その欠片だけでは、それが何なのかさっぱり分からない。ただ、それが由子に関することだけは分かる。
俺宛ての色紙に書いてあった、俺からの言葉、『今日を大切に。』。自分で書いた言葉だが、きっと無意識で書いていた。その言葉を見ると、どこか胸が痛んだ。
下履きを履いた俺たちは、花道を通る。その時に、引退した部活の後輩から、色紙やら手紙やらを渡される。俺は色紙を受け取ると、すぐに花道を抜けた。この道を、由子と通りたかった。
「おい西田」
肩を叩かれ、俺は振り返る。
「太田か」
「俺以外に誰だと思った?」
「別に誰とも思っていない」
目線を下げると、太田は色紙だけでなく手紙を持っていた。それも、結構たくさん。
「随分と手紙を貰っているな」
「ああ。俺って顔が広いからな。男子からも女子からも貰えたんだ」
自分で顔が広いと言うのか、と言いたかったが、言わないでおいた。
「太田は小和田と遠距離になるそうだな。どこの高校へ行くんだ?」
「西田の知らない高校」
「他県か?」
「他県かもしれないし、他都かもしれない。はたまた他道かもしれない。他府もあるな」
「とりあえず、ここを出るんだな」
太田の言ったことを軽く無視した。不服そうだが、太田は頷いた。
「高校に入ったらスポーツに専念する。退学にならない程度に勉強も頑張る」
「スポーツって、野球か?」
「それもあるけど、他のやつもやってみたいと思ってる。野球やるだけなら、そこらの高校にしているさ」
野球だけをしたいなら、確かに近くの高校でも十分できる。それでメディアが食い付くほどのところまで行けるか、となるとすぐには頷けない。太田が進学する高校は、そこらの高校とスポーツとの関係が深い事は何となくわかった。
太田はその後、後輩に呼ばれて去って行った。その前に、質問された。
「西田はさぁ、高校に入ったら部活とかやんのか?」
視線を逸らした後、控えめに言った。自分の事だが、何だか恥ずかしい。
「……バスケ部に入ろうかな、とは思っている」
ふーん、と頷いたのち、野球とバスケ掛け持ちできるっけなぁ、と呟いていたのが聞こえた。同じ部活に所属していれば、練習試合で一緒にすることが一度や二度あるかもしれない。また太田とバスケが出来るのなら、次は妙にいがみ合っていたあの時とは、違う心を持つことが出来るだろう。だが、野球部とバスケ部の掛け持ちは難しいだろう。
強制だった中学校とは違い、高校は別に入らなくて良い。それでも、俺がバスケ部に入ろうと思ったのは、ただ純粋に、太田が羨ましかったから。太田だけではない。小和田や中西も、他のクラスメイトも、何かをして、結果を残している。大会で表彰台に登ったり、コンクールで賞を取ったり。俺には、そんなことが無かった気がする。部活は強制的にやらなければいけない、という思いが強くて、どうもやる気が起きなかった。入部したからにはとりあえず動いて、迷惑をかけない様にした。
自分が決めた事を恥ずかしいと思ったのは、相手の反応が怖かったから。「え、バスケやんの? まじかぁ、意外」と言われるのが怖かった。自分を否定されているようだから。だけど、太田は違う。俺の決断を認めてくれた。太田が皆に好まれる意味がよく分かる。
「にっしーだくん」
明るく声を掛けてきたのは、小和田だ。こちらも太田に負けじと色紙や手紙を持っている。
「ついに卒業したね」
「ああ。おめでとう、小和田」
「うん、西田くんもおめでとう」
心なしか、いつもより元気だ。
「やっと義務教育から解放されたね。なんか、心が軽くなったよ」
「それでも、高校は卒業しておいた方が良いと思うぞ」
そう言うと小和田は、分かってるってぇ、と肩を叩いた。うちのクラスには肩を叩くのが好きな奴が多いようだ。
「あ、そうだ。四人で写真撮ろうよ。西田くん、誰とも写真撮ってないでしょ?」
確かにその通りだが、やはり小和田は最後まで失礼だ。そんなに気にはしないが。
小和田は太田と中西を呼びに行った。どこかに座って待っていようかと辺りを見回した時、滝澤と目が合った。手を振ってきて、口パクでおめでとう、と言った。
戻ってきた小和田は後ろに二人を連れていた。早く並んで、と言う三人に押され、何故か俺は真ん中に来ていた。前にはスマホを持った先生がいる。
