玖
「そういえば西田。なんで小倉はお前の事を名字で呼んでいるんだ?」
太田の隣に寄った俺に、そう問いかけてきた。
確かに、幼馴染である由子が俺の事を名字で呼んでいるのか、母や姉に問われたことがあった。それほど不思議な事だろうかと考えた時期はあったが、幼い頃からずっと一緒にいるはずなのに名字で呼ばれるのは確かに可笑しい。だが、由子は小学校に入る前から俺の事を「西田」と呼んでいた。
詳しい理由は分からない。これから太田に話すことは、親から聞いたことだ。
「俺、下の名前が一朗だろ。俺自身は覚えていないんだけど、この名前で近所の子にからかわれていたらしい」
「からかうって、どんな風に?」
「『一朗って、普通の名前だな』『ホームラン打ってみろよ』『お前の名前、学校で見たぞ。見本でな』……こんな感じ」
太田は「ガキだな」と吐き捨てた。共感してくれて嬉しいはずなのだが、俺はその時の事を覚えていないため、あまり嬉しくない。
「その事を由子は聞いていたらしいんだ。だから、突然『お前の事、西田って呼ぶ』って言い出したんだ。多分、それからだと思う」
今から思えば、どうして由子がそんな気を遣ってくれたのか分からない。まだ小学生にもなっていない頃の話だ。そんな頃から由子は、人の気持ちを大人の様に察することが出来たというのだろうか。
話し終えると、太田はバスケットボールを地面に突きはじめた。特有の音が鳴る。ボールの中で響いている音が、外に漏れだしている様な。
「……小倉って、案外優しいんだな」ボールを突きながら言った。「ほら、小倉ってほとんど話さないだろ? ただの口下手で話さないだけなんだろうけど、あんまり話さないと感情があるかどうか分かんねぇんだよ。だから、その話を聞いて安心したよ」
太田は軽く笑って見せた。
前にも、同じ様な事を言われた気がする。太田の中で俺や由子の印象が変わっていくごとに、俺の中での太田の印象も変わっていく。
太田は、こんな見た目だしこんな口調だから、同じように中身も、怖くて、とても男らしくて、そこらの人とは違う考え方をしているのではと思っていた。他の人が考え無い様な、恐ろしいことを考えているのではないかと。
だが、それは相手を客観的に判断していて、とても失礼であった。だけど、太田は確かに他の人とは違う考えを持っていた。それは、本人が見た目で判断されたことがあるから生まれた考えではないだろうか。
「……太田は、人をしっかりと見ているんだな」
ボールを突く手が止まった。太田の足に当たり、そのまま扉まで転がった。何か悪い事でも言ってしまっただろうかと思ったが、続けた。
「…………俺や由子のことを知って、ちゃんと安心してくれた。体育の時、ロボットみたいだと思っていたけれど、ちゃんと動けるんだと知って、安心してくれた。さっき、由子の事を話して、由子の学校では見せない一面を知ってまた、安心してくれた」俺は少し戸惑ったが、太田の方を見た。「それって、つまり……心配してくれていたってことなんだろ?」
太田は地面を見て、何も言わない。
しっかりと伝えられていただろうか。こんなに相手に伝えたいと思ったのは、久しぶりである。もしかしたら、初めてだったかもしれない。
俺は太田の見た目に捕らわれていたのである。もしかしたら小和田は、太田のこの部分を知っていたのかもしれない。失礼なことを言うが、それは相手の事を思っての言動なのかもしれない。
小学生のころ、この目つきのせいで低学年に泣かれたことがあった。人を見た目で判断されて困った事があるのに、その気持ちを理解出来ずに俺は、太田を見た目で判断してしまった。これは、俺の学習能力の無さが原因だ。
いつまで待っても、太田は言葉を返そうとしない。もしかしたら、このままこの時間が終わってしまうのではないだろうか。だが、太田がもったいぶらせるとは考えにくい。やはり、太田の機嫌を損ねてしまったのだろうか。
「……別に、心配なんてしてねぇよ」
呟くように言った言葉だが、俺にははっきりと聞き取れた。
太田は踏み出すと、転がったボールに近づく。
その言葉が、本心であるとは信じられなかった。それよりも、信じたくなかった。どこかで、寂しいと思った。
太田が向こうで、何かを言った気がした。俺は太田の方へ顔を向けたが、何かを言った気配はなかった。
「おい、聞いてたのか?」
「……あ、ごめん。聞いていない」
やはり、何かを言っていたようだ。聞き取れなくて、余計機嫌を損ねてしまったのだろうか。
太田は顔をしかめると、「一回だけだからな」と言って続けた。
「……やっぱり嘘だっつったんだよ」
え、と口には出さなかったが、内心驚いている。
やはり、太田は心配してくれていたのだ。二度も安心したという言葉を聞いて、心配していないとなると、じゃあどうして安心したんだとまた疑問が出てくる。
俺が驚いたのは、その事ではない。太田が、あの太田が少し照れたように言ったことである。俺の見間違いだろうか。太田が照れるとは考えにくいが、照れても可笑しくはない展開だった。
あの太田が、照れた?
