拾肆
「――卵焼き交換しよう」
俺の弁当を見ている由子はそう言った。別に由子はそれほど卵焼きが好きというわけではない。どちらかというとカイワレ大根をハムで包んだものが好きだ。今日の弁当に入っているから、てっきりそっちを欲しいと言うのかと思っていた。
「いいよ」
俺は卵焼きを由子の弁当のふたに置いた。交換、と言ったのだから由子の中身も何かくれるのだろう。弁当を見ながら何をくれるのか見ていた。
卵焼きだった。
同じものを交換して意味があるのか。そんな事を思いながら、俺は由子の卵焼きを口にいれた。味が違う事に気付いた。由子の卵焼きは甘かった。家庭によって卵焼きの味が異なることは知っていたが、こんなにも変わるのかと感じた。
今日は晴れている。数ヶ月もすれば雪が降る為、こんな空を見る事も少なくなるだろう。雪が降れば、いよいよ受験が近くなる。
「……猫だ」
今の由子や俺には、まだ少し早い話だろう。危機感というものが無い。
「……え、猫?」
俺は由子が見ている方向を見た。柵の向こう側に、小さな黒猫が一匹、こちらを向いて座っていた。
どこから入ってきたのだろうか。非常用階段を上ってきたのだろうが、一歩間違えれば転落してしまう。いくら猫でも、こんな小さな猫は危ないだろう。
由子は柵の間から指先を伸ばした。
由子の家には昔、猫がいた。三毛猫で小さい頃から由子の家にいた。今はどこかへ行ってしまい、時々帰ってくる程度である。小さい頃から猫が好きな由子は、弁当を放って黒猫に興味津々である。
黒猫は由子の手を小さな肉球で叩く。肉球パンチというやつだろうか。由子はその姿を見て頬を緩ませている。
「西田、触るか?」
そう由子に誘われ、俺も猫に触るべく柵に近づいた。柵の幅は腕がすっぽり入るほどの幅で、猫を触るには十分だ。黒猫は俺の手に食い付き、何度か肉球パンチをしてきた。警戒しているのだろうか。だがしばらくすると警戒が解け、指先に鼻をつけてにおいをかぎ始めた。危険ではないと考えた黒猫は、俺の手に体をすり付けてきた。毛は滑らかに手を滑り、しっぽの先まで触った。
すると由子はそれを羨ましく思ったのか、「私もそれをしてもらいたい」と言った。俺は手を引っ込め、由子が柵に手を入れた。黒猫はやはり由子の手に食い付き、今度はいきなりにおいを嗅いで、体をすり付けていた。由子は体をすり付ける黒猫の体を優しく掴むようにして撫でた。猫は気持ちよさそうに目を閉じ、喉をごろごろ鳴らしている。
だが、いつまでも柵の向こうにいては可哀想だ。自分から入ったのか、それともずっと柵の外にいるのかは分からないが、もしかしての時の事を考えれば安全を取るべきだ。
「子猫だと言っても、さすがにこの隙間は難しいかもな。無理やり引っ張ればいけそうだが」
「駄目だ、猫が可哀想」
真剣な表情で言う。柵の上から持ち上げる案もあるが、柵が高くて猫まで手が届かない。猫が手元まで飛んできてくれれば良いのだが。
「じゃあ、俺が柵の上から手を伸ばすから、由子は柵の隙間から手を入れて、猫を持ち上げてくれ。それなら良いだろう?」
由子は頷き、早速猫を抱き上げる為に柵に両手を入れた。だが猫は危険と察知したのか、右へ左へと逃げてしまう。俺も由子と同じように猫を捕まえようと試みたが、二人の手を上手い事すり抜けていく。
このまま粘り強く頑張るか、他の案を考えるか迷っていた時、突然由子が柵を跨いだ。
「由子、危ないぞ」
「大丈夫だ」
柵の向こうにある狭い足場にゆっくり屈み込み、黒猫に手を差し出す。これなら黒猫はそれほど警戒しないだろう。少し警戒していたものの、ゆっくりと由子の手に近づき、体をすり付けてきた。そこを由子は、黒猫が嫌がらない様に抱き上げる。
由子から黒猫を差し出される。それを受け取り、地面に置こうと屈んだ。
その時、小さな悲鳴が聞こえた。
俺はすぐに振り返った。だがそこに、由子の姿は無かった。見えるのは、柵を握る由子の手のみ。
「……由子」
返事はない。
「由子?」
何かが途切れたように、由子の手が消えた。
俺は立ち上がることが出来なかった。手元で黒猫は呑気に鳴いて、さっきまで吹いていた風も止んでいた。葉の音も車の音も鳥の声も、全てがきれいに止んでいる。それはまるで、時間が止まっているかのようであった。
俺は猫を地面に置いて立ち上がった。
「プリント、職員室に持って行かないと……」