「俺、端が良い」
「駄目だ、西田は真ん中じゃないとすぐ逃げるだろうが」
太田に頭をぐしゃぐしゃにされる。
先生の掛け声で、ボタンが押される。シャッター音が、いつまでも聞こえなければ良いのに、と、俺はこの時間を恋しく感じた。
まだ冬の装いをしている風が、この辺り一帯に吹き荒れる。空はこんなにも青く透き通っているのに。やはりまだ完全な春到来ではない。
誰かと一緒にこの場所に来たのは、今回が初めてだ。家族とも行かず、一人で来ることばかりだった。部活の帰りや暇な時に、ふと行こうと思うような場所ではないのだが、俺はそう思って何度もこの場所に来ていた。
「初めてかも、ここに来るの」
坂道に差し掛かった時、背後から声がした。
「何度も行ってみたいなとは思っていたけれど、どこにあるのか分からなくてさ。何だか、ドキドキする」
「墓に行くのにドキドキする奴なんて、初めて聞いたぞ」
男の声が突っ込んだ。
「えー、太田だって初めてでしょう?」
ちらりと後ろを見ると、小和田が太田の顔を覗き込んでいる。太田はその頭をぐっと手で押して、うるせぇ、とぐしゃぐしゃにする。小和田は嫌がるが、何だかんだ楽しそうだ。小和田の手には、花束が握られている。
「もうすぐ着くぞ」
そう言うと太田が、まだ来ていない二人は何処だと問うてきた。後から来ると伝えると、遅刻なんて珍しいと呟いた。
結構な傾斜の坂を一歩一歩踏みしめて上がる。何度も上がってはいるものの、やはり慣れない。高校に入ってから培われた体力も、もう無くなってきているのだろうか。
坂を登り終え、すぐに右に曲がる。砂利道に入ってしばらく歩いてから左に曲がる。両側に太い木が並び、葉のトンネルを作り出している。昨日の雨のせいで、砂利道から土道に変わった地面は少し柔らかい。
葉のトンネルを抜けると、もう目的地だ。長方形の灰色の石が並んでいる。
「――小倉のは、どれだ?」
太田の声に返答はせず、歩き続ける。全体の中央辺りで足を止める。目の前には、『小倉家之墓』と掘られた墓石が立っている。
先に誰かが来ていたのか、生き生きとした花が供えられ、線香から僅かな煙が立ち上っている。きっと、由子の家族だろう。
小和田は持って来ていた花を供える。元から刺さっている花がある為供えられず、仕方なく線香の奥に横に置く形で供えた。
「もう五年か。月日は早いね」
「お前、小倉と接点あんまり無かっただろ」
「接点なくても、クラスメイトだったんだから、そんな事言わないの」
へいへい、と適当に返事をする太田。
太田も接点無かっただろ、と言おうとしたが、止めた。由子と太田が話している風景が一瞬、頭を過ぎったからだ。話しているというより、言い合っている、と言った方が正確かもしれない。そんなことあったっけな、と考えるが、何も思い出せない。
まあいいか。
来るはずの二人はまだ来ていないが、先に三人で手を合わせる。二人は何を思ったのだろか。俺は、言えなかった想いを告げた。
ポケットに入れたスマホが震えた。画面には『中西』と表示されていた。恐らく近くまで来たのだろう。迎えに行ってくる、と二人に一声かけて、その場を離れた。画面をスライドし、耳に当てる。
「もしもし」
『もしもし、西田くん? 近くまで来たよ。どう行けばいい?』
「坂道が見えないか? そこを上ってほしい」
『坂道? ……あ、あった』
電話の奥で、中西が「坂道だって」と誰かに言っているのが聞こえた。誰かと一緒にいるのだろうか。
「……滝澤も、いるのか?」
『え? あ、うん。一緒になったんだ』
坂道を半分ほど下りた辺りで、遅れてやってきた二人を発見した。中西と、滝澤だ。滝澤とは同じ高校で、同じクラスにはならなかったが何度か廊下ですれ違ったことがある。何かを話すわけでもなく、軽く手を振ったり会釈したりする程度だった。滝澤とは高校を卒業して以来になる。およそ二年ぶりだ。
「あっ、西田くん!」
手を振る中西に振り返す。後ろにいる滝澤は、久しぶり、と言った。
「久しぶり。相変わらずだな」
「西田くんこそ。すごく大きくなったね」
中西はあまり大きくなっていないな、と思ったが口にはしない。まあ、中西らしくて安心する。