これもまた、俺の中での太田の印象が変わる一つの要因となった。
照れたことを隠すように、太田は別の話題を振ってきた。
「西田は、いつから『今日』を繰り返しているんだ?」
辺りの空気が、一瞬にして変わった。話の大きさが、ぐんと大きくなったのだ。太田が照れていたかもしれない、などという話などどうでも良くなってしまったかのようだ。
いつから、と問われては、答えは一つしかない。『今日』からだ。
「……質問が可笑しかったな。お前が二度目の『今日』の朝に目を覚ましたのは、小倉が落ちた後か?」
由子が、落ちた後……?
違う。俺は確かに、由子が死んだ日、その日を最後まで過ごした。由子が落ちた後に朝が来た時は、三回目の『今日』が来た。
「違う。その日は、最後まで過ごした」
「……じゃあ、眠って起きたら、終わったはずの『今日』が来ていたのか?」
「ああ」
ボールを拾うと、また突きはじめた。
太田も、俺と同じ時から『今日』が繰り返し始めたのだろうか。……待て。どうして太田まで、『今日』が繰り返しているんだ? 俺だけかと思っていたが太田までとなると、他にも繰り返している人がいるのではないか? そもそも、繰り返している人――俺と太田の共通点は何だ?
「……太田――」
「なあ西田」
俺の言葉を遮って、太田が言った。そして、ボールをパスしてきた。反射でそれを受け取ると、部活をしていた頃を懐かしく思った。この匂い、この感触。
太田を見ると、指を二回、前後に動かした。
懐かしい。二年生の頃、こんな事があった。練習試合をしていた時、相手チームに太田がいた。その時は意識せずに、ただボールを追いかけシュートすることだけを意識していた。相手チームに誰がいたかなんて、気にも留めなかった。
太田を誰もマークしておらず、パスされたボールを太田はシュートしようとした。ここから入れば、確実にスリーポイントである。時間も残りわずか。俺以外の仲間は負けを認めたように、太田の邪魔をしようとはしなかった。
太田の手から少しボールが離れた、その隙を見て、俺はボールを奪った。奪い返そうとする太田の腕を避け、そのまま相手ゴールにレイアップで入れた。俺の周りに相手チームは誰一人いなかった。
これが練習だからといって、手は抜きたくなかった。それ以前に、顧問に叱られるのが怖かったというのがある。あのゴールのおかげで、顧問に怒られずに済んだ。
部活を終え、体育館を出ようとした時、ボールの跳ねる音がした。振り返ると、太田がボールを持って立っていた。そして、指を前後に二回動かした。次は負けねぇ、そう言われている様な気がした。
「二年の時の続き、しようぜ」
親指を立て、右を差した。そこには、バスケットゴールが置かれていた。屋上が解禁されてからあるのは知っていたが、使っている者は見たことない。俺はあっちにゴールしろ、というわけだ。となると、太田は反対側にゴールをする。
久しぶりで動けるだろうか。体は鈍っているはずだ。スポーツ専攻のある高校を受けようとしている太田とは、体力の衰え方が違うだろう。そうしてでも、太田は俺に勝ちたいのか。手加減を嫌う太田に、手加減をするわけにはいかない。
「……一回だけだ」
俺は学ランを脱ぎ、端に寄せた。
ドリブルをすると、太田はすかさず俺の前に駆け寄ってきた。左右に揺れ、隙を見て太田をすり抜ける。そしてレイアップシュート。
三ヶ月やっていなくとも、体は覚えていたようだ。特に意識せずに、レイアップシュートをこなすことが出来た。
ゴールから落ちてきたボールを太田が取った。左右に揺れられるも、体が思い通りに動く。太田のボールを奪うと、またシュートした。
「腕は落ちてねぇみたいだな」
転がるボールを拾うと、太田はスリーポイントシュートを決めた。あの時、俺が邪魔をしなければ太田は確実にシュートを決めていた。太田のシュート率は高い。
今度はお前の番だ、そう言うようにボールを投げてきた。入るだろうか。スリーポイントは練習中でも挑戦したことが無い。ボールの形を捉え、額まで上げる。そして、ゴールめがけて腕を伸ばした。ボールはゴールを一周すると壁にぶつかり、ネットを揺らすことなく地面に落ちてしまった。
やはり、入らなかったか。
そのボールに太田が反応し、動くことの出来なかった俺の横を通り抜け、ゴールにシュートした。背後で、ボールが地面に落ちる音がした。
