拾壱
体育は今回も中西と組み、昼食はさっさと食べて図書室に行った。出来るだけ由子と一緒にいない様に、俺は辛かったが、そうした。太田はあれから、目を合わさないどころかすれ違う事さえ拒否している。見られることが無いはずなのに、まるで睨まれているように思えるのである。いつもの様に笑っているようであったが、今だけは、その裏に隠れている感情を読み取ることが出来た。
由子にはやはり怪しまれた。怪しまないほうが可笑しいだろう。だが、由子はその理由を問おうとはしなかった。何もしないのならば聞いてくれば良いことだが、それをしてこない。俺にとっては、ボロが出なくて良いのだが、その分胸が痛くなった。
何度も何度も、由子の為だと思った。そう思って、乗り切るのである。
もちろん、今日が終わるぎりぎりまで由子を避け続ける。だから、今日は由子と帰らない。
俺が図書室へ行こうとした時、由子が言った。「西田、私も――」「悪い由子、先に帰ってくれ」由子の顔など、横目で見る事しか出来なかった。あの後、由子が何を言おうとしたのか知らない。考えたくなかった。そうすれば、少しでも期待してしまう自分がいるかもしれないから。
「……。うん、分かった。じゃあな、西田」
「ああ、気を付けて帰れよ」
去りゆく由子の後ろ姿が、いつもより小さく見えた。
図書室に向かいながら、滝澤が話しかけてきた。
「小倉さんの事、本当にいいの?」
「何がだ?」
普段あまり話さない滝澤と戸惑うことなく話せるのは、『今日』のうちに話したことがあったからか、それとも俺が変わろうと思ったからか。
滝澤は足元を見て、その後に言った。「いつも、二人で帰っているからね。委員会の為にわざわざ一人で帰るのは寂しいだろうなって思ってね。今からでも遅くなかったら、図書室で待っていてもらっても良いと思うけど」
「別にいいよ」滝澤の優しさだが、今は受け取ることが出来ない。「ずっと一緒にいたら、誰かと仲良くする機会がなくなるだろう。……それに、もう子供じゃないからな」
滝澤は小さく、何度もうなずいて俺から顔を逸らした。
俺は、本当にそんな事を思っているのだろうか。ただの言い訳ではないだろうか。自分が放った言葉なのに、まるで別人が言ってしまったような、そんな感覚。本当に俺がそう思っているのなら、俺は、きっとその言葉を俺自身に伝えているのだと思う。そう思えてしまって仕方がない。
「……西田くんはさ、小倉さんの事が好きなんじゃないの?」
滝澤は、そんなことを唐突に聞いてきた。俺は一瞬、その言葉の意味を理解出来なくて聞き返してしまった。「だからね、西田くんは小倉さんの事が――」「あ、分かっている、聞こえていたから。言わなくてもいいよ」
聞き返した直後に意味を理解した俺は、慌てて滝澤の言葉を止めた。滝澤が、そんなことを問うてくるとは思わなかった。確かに、俺らの事情を知らない、特に新入生は付き合っていると噂を立てることが多くあった。だからこそ、事情を知っている滝澤がそんなことを言ってくるとは思わなくて、驚いたのである。
「俺と由子は、あまり話せる奴がいないから、一緒にいるだけだ。恋愛感情があって一緒にいる訳ではない。知っているだろう」問うと、口元に手を当てて頷いた。「だったら、何故そんなことを」
「西田くんを見ていたら分かるよ」
滝澤は図書室の扉を開けた。
図書室に着いた俺らは、早速委員会を始めた。話を聞いている間、滝澤がそう思った理由を考えていた。先程の滝澤の言い方では、まるで本当に俺が由子の事を好きであるかのようであった。誰かを恋愛対象としてみた事のない俺には、『好きになる』ということがよく分からない。家族の事は家族として好きだが、それは女子を好きになる事とは異なる。だから俺には、どんなものが恋なのか、まだ理解していない。