滝澤はぐっと大人っぽくなっていた。薄らと化粧をして、全体的にモデルのようだ。高校卒業後は就職して、何とか楽しくやっているそうだ。
「西田くんは、大学に行っているんだよね?」
「ああ、心理学を学んでいる」
そう言うと、ええ凄い! と中西だけでなく滝澤も驚いていた。
確かに、そう言うと驚かれる。だけど、カウンセラーになる上でこれは必要な工程だ。そう言うと、ええカウンセラーになるの! とまた驚かれる。中西と滝澤も、そのうちに一人だった。
「凄いねぇ、西田くんは。僕なんか、本が好きだから文学部に行っているけど、親に『文学部に行って将来何の役に立つの?』って言われたよ」まあ、確かにそうなるよね、と笑いながら言う。「でも、好きな事を学びたいって思うことは誰しもあるよね」
「そうだな。数学が好きな奴は数学を学んで数学者になるだろうし、人と付き合う事が好きな奴は接客業に就く。文学部だって、好きな奴がいるから行きたいって思うし、そう思う人がいるから文学部自体も存在するからな」
「さすが西田くん。分かってくれると思ったよ!」
中西は俺の肩にぽんぽんと手を触れる。その指に光るリングを見て、俺は驚く。最後に彼を見たときには無かったものが、左手の薬指にあった。
「中西、お前……結婚するのか?」
そういうと、中西は照れたように手を後頭部に当てる。
「言ってなかったっけ? ……まあ、うん。まだ婚約の時点だけどね」
「大学生で婚約……」
まさか、中西の口からこんなに早くに「婚約」という言葉が出てくるとは思いもしなかった。結婚できないと思っていたわけではない。ただ、大学生のうちに婚約するとは思いもしなかったから。
「うん、皆そういう反応をするんだよ」
「さすがに、驚いた。太田と小和田が別れたくらいの驚きだ」
「え、二人別れたの?」
「例え話だ」
詳しく話を聞くと、相手は大学で出会ったイギリス人だそうだ。金髪で青色の目をしているらしい。
人というのは、どうなるのか分かったものではない。他の人からすれば俺がカウンセラーになることに驚くし、俺からすれば中西が国際結婚をすることになったことに驚く。だが、それらは俺や中西にとって、もうその道しかないのだ。他の夢、他の人はもう選べない。物事が違うだけで、それらは同じなのだろう。
中西と滝澤を連れて、由子の墓へと向かう。
「おせーぞ、啓太。何とろとろしてんだよ」
俺たちの姿を見つけた太田が声を張る。「小倉待たせちゃ悪いだろーが」
「太田! そんな言い方ないでしょ? 啓太くんだって忙しいの!」
「……ああ、結婚するんだっけ?」
どうやら太田と小和田は中西の婚約を知っているようだ。三人は中学のころから一緒にゲームをして遊ぶ仲だから、聞いていて当然だろう。
太田は茶化すような笑顔を中西に向けている。それを見た中西は負けじとなのかどうかは分からないが、「豪くんと小和田さんは? 結婚とか決まっているの?」と聞いた。
「全くだな。結婚なんて眼中にない」
「二十五までには籍入れたいなと思ってる」
太田の言葉を上書きするように言った小和田は、太田のことを横目でじーっと見つめている。二人は今年で付き合って何年になるのだろう。十年近くになりそうだ。結局結婚するのは目に見えているので、心配はなさそうだ。
太田は小和田からの視線を振り払う。
「ほらほら、さっさと挨拶しようぜ」そう言って、太田は墓の方を向く。「小倉が、寂しがっているだろうし」
今年で、由子が死んで五年が経つ。あっという間だと感じるが、けどまだ五年かとも思う。もう、ずっと前から由子がいないような気がしている。
皆で墓の前に並んで、静かに手を合わせる。
由子の死は、本当に突然だった。俺の人生が一変した日でもある。いつも一緒にいた由子が、そしてこれからも一緒にいるのだろうと思っていた由子が、突然死んだ。
でも由子、俺には友達ができた。卒業しても時々顔を合わせることができるような友達が。初めから仲良くしていれば、きっと由子も楽しかっただろうにと思うんだ。いつも俺と二人でいて、世界は全く広がらなかった。由子が死んで、俺だけみんなと仲良くしていることに、俺は時々心が痛くなった。由子は、この景色を見ることができていないって。見れないままで終わってしまったって。もうこうなってからでは、見せることなんてできない。
