拾弐
寝坊した俺は朝食を食べずに家を出て、由子の家に向かった。
あれは、ほんの数分前の出来事のように俺の目の前をちらついている。重かった体、出なかった声、由子の顔。今なら全てを鮮明に思い出すことが出来る。
由子があの後、どうなってしまったのか分からなかった。それが起こる前に目の前が黒に包まれ、気付けば朝になっていた。日付は確認していない。家族の様子も見ていない。ただ、由子に会いたくて堪らない。あの時由子に会えなくて、由子の触れることも出来なくて、由子と話すことも出来なかった。唯一出来たのは、由子の名を叫ぶことだけだった。
インターホンを鳴らす。いつもの回数では満足できず、何度も何度も。家にいるのは由子だけだ。
ただ無心に押し続けていて、俺は由子が出てきていたことに気付かなかった。由子に肩を叩かれてやっと気づくことが出来た。
おはよう、と言いかけて、喉で止まった。
目の前に由子がいる。それだけで、憂鬱な朝も不安で満ちていた心も明るく色づく。こんなことが今まであっただろうか。
また、『今日』が来ている。これほど『今日』でない日を恨んだのは初めてだ。今日が『今日』で良かった。
喉で止まった言葉を飲み込んでから、「おはよう」と言った。
「何かあったのか?」
何か、と問われ、俺はまた思い出した。本当にあった事なのに、由子は経験したはずなのに、由子はその事を知らない。それが、寂しかった。繰り返される『今日』達は、結局は無かったことになる。そんな日は、本当に存在するのだろうか。
「随分とたくさんインターホンを押していたじゃないか」
俺はしどろもどろ、「寝坊して……。先に行ったんじゃないかと焦った」と答えた。確かにいつもより遅い時間だが、由子が置いて行くとは考えにくい。由子はそうか、と言って頷いた。特に追求しないようだ。それも、やはり寂しかった。
通学路を歩く。いつもと同じ朝が、同じ道が、静かだった。少し田舎で、国道沿いから奥に入ったところだから静かなのは当たり前なのだが、静かだった。『今日』を何度も送っているはずなのに、まるで違う日を送っているようだった。
いつもはほとんど何も話さない通学路。俺は、由子に話しかけた。
「由子。最近、どんな本を読んでいるんだ?」
特に驚く様子はない。由子はまっすぐ前を見たまま、「うーん」と唸る。「前までは推理ものを読んでいたが、今は純文学を読んでいる」
「純文学って、例えば?」
「太宰治や国木田独歩、今は谷崎潤一郎の作品を読んでいる」
太宰治ならまだ分かるが、あと二人は分からない。そもそも、純文学というのはどのようなものの事を言うのであろうか。それを問うと、「純文学は面白さより芸術性を重視して書かれている作品の事だ」と教えてくれた。純文学は少し読んだことあったが、途中でやめてしまった。それを読んで、あまり面白いと感じなかった。そう思ったのは、芸術性を重視して書かれたものだからだ。俺は納得した。
「由子、小説とか書いてみないのか?」
「書かない。書いている暇があったら本を読む」
何とも由子らしい答えだ。
俺はそれに頷いてしまい、声を出さなかった。それは、会話が終わってしまったことを表わす。どうにか、他に話題は無いのかと頭を働かせる。
何故俺はこんなにも、由子と会話をしようとしているのか。いつもはそんなことしようとも思わないのに。由子がもう『今日』しか生きられないことだけが原因ではないだろう。由子の反応に、寂しいと思ってしまうのだ。二人で歩いていて、由子は何を考えているのか。そんなことばかりを考えてしまう。
「西田、今日どうしたんだ?」俺が話す前に、由子が話しかけてきた。「インターホンといい、さっきの話といい、いつもはしないことだ。もし何か言いたいことがあるのなら、はっきり言ってくれ」
心に突き刺さる感覚がした。唇を噛み締めないと、涙が滲んできそうだった。
後悔した。何故あの時、あんなことをしてしまったのかと。あんなことを決意してしまったのかと。
あんなことを決意していなければ、由子はあんなことにならなかった。
始めの俺は、こうなってしまったことをどこか楽しんでいるようだった。それは、由子が死なないでまた会うことが出来た事もあるだろうし、こうやって『今日』が繰り返すようになって気分が高揚していたのだ。だが、これはそんな甘いものでななかった。これは明らかに、由子の為に起こっているものだ。由子のために、どれだけ有意義な『今日』を送っても、それらは無かったことになってしまう。
そんな『今日』に、意味はあるのか?
どうせ忘れてしまうのに、努力する意味はあるのか? それこそ水の泡になる。
もしあるとしたら、それは『今日』を作ることではない気がする。俺が意図して作ったものより、俺が由子とたくさんかかわることが大切だ。何故そんなことに、今気づいたのだろう。
言いたいことは、たくさんある。伝えたいこと、知らせたいこと。
「……言いたいことなんてない。昨日のテレビが面白くて、その余韻がまだ残っているだけだ」
いつもは話さない休み時間も、俺から積極的に話しかけた。由子は本を読みたそうだったが。家に帰っても読めると諦めたのか、引き出しの奥にしまった。
今まで、頭の中で浮かべてはいたけれど話さなかったことを、全て由子に話した。由子は俺の話を聞くだけで、ずっと頷いていた。
昼休みはもっと話せる。そう気分を高めて、俺は職員室へプリントを提出しに行った。もちろん、由子は教室に待機させている。余計な時間を取られることなく、教室へ戻った。
――教室に、由子はいなかった。
弁当も無かった。俺は焦って、通り過ぎようとした中西に、由子を見ていないかと問うた。「小倉さんなら、弁当を持ってどこか出て行ったよ? 先に屋上へ行ったんじゃないかな?」
俺は急いで、屋上へ向かった。
また、落ちているかもしれない。扉を開けても、由子がいないかもしれない。
階段を一段飛ばしで駆け上がり、扉を開ける。
由子はいた。あれは確かに、由子の後ろ姿だった。だが由子の手は、柵を握っていた。俺はまた、無意識に叫んでいた。
どうか止めて欲しい。飛び降りないでほしい。柵を掴んでいるのは、きっと景色をみる為だ。飛び降りる為なんかじゃない。
「西田」由子が俺を呼ぶ。ゆっくりと振り返った由子の表情を見て、俺は状況を把握出来なくなった。「今日で、さいごにしよう」
由子は、泣いていた。