前と同じ本を取りに行く。由子は、あの席に座っていた。本物の様に浮かび上がる由子は、偽物だ。
「西田くん、もしかしてその本について書くの?」
声を掛けてきたのは、やはり滝澤だった。
以前と少し違う展開だが、声を掛けてくれることは変わらないようだ。今回の方が話しやすかった、ということもあるだろうが。
「ああ。面白いよな」
「うん。こんな面白い本が端に置かれているなんて、ちょっと不思議に思ってる。図書委員長としてみんなに知ってもらいたいなあって思ってたんだ。西田くんも読んでいたなんて」
「意外か?」
少し苛めるようにして言ってみた。いつもなら心の中で思うだけなのだが、それでは会話が進まない。いつもは話すことを避けていたが、今は面と向き合って、しっかりと話せるようになることが先決だ。由子は何もしなくても馴染めるから、由子の事を気にする必要はない。
「ううん、そんな事……」顔の前で両手を振った。だが、視線を逸らして、「……いや、うん。ちょっと意外だった」と訂正した。やはりか。
「小倉さんが本を読んでいる所は見たことあるけど、西田くんが読んでいる所は見たことないから」
確かに、俺は学校では本を読まない。だからと言って、家で読むのかと聞かれれば読まない。時々由子の本を借りて読むことはあるが、数ページ読むと眠たくなってくるのだ。
だが、その本は違った。暇つぶしにと手に取った本は、眠気よりも次のページへと誘うのだ。
そのことを伝えると、滝澤は笑った。「本を読んで眠たくなる人なんて本当にいるんだね、漫画の中だけかと思ってたのに」
本ではなく、勉強をすると眠たくなるという人もいる。それと同じようなものだから、本を読んで眠たくなるという現象は確かに起こる。実際、俺がそうだ。
席に戻り、この本の紹介文を考える。
紙に向かいながら、何度か首を捻った。何となく、由子がいた気がした。
チャイムの音とほぼ同時に委員会は終了した。「じゃあ、書けている人はここに出してください。十分前になったらもっていくから、それまでに書けなかった人は明日、三谷先生に出してください」
俺はまだ書けていない。前回はすらすらと書けたのだが。
皆は書けたようで、滝澤に紹介文を渡していく。俺は少し焦ってペンを早く動かすが、焦って文が出てこない。
「西田くん、どう?」
「悪い、もうすぐ書ける」
あと二行で完成だ。滝澤は俺の前に座り様子を見ているが、そんなことを気にしている訳にはいかない。
静かな図書室は、誰も居ないようだった。外から聞こえてくる部活動をする生徒の声とボールの音。予鈴が鳴ったにもかかわらず、まだ続けているようだ。
ようやく完成した用紙を滝澤に渡す。「待っていてくれてありがとう」
滝澤は微笑んで、「ううんいいよ。西田くん頑張ってくれているから」と言ってくれた。そう言ってくれると、書いた甲斐があると思えて助かる。
図書室を出た俺たちは、鍵を返すために職員室へ向かう。滝澤には、待たせてしまったから帰っていいと言ったのだが、滝澤からの押しが強く一緒に職員室に向かう事になった。滝澤はクラスの中心にいるだけあって、話し上手で俺に話しかけてきてくれた。
「西田くんて、運命、信じてる?」
突然、そんな質問を投げかけた。
運命とは、自分の定められた道筋である。どうしても、それからは逃れることが出来ないというもの。
「……運命は、無いと思う」間を開けてまた言う。「運命って、自分がどんな選択をしても、それが運命だから、って言える。俺にはそれが、現実逃避にしか聞こえないんだ。だから、運命はあるとは言いたくない」
そういうと、滝澤は「私も同じ意見だなぁ」と言った。「後から考えれば、もしかしたら、あそこでこっちを選んでここでそっちを選んだのは、そういう定めだったからかもしれない、なんてことは考えると思う。けど、その時に自分が決めた事は、運命に従おうと思って決めた事じゃないから。私も、運命はあるって言いたくないなぁ」