後悔なんて数えきれないほどある。一緒にしたかったこと、見せたかったもの、見せたいもの。いつも由子と一緒だったのに。ピアノを習ったのも、留守番をするのも、学校に通うのも、全部由子がいた。由子がいたから、できていた。二人で一人のようなものだった。でも、俺が持っているものを由子が持つことはもうない。俺一人で持っていなければならない。共有することすらできない。それが、とても苦しかった。二人で持っていたものは、一人で持つととても重かった。
その時に由子の存在が愛おしくなった。どれだけ由子が大切だったのか、俺の中で由子は、半分を占めていたんだ。必要不可欠だったんだ。
由子がなんで死んだのかは、知らされていない。ただ屋上から落ちたことしか知らない。だから、由子が自ら落ちたのか、それとも事故だったのか、何も知らないんだ。
由子が死にたいと思っていたのなら、それは俺の責任だろう。だって、俺の中の半分は由子なんだ、俺のもう半分はきっと、由子の中にある。俺が何かしら、由子に日々ストレスを与えていたんじゃないかと思っている。どうだろうか。
だとしたら、由子は俺に何も話してくれなかったことになる。何年も一緒にいたのに素直に話せないほど、二人に隙間があったのだろうか。
何故話してくれなかったのか、俺はそれを知りたくて、心理学について学べる大学に進学することにした。初めは、ただそれが知りたかっただけなんだ。でも、誰にも何も話せない子がたくさんいることを知った。由子だけじゃない、話したくても話せない子は、珍しくとも何ともない。
もしそんな子が、由子のように死んでしまったらどうだろうか。
きっと、悲しむ人がいる。
俺はそれを少しでも無くしたくて、カウンセラーになろうと思ったんだ。誰にも言えない思いを聞いて、それで少しでも心が落ち着いてくれればそれでいい。突然いなくなることだけは、絶対にしないでほしいと思ったんだ。
でも、やっぱり俺にとっては遅いんだ。カウンセラーになっても、死んだ由子の気持ちを読み取ることはできない。これなら、霊関係の仕事に就いた方が良かったかな。
「西田、いつまで小倉と話してんだよ」
「太田、しっ」
目を開けると、他の人たちは既に目を開けて手を下していた。俺だけがこんなに由子と話していたのか。
「気にしないで西田君」
「いや、悪い。すぐに終わらせる」
俺は再び目を閉じる。
由子、最後にいいか。正直、俺は何かを忘れている。それは、あの日から変わらない。何を忘れているかは分からない。穴が開いたように、真っ暗で何も見えないんだ。
でも最近、感じるんだ。俺は、由子との大切な何かを忘れているって。由子だけじゃない。中西や太田、小和田や滝澤について、どうしても離れられないような何かがあった気がするんだ。でも、いくら考えても答えは出てこない。思い出せば、もっと何かを知ることができるんだろうなとは思う。
でも、俺はそれを、もう忘れたままでも良いと思っているんだ。たとえそれを忘れてしまっていても、彼らが友人であることには変わりないから。
でも、由子のことは忘れない、忘れられない。今でも由子は、俺にとって大切な存在だ。
忘れた大切なことが、本当は忘れてはならないことだとしたら、きっと由子は怒るだろうな。なんでそんなことを忘れてしまったんだって。でも、俺には永遠に、真っ暗な穴ができている。それは何かで埋められるようなことではない。この穴が、忘れてしまったことの代償だ。
もし思い出した時がきたら、その時は、由子に報告するよ。
じゃあまた今度、由子。
そう告げて、俺はゆっくりと目を開けた。
「ごめん、遅くなった」
そういって振り返ると、皆気にしないでと言ってくれた。
この後は、皆でどこかへ食べに行く予定だ。久しぶりに集まったから話でもしようと、太田が提案してくれたのだ。
それぞれ話しながら、墓を離れる。ふと振り返ってみたとき、由子が墓に座ってこちらに手を振っているような気がしたが、次の瞬間には消えていた。俺は一度戸惑ったが、手を振りかえした。
寝癖の付いた由子と被ったが、それは一体いつのことだろう?
「西田、もたもたすんなよ」
太田から声がかかった。
俺は不思議に思いながらも頷き、皆の後を追った。