太田が俺の肩を叩く。
「四対五で、俺の勝ちだ」
俺は何もせず、そのまま立ち尽くした。勝ち負けなんて、どうでも良かった。久しぶりにバスケが出来れば、そんな風に軽く考えていたけれど、本心は違ったのかもしれない。
太田は腰に巻いていた学ランを投げ捨て、屋上からの景色を眺めている。
「もしさ」太田はまた、唐突に質問を投げつけてきた。「大切な奴がここから落ちそうになっていたら、お前はどうする?」
その言葉に俺は、太田の背中を見つめる。
太田は、由子が落ちた事を言っているのだろうか。
きっとそうだ。『今日』が繰り返しているのなら、太田も知っている。由子が、転落死してしまったことを。
もし、もし由子がここから落ちそうになっていたら、俺は……。
「俺は、俺が死んででもそいつを助ける」言ったのは俺ではなく、太田だ。「それくらい、俺はそいつが好きなんだ」
「……それは、小和田の事か?」
後悔して思う、俺は直球すぎた。考える事も無く、ただ口にしたいことを言ってしまった。今度こそ太田の機嫌を損ねなければ良いのだが。
「…………は?」
予想通りの反応である。突然そんな事を言われれば、こうなってしまうのも可笑しくない。
「あ、いや。……違ったら別にいいんだけど。何となく、そんな感じがして。学校だし、な……」
これは、言い訳というのだろうか。それに似ているような気がする。
振り返った太田は、空を仰いだ。薄らと雲が浮かび、冬の訪れを感じさせる空だ。冬まで時間はあるが、冬になれば俺らは受験で忙しくなるだろう。今日の空は、そんな感じだ。何度も『今日』を送っているが、こんな空をしていたのか。
「………………だったら悪いかよ」
太田はそれを、吐き捨てるように言った。しかき、吐き捨てられたとは思えないほど、どこか優しさを纏っていた。
太田には、大切な人がいる。家族よりも大切な人が。まだ中学生だけど、中学生だからまだ早いというわけではない。大切な人は、いつでも近くにいるはずだ。近くにいてくれる人こそ、自分にとって大切な人だ。どこかへ去ってしまう人はきっと、自分を不幸にしてしまう人。
俺の場合、大切な人はやはり家族か。……いや、由子も入るだろう。由子は幼い頃からずっと一緒で、俺から離れたりはしなかった。ずっと近くにいてくれた。俺の気持ちを察してくれて、俺が傷つかないために呼び方まで変えてくれた。
無愛想で何を考えているのか分からないやつだけど、ちゃんと感情はあって、相手の事を考えることが出来る。そんな由子を、俺は、凄い奴だと思う。
俺の中で由子が、家族よりも大切になる日は来るのだろうか。
ずっと一緒にいれば、太田が小和田を本気で好きになるように、俺も、誰かを本気で好きになる日は来るのだろうか。
「なあ西田。お前なら、どうする?」
先ほどの質問に答えていなかったことを思い出す。
「俺は……動けないかもしれない」拳を握る。「太田みたいに、俺が死んででも助けるなんてこと、出来ない」
「……ま、動けなかったら何にも出来ねぇからな」
俺がそう思ったのは、体育の時のことがあったからだ。クラスメイトに声を掛ければ良い事を、俺はすぐに熟すことが出来なかった。頭の中では出来ても、それを実行する能力が乏しかったのだ。
そんなことがあったのに、目の前で緊急事態が起きていて動けるだろうか。無意識に動けるかもしれない。だが、それは可能性の話だ。確定ではない。
自分の弱い部分を知るのは簡単だ。だが、強い部分を知るのにはそれをする必要がある。してみないと分からない。
あの時、由子が死んだ時、俺があそこにいたら、どんな行動をとっていただろうか。落下することを止めることは出来ただろうか。そうしたら、『今日』が繰り返すことなく、俺は由子の隣で平穏な毎日を過ごせていたのだろうか。
そもそも太田は、この繰り返しについてどう思っているのだろうか。あの場に俺がいたら、由子を助けることが出来たのかもしれない。由子が死んだ半分の要因は、俺がその場にいなかったことかもしれない。俺がいれば、由子を助けることが出来たかもしれない。太田は、俺のせいだと思っているのだろうか。
「……なあ太田」
「何だ」
「その……太田はこのくりか、え……――」
