拾伍
失くしていた記憶を取り戻した俺は、あの時あった事を全て思い出した。あの日、俺は由子と弁当を食べていた。俺が憶えていたあの日の出来事は、由子と一緒にいた後の出来事だったのだ。つまり俺は――由子の落ちる瞬間、屋上にいた事になる。
「由子……お前、知っていたのか? ずっと……」
「やっと気づいたか」扉が開くと共に、声が聞こえた。「全部綺麗に思い出したんだよな? 西田」
いつもは来ないはずの太田が、そこにいた。壁にもたれ掛かりポケットに手を入れている格好は、この時をずっと待っていたようであった。
「太田……まさかお前も知っていたのか?」
「当たり前だろ」太田は視線を地面に落とした。何かを思い出しているようだ。そして俺の方を向いて「その瞬間、俺は見ていたんだからな」と目を細くして言った。
見ていた? 太田が?
「俺はあの時、保健室に行っていた。前に故障した膝が痛んできたからな。ほら、俺って元野球部キャプテンだろ? 一応スポーツ専攻のある高校を受けるつもりだから、また故障はしたくなかったわけ。その帰りにふと顔を上げたら、――驚くぜ、小倉が落ちそうになっていたんだからな」
冷水器のある場所から顔を出せば、屋上はすぐ見える。人がぶら下がっていれば、視界の隅に入ってすぐに気付くだろう。
由子の涙は止まっていた。だが由子は斜め下を向いていた。
俺は、こんな大切な事を忘れていたのか。俺が由子を助けていれば助かったかもしれないと思っていたが、俺にはそれ自体が出来ていなかったのだ。
何故あの時、すぐに由子を助けられなかったのだろう。プリントなんかよりも、大切なものがあったのに。
太田と二人で、ここで話をした時。柵を握った太田が落ちると思ったのは、由子が落ちない様に柵を握る手を被ったからなのだろうか。
俺の記憶は、都合よく変わっていたのだ。由子が落ちた事で混乱し、それを無かったことにした。いずれは知ってしまう事実であるにもかかわらず。俺自身が隠したかったのは、由子の死だろうか。それとも、由子が落ちた時に俺が屋上にいたという事実――?
――あの時由子が落ちたのに、すぐに騒ぎにならなかったのは何故だ?
由子の手が見えなくなった後、俺は教室に戻ってプリントを手に取り、職員室に向かったはずだ。その時の教室が異様な空気をしていたのなら、その時に気付くはずだ。それなのに、俺が職員室から帰ってきた後に生徒が騒ぎ出したのは何故なんだろう。
「おい西田」俺は横目で太田を見る。まだ考えがまとまっていない。「気付いたんなら、小倉に感謝しとけよ」
「感謝?」
「小倉はあの時、しばらく落ちずに堪えたんだ。今すぐに落ちれば、西田が怪しまれるからな」
俺と彼らの記憶は、どこか食い違っている。俺が記憶を捏造したこともあるが、俺の記憶によれば、由子のあの時すぐに落ちた。柵にも地面の縁にも由子の手は無かった。だから俺はあの時、由子が落ちたと思ったんだろう。
だが彼らの記憶の方が正しければ、由子が落ちてすぐに騒ぎにならなかった理由が付く。
「小倉はあの時、西田の角度からは見えないところにしがみついていたんだ。西田の位置からは見えない突起に掴まってな。確かにそれなら落ちたと謝って判断しても可笑しくはない。だがな、普通は覗き込むだろう? 何故お前はそれをしなかった?」
「……覚えていない」
「覚えていない? それはただの現実逃避じゃねぇのか? そんな言い訳が通じると思ってんのか?」
太田は俺に近づき、胸倉を掴んできた。眉間にしわを寄せ、いつもの冗談で怒っている太田ではなかった。
「あの時、お前は言ったよな? 大切な奴がここから落ちそうになっていたら、動けないかもしれないって。本当のお前はそれどころじゃなかったんだよ! 動かないどころか、それを信じることが出来なくてそのこと自体忘れやがった! 大切な奴が落ちそうになってんのを見過ごしたんだ! そんなこと、許されると思ってんのか!」
もし、太田に恋人がいなくても、こんなことを言っていただろうか。太田は確かに俺を責めている。だけどどこか、小和田の事を考えているようであった。
大切な人がいることで、人はこんなにも誰かを責め、思いやることが出来る。俺に、そんなことが出来るのだろうか。
俺は確かに、取り返しのつかない事をしてしまった。由子を助けられなかった。そのせいで、『今日』が繰り返すという可笑しな現象に巻き込まれた。
「……許されるなんて思っていない。由子を助けられなかったのは俺のせいだ」
俺は、運命を恐れた。由子が死ぬ、という運命だ。それが嫌で、現実逃避した。運命を恐れるのは、運命を信じているからだ。俺がしてしまった行いを、俺はきっとどこかで運命のせいだ、なんて考えているのかもしれない。由子が落ちそうになっていた事も、そこで由子を助けられなかった事も、全て運命に責任転嫁して、自分の身を守っていたのだ。
「……太田、西田をそんなに責めるな」
今まで口を開かなかった由子の声がした。
「でも、こいつのせいでお前は一度死にかけたんだ。いくら大切な幼馴染であっても、それは信頼を失くす行為だ。……小倉まさか、あれは事故じゃないって言いてぇのか?」
太田の言葉が引っ掛かる。また俺の記憶と食い違っている。俺はまだ、忘れていることがあるのか?