滝澤の言う事に、俺は大きく頷いていた。自分が決めた事が運命なのならば、あとから運命に責任転嫁することが出来るのだ。あの時あの選択をして間違いを犯してしまったが、それは運命のせいだから仕方がない。そんな事を言うのは惨めだ。自分で決めた事を都合よく責任転嫁などしたくない。
「だけどね、自分が生まれる前から定められている運命は変えようがないと思うの」
「……例えば?」
唇を尖らせて悩み、首を捻りながら言った。「自分では決めることの出来ないようなこと。例えば、お姉ちゃんやお兄ちゃんがいる、とか、幼馴染がいる、とか。家が近かったら自然と一緒に遊ぶようになるし、幼馴染になるのは当然じゃないかな。西田くんと小倉さんもそうだと思うよ。自分では決めることが出来ない運命。例え仲が良くなくても、近所の人として接することはあるだろうし」
俺に姉がいることも、由子が幼馴染であることも、俺が決めることの出来ない運命なのならば、由子はどうなるんだ? あれは運命か、それとも非運命か。もし非運命ならば、由子は俺の選択次第で助かるということになる。今回の選択で、由子を助けることは出来るのだろうか。
もし今回の選択で、由子を逆に苦しめることとなっていたら?
俺は由子の為だと思ってだけ行動していた。由子の気持ちなんて、微塵も考えていなかった。
途端に俺は、由子に会いたくなった。もし俺のいない下校中に事故に遭っていたら、不審者に誘拐されていたら。不安ばかりが押し寄せてきていた。
「……ねえ、西田くん」歩く速度が速くなる。「西田くん?」速く職員室に鍵を返して、それぞれの紹介文を三谷先生に渡して、それから……。
「西田くん!」
突然、現実に連れ去られたような感覚がした。だがそれは勘違いで、俺は連れ去られたのではなく、戻されたのである。
進んでいたはずの足が止まっている。そして、手首からは滝澤の温かさが伝わってきている。
「何だ?」
「……西田くんは、西田くんは本当に、小倉さんの事が好きじゃないの?」
俺は早く帰路につきたかった。だから、本当かどうかわからない言葉を放ってしまった。
「好きだ、由子の事は大好きだ」
俺はそれだけ告げると、手を振り払い、背中を向けた。「悪い、先に帰る」とだけ付け加えて。俺はあの言葉を放った途端に滝澤の顔がいつもと違ったように見えた。だが俺にはそんなことよりも、由子の方が気になっていた。
好きなんて感情、俺にはまだ分からない。恋愛なんて、面倒なものとしか考えた事無かった。誰かを好きになることは、そんなに大切な事なのだろうか。それは、義務なのだろうか。必ずしなければならない事だろうか。
そんなことないと、今俺に誰かが言ってくれるのならば、俺は好きという感情を放棄する。放棄してまで俺は、由子に会いたいからである。
踵を踏んだまま校門に向かって走る。校門に、誰かがいるのが見えた。
――由子だ。
俺はいつの間にか、その名を叫んでいた。何故叫んだのか分からない。声が出来たのだ。
俺の声に気付いて振り返ったのは、紛れもなく由子だった。まさか、あの後ずっとそこで待っていたのか? 誰の為かと期待してよいのだろうか。
ふと、視界の隅に何かが入り込んだ。坂を上ってくる、白いトラックだ。
時間が進むのが、ゆっくりになった。トラックが遅い。由子は、本当に止まっているようだった。
喉が詰まっているように、声が出なかった。
トラックは確かに、由子の方に向かっている。
声が出ない。声が出ない。声が出ない。
「由子っ!」
耳が痛いほど、辺りの声が急にはっきり聞こえ出した。俺は重たくなっていた足を踏み出し、トラックは本来の速度で、由子目掛けで進みだす。
その後由子がどうなったか、俺がこの目で見る事は無かった。