突然、俺の体が無意識に動いた。歩くのではなく走って、手を伸ばした先には、太田がいた。言葉を放つ余裕さえなかった。
太田が振り返ると同時に、肩に触れた。太田は驚いて俺を見る。何故か、俺の呼吸は乱れていた。この距離を走っただけで。
「どうした西田、何かあったか?」
「……いや、その……太田が、落ちるんじゃないかと思って……」
「このタイミングでか? 何で?」
俺は呼吸を整え、落ち着いてからまた言った。
「太田が、柵を握っていたのが見えたから、何となく……」
何故柵を握っていただけで落ちると考えたのか分からない。理由を考えるより先に、体が動いていたのだから仕方がない。
突然、太田は笑い出した。
「おいおい西田。柵を握ってたって理由だけで落ちるって考えるなんて、お前は心配性か? それとも……」太田は肩に置かれていた俺の手首を握った。「小倉の事があったからか?」
俺にだって理由は分からない。だけど、太田の言うとおりだと思う。由子が落ちたことがあったから、俺は太田が落ちるのではないかと勘違いしてしまったのだろう。
俺は言葉も出せず、顔を伏せた。
「……責めるのか」
「あ? 何で?」
「もしあの時……俺が由子の隣にいて、落下を防ぐことが出来たら、『今日』が繰り返す事は無かったはずだ。俺だけならまだしも、太田まで巻き込まれて……迷惑だとか、思っているんだろ?」
太田の顔を見ることが出来ない。
頷かれでもしたら、俺は太田とどう接すれば良いのか。おそらく太田とはあと半年ほどしか一緒にいる事は無いだろう。だが、この時間の事は忘れない。由子の命日が近づくにつれて、太田とのことも思い出すだろう。
どうか、頷かないでほしい。俺が言い出したことであっても、どうか嘘であってほしい。
「『今日』が繰り返しているのは、誰のせいでもない」俺は顔を上げた。「西田、『今日』が繰り返していることを『誰かのせい』にするんじゃなくて、『誰かのため』にするんだよ」
「誰かのため……」
「もし繰り返さなかったら、小倉は死んでいた。あの転落を境に、もう小倉の姿を見る事は無いんだ。だけど、『今日』が繰り返すことで、死んだはずの小倉に会えるんだ。もしかしたら、転落を防ぐことが出来るかもしれない。『今日』が繰り返しているのは、小倉を救うため、ととらえることも出来るんじゃないのか?」
太田の考えは、尤もだ。むしろ、どうして俺はそのような考えをすることが出来なかったのだろうか。
「そうか……」
「だけど、まだ小倉を救えることが確定なわけではない」俺の手首から、太田の手が離れた。「小倉は一度死んだ。常識だが、一度死んでしまった者は生き返ることは出来ない。小倉は一度死んだから、いくら転落を阻止したって、明日が来れば死んだことになっているかもしれない」
「じゃあ、由子は助けられないのか?」
「その可能性の方が高い」
期待してしまった分、ため息が大きくなる。
一度死んでしまった人間は、確かに生き返らない。だが、由子だけ特別に生き返ってはくれないだろうか、と非現実的な事を考えてしまう。神様でも仏様でも、誰でもいいから、由子を助けてはくれないのだろうか。
「でも、そこですぐに諦めるなよ。俺は可能性の話をしただけだ。お前が努力すれば、小倉のいる『明日』を迎えることができるかもしれない。俺は信じている」
太田は学ランを身に着け出した。
「俺は教室に戻る。西田は、どうする?」
「……ここにいる」
そうか、と頷き、俺の横を通り過ぎる。その時に吹いた風が、異様に冷たかった。
太田の足音だけが大きく聞こえる。
「……最後に言っておく」扉が開く音の後に、太田の声がした。俺はゆっくりと振り返る。「お前が思っている『小倉の事』と、俺が思っている『小倉の事』は、多分違うからな」
「え?」
由子が落ちた事を言っているのではないのか?
「そこで頭を冷やして、思い出してみるんだな」
勢いよく扉を閉めた。曇りガラスに浮かび上がる太田の影は、やはりぼやけていた。
太田は『小倉の事』を、何を考えながら話していたんだ? 由子が落ちた事ではなかったのか?
転がって柵にもたれているバスケットボールに目がいった。それを拾い上げると、フリーシュートでゴールを狙う。だが、何度狙ってもゴールに入る事は無かった。
そして、何度考えても何かを思い出すことは無かった。