由子の表情は、暗かった。いつもよりずっと暗い。今回の事で、俺は忘れていたことを思い出した。それは、由子にとって良い事だろう。悪くはないはずだ。それなのに、何故こんなにも表情が悪いんだろうか。
何を考えているんだ?
すると由子は俺に少しずつ寄ってきた。一歩とも言えない歩数で、ゆっくりと。
「由子……?」
その時の由子の表情をきっと、俺はずっと忘れない気がした。それほど、これまで見た事のない感情を俺に向けていたのだ。由子もこんな表情をきっと、今以外することは無いだろう。
小さく開かれた唇がゆっくりと動いた。
「……西田。今からすべて話す。だからどうか、最後に何も聞かないでほしい。本当の事を話すから」
そして由子は、俺の知らない『今日』の話をしてくれた。
***
力がぎりぎりに減るまで耐えていた由子の元に、膝を抱えた太田がやってきた。太田は柵を跨ぎ、由子の手首を掴んで思い切り引っ張り上げた。
太田は柵にもたれ掛かり、そして膝を抑えた。
「ちくしょう……これで肘まで痛めたらお前のせいだからな」
由子は何も言わなかった。
太田は柵を跨いで安全地帯に戻ると、すぐに床に寝転んだ。
「お前を助ける為に、わざわざ痛みを我慢して助けに来てやったのに、お礼もなしか?」
由子はまだ柵の向こう側にいる。斜め下を見つめ、もしもの時の事を考えているのだろうか。もう少し遅ければ、太田が来なければ――。
どうやら由子の耳に入っていないと考えた太田は、「まあ、人の命助けるのに、わざわざって言わなくても良いか」と呟いた。
空は青い。風も程よい強さで吹き付ける。まさに、死ぬには絶好の日だ。
「なあ小倉、ここに西田いなかったか?」
呼吸を整えた後、由子に問うた。
確かに下から見た時、西田の姿が見えていた。だがすぐに見えなくなった。実は高所恐怖症で助けられなかったのか、と考え、もしかすると誰かを呼びに行ったのかもしれない、そう思った。そうならば、そろそろ西田が戻ってきてもおかしくない。
「……西田は今、職員室に向かっていると思う」
普段クラスメイトとあまり話さない西田なら行くかもしれない。だが、こんな時にわざわざ一階まで下りて人を呼びに行くだろうか。
「先生を呼びに行ったのか?」
すると由子は首を横に振った。「プリントを提出しに行った」
太田は二つの事を疑った。一つは俺が見た西田は、見間違いか。そして、自分自身の耳を。
前者が正しいのならば、特に問題はない。普段一緒に食べていると知っているので、それが西田だと勘違いしてしまっても。もしかすると、人がいたと思ったこと自体、太田の間違いなのかもしれない。もし後者が正しいのならば、それは問題である。西田は由子が落ちるところにいながら、助けなかったという事になる。だが、西田がそんなことをするのだろうか。もしくは、二つの疑い共が太田の勘違いなのだろうか。
「……ここに、西田はいたのか?」
核心を突く質問であった。だがそれに、由子は戸惑うことなく答えた。
「ああ。……太田がここに来るまでここにいた。私が落ちたと思って、困惑したんだろうな」
「……小倉を助けずに逃げて行ったってことかよ」
太田は拳を握った。
二人が幼馴染であることやほとんど行動を共にしていることは承知だ。そんな人物を助けずに放置した。それは、太田にとっては信じられない事であった。いや、誰の目から見てもその人格を疑ってしまう。
「何で西田は小倉を助けなかった? 心当たりとかないのか?」
「ない。助けなかったというより、死んでいる姿を見たくなかったというのが正しいと思う」
「ああ? どういう意味だよ」
「私が掴んでいたのは、西田――今の太田の位置から見て手が見えない位置だった。最初は見えていただろうが、一段下の突起を握っていた。西田は、私の死んだ姿を見たくなかったんじゃないだろうか」
大切な人の死に顔は、誰も見たくない。そこは理解できる部分だ。
だが、それと職員室へプリントを出しに行くのとは関係が無いだろう。こんな時に、ついでにプリントを持って行こう、何てことは考えない。
「プリントを提出しに行ったっていうのは、どう説明するんだ?」
「……西田は何のきっかけも無く突然、そう言っていた。だったら原因は、脳の誤作動しか考えられない」
「脳の誤作動……?」太田は首をかしげる。「西田は怪我してねえだろ。どうやって誤作動するんだ?」
「脳が誤作動するのは、太田が言った怪我をしたときと、衝撃的な現場を見た時。主にこの二つだと思う。西田が怪我をしていないのなら、原因は衝撃的な現場を見た時――つまり、私の転落現場を見たことによる」
太田は納得した。つまり、あまりに衝撃的すぎて、脳がそれを無かったことにしてしまった、という事だ。それほど西田にとって、由子の死は衝撃的だったのだ。
「だからと言ってもなあ、すぐに手を伸ばせばいけたんじゃねえのか?」
「衝撃的な現場に出くわした時にどれだけ早く動けるかは、その人次第だ。太田だったらすぐに助けるだろうが、西田は恐怖で動けなかった。ただそれだけの話だ。西田を責めるわけにはいかない」
だからと言っても、と太田は言いたくなった。大切な人が転落しそうなのに、なぜすぐに助けることが出来ないのか。衝撃的だったからこそ、忘れないものなんじゃないのか。そんなのは、ただの腰抜けだ。腰抜けが誰かを助けられるわけない。
大切な奴が出来て、強くなろうとは思わなかったのか。負けたくないと思わなかったのだろうか。大切な奴が取られたらどうしようと、危機感を持たなかったのだろうか。
太田はどうしても、許せなかった。
「太田、何度も言うが、西田を責めないでくれ。もう、変えられないのだから」
「……おい小倉。お前はいつまでそこにいるつもりなんだ?」
由子は、まだ柵の向こうにいた。鉛色の地面を、いつまでも見つめている。
「西田が戻ってくるまで」
ため息をつくと、太田は屋上を出た。ここにいたら、西田に何か思われるかもしれないと考えたからだ。
――あいつなら、何にも思わねえかもしれないがな。
由子が転落したのは、その後だった。
***
「……やっぱりか」
二回目の『今日』が来て一人で登校した時、昇降口で太田を見かけ、彼は由子を見てそう呟いた。由子を見下ろす状態で見られ、太田の瞳は真っ直ぐで、だが面倒だと言わんばかりだった。
由子はただ太田を見つめ、その時に何かを問う事は無かった。
太田が去ろうとした時、由子は彼の袖を引っ張って、陰に隠れた。
「……何だよ小倉。俺との熱愛報道が欲しいのか?」
「冗談言うな。……やっぱりって、どういう意味だ?」
由子はもったいぶらせることなく、太田に質問した。太田は少し眉をしかめて、由子の手を払った。
「そのまんまだよ」
「また『今日』が来たことに、気付いているのか?」
目を細める。そして視線を逸らした。「分かってんなら聞くな。良かったじゃねえか、死んだと思っていたのにまた生きることが出来て。もしかしたら、死なない今日を送れるかもな。そしたら、てめえの死んだ命、拾えるんじゃね?」
「良くない」由子は言い切った。「一度死んだ命は戻ってこない」
由子は顔を寄せて言ってきた。その言葉は誰しもが知っていることなのに、心に突き刺さった。由子の言われると、その言葉に重みが出る。
「……知ってる、んなこと」
「また『今日』が来ていること、家族は気付いていなかった。近所の人も」
「うちもだ」
「どうして私と太田だけが気付いているんだ?」
「……そりゃあ、てめえの死が関係しているんじゃねえのか?」
「え?」
由子がそう言った隙に、太田は由子を後ろに下がらせた。
いつもは冷静な由子が焦っている。確かに、また『今日』が来て不思議には思うが、人は今日という日しか過ごすことが出来ないのだから、あまり変わりないだろう。あるとすれば、同じ日をもう一度過ごすだけの事だ。
「小倉が死ぬ前、俺はてめえと話しをしていただろ? 関係があるとしたら、そこしかない。……あと、俺の予想ではもう一人、気付いている奴がいる」
「誰だ?」
「……西田だよ」
***
俺の知らない『今日』のうちに、そんなことがあったのか。つまり話によると、俺が屋上を出た時、由子はまだ落ちていなかった、ということになる。だけど、実際由子は転落死した。太田が来た後しかそれはない。だとすると、やはり由子の死は、事故になるのだろうか。
「……本当に事故なのか?」
二回も続いて事故が起こるとは考えにくい。由子が転落した時に太田がいなかったから、その真実は由子にしか分からない。
「由子、本当に事故なのか?」
俺が問うと、太田も「俺もそれについて疑問に思っている」と言った。
「事故にしては重なり過ぎている。二回目の『今日』が来た時の小倉は、冷静さが無かった。まるで、自分が生きていることが信じられなかったようだった。死を決意したのにもかかわらず、生きていた。それに驚き、焦っているようだった」
太田の言い方はまるで、由子は自分その日、死ぬことを知っていたかのようであった。
「最後に何も聞かないでくれと言った。私が話すのは、さっきのことで最後だ」
「由子、でも答えてほしい。あれは事故なのか?」
由子が答える様子はない。俺たちに背を向けて、柵に近づいて行く。
「おい小倉、何しようとしてんだよ」
太田の声にも、見向きもしない。
由子は柵を握り、そして、ゆっくりと柵を越えた。
「由子、お前何やって……」
太田が、由子に駆け寄り、落ちない様に腕を掴んだ。「何してんだよ! 助かった命を無駄にする気か!」
「助かってなんかない。これが正しい事なんだ。きっと、今落ちれば、『今日』は終わる」
「終わらねえ! 今日はずっと今日なんだよ!」太田は振り返る。「おい西田! お前からも何か言えよ! 突っ立ってんな! こいつ、また落ちようとしているんだぞ!」
俺は、早く由子を止めなければならない。だけどまた、足が動かない。
今は太田が止めているから落ちる事は無い。だけど、太田がいなかったら由子は確実に落ちる。何か言わなくては、由子を止める為の言葉を――。
俺は、由子の腕を握る太田の腕を握った。
「……何、やってんだよ」
太田は目を見開いて俺の手を見ている。俺はゆっくりと、太田の手を由子から引き剥がした。太田が呆然としている間に、由子から距離を取る。
「何やってんだよ西田。小倉を、助けたいんだろ?」
「……由子、楽しい『今日』をありがとう。『今日』という日は俺の中で一番、充実した日だった。いろんなことを知れて、学んで、気付けなかった事にも気付けた」顔を上げると、由子はこちらを見ていた。「由子の好きなようにすればいい」
「……ありがとう西田」由子は、笑っていた。
太田が暴れ出す。俺は、太田が由子に触れられない様に抱き付いていた。由子のしたいようにすればいい。だから、太田が手を出してはいけない。
そうして俺は、由子が落ちていく様子を、見ていた。姿が見えなくなっても、ずっと、見ていた。
どんな思いで落ちただろうか。落ちている時はどんな感じだろうか。
由子は落ちた事を、後悔していないだろうか。
太田が離れ、そして、頬に痛みが走った。俺は地面に倒れた。涙は出なかった。
「何してんだよてめえ! みすみす小倉を死なせるなんて! 大切な奴なんだろ? だったら、最後まで守って見せろよ!」
太田の言いたいことは分かる。俺だって、由子を死なせたくはなかった。
だけど――。
「いくら願っても、一度死んだ命は戻ってこない。明日が来ても、由子はいないんだ。そりゃ、ずっと『今日』が来れば、由子とは一緒にいられる。だけど、それじゃあ駄目なんだ」由子が落ちた事で、階下が騒がしくなってきた。
「どうせ過ごすなら、変わっていかないと。同じ日を何度も何度も過ごしたって、最終的には上書きされずに終わってしまう。由子との時間は増えるけど、その分、辛くなるだけなんだ……」
視界が歪んでいる。頬も濡れている。
こんな選択、したくなかった。だけどきっと、これしかなかった。
これが、由子を『救う』一番の方法だった。