零
階段を踏みしめるように上がる。
何故足取りが重たいのか、それは先ほど職員室に行っていたせいだろう。入る前は重たくなかったのに、出た後に重たくなってしまったのにはちゃんとした理由がある。
今日が期限のプリントを担任に提出するために向かった職員室。そこで、不幸にも目当ての先生の隣の席にいた数学教師に声を掛けられたのだ。
正直、嫌な予感しかしなかった。
低い声で俺の名を呼んだ教師の目は、いつもより少し鋭く感じた。
「受験生という自覚はあるのか?」「成績は悪くはないが」「皆へらへらしているが、陰で頑張っているんだ」「あとで後悔しても、時間が戻ったりはしないからな」「そうだ、小倉とは付き合っているのか?」
数学教師なのに、国語教師のようなことを言う。最後に自分の興味を突っ込んでくるところはよく生徒に笑われている。
俺はただ頷いていた。聞いていただけマシだと思ってほしい。
自覚? 正直それほどない。
成績? 自分で言うのもなんだが、それほど頑張らなくても点数は取れている。
陰で頑張っている? そんなのどうでもいい。
時間が戻りはしない? ……そんなこと、誰もが知っている。
あの先生は少し熱い。熱血、となると言いすぎになるが、とにかくほかの先生より『受験』に力を入れている。担任でもないのにあれほど言うところを見ると、過去に何かあったのではと思ってしまう。
本当は数分で終わるはずだったのに、数学教師のせいで無駄な時間を食ってしまった。先生からすれば、それは全く無駄ではなく、これを機に授業を真面目に受けるようになってほしいのだろう。俺は今、時間よりも飯を食いたいのに。
誰かのせいで重たくなった足を動かして、とりあえず二階へ着いたが、何やら騒がしい。昼食中なのだから騒がしいのはいつもの事なのだが、いつもとは異なるざわめきが聞こえる。
「おい、下におりよーぜ!」「やべえって、まじで」「ちょ、先生呼んで来い!」
そう言って同じクラスの男子が俺の隣を勢いよく駆け下りていく。
何か珍しいものが運動場にでも出現したのだろうか。山に隣接するこの中学校で、動物が出てくることは多々ある。猿の集団や猪なんて、それほど珍しいものじゃない。騒ぎからすると、今度は熊でも出たのだろうか。
少し気になるところだが、俺はそれを無視してまた階段を上がる。去年まで解放されていなかった屋上が、今年から解禁された。中学校、高校の憧れといえば、やはり屋上。屋上で昼ご飯を食べたり、授業をさぼったり。ここの屋上のからの眺めでは、住んでいる街を一望できることはなく、ほとんどが緑溢れる自然だ。授業をさぼる事は無いが、昼ご飯を食べることはある。とは言っても、この時期になると冷たい風が吹くため、生徒の人数は減ってしまう。それに、わざわざ屋上に来るのも嫌になってしまって、教室で食べる生徒が多くなっているのが現状だ。
だからこそ、俺らにとっては好都合。誰もいない屋上で、二人で気を休ませて食べられる。
今日も俺は、幼馴染の由子と昼ご飯を食べる。
何故人がいたら気が休まらないか。想像すればわかる。俺らを恋人か何かと勘違いする生徒がいるからだ。数学の先生が言っていた『小倉』は由子の事だ。
屋上に着き、俺は扉を開ける。
だが、そこに由子の姿は無かった。確かに由子は一度ここへ来ていたのは分かる。由子と、俺の弁当が地面に置いてあったからだ。俺が由子に持って来てくれるよう頼んだ。由子は相変わらずで、「うん」と表情を変えずに、頷きもせずに言ったのを思い出す。
背後の下の方から、声が聞こえた。
俺は振り返り、視線を下げる。そこには、真っ黒な毛並みをした猫がいた。それほど大きくはないが、小さいというほどでもない。
俺は膝を曲げて、猫に話しかける。
「どこから入ってきたんだ?」
猫は俺の言葉に反応するように鳴く。うん、分かるわけがない。
俺は猫の頭をなでる。気持ちよさそうに喉をごろごろ鳴らす猫は、どことなく由子に似ている。
「ここで人を見なかったか?」
返事なのか、喉を大きく鳴らす。やはり、なにを言っているのか分からない。イエスかノーかも分からないのだから、会話すらできない。
猫を抱きかかえ、立ち上がる。
どこから入ってきたのか分からない猫。動物が運動場に出現するのだから、ありえないことでもないが、まさか校舎内に入ってくるとは、誰も想像しないだろう。非常階段から侵入してきたのだろうか。
それにしても、由子はどこへ行ってしまったのだろうか。トイレに行ったのなら、もうそろそろ帰ってきても良い時間帯なのだが。
校庭から先生たちの声が聞こえ、騒がしくなっている。俺は運動場を見た。だが、そこに皆が興味を示すような動物はいなかった。
――校庭か。
俺は猫の頭をなでる。
校庭なら、教室からもその様子は見える。もしかして、ここに来る途中に感じたざわめきは、校庭にある何かに反応していたからなのだろうか。それならば合点がいく。
俺は猫を抱きかかえたまま、転落防止用の柵に近づく。猫はそれに興味が無いのか、俺の腕から飛び降りた。猫は呑気に地面に寝転がり、日向ぼっこをし始める。
俺はそんな猫を余所に、顔を突き出した。
――見なければ良かった。
そう思ったのは、ソレが現実であると分かった後であった。
俺はソレから視線を外すことが出来なかった。
人が集まる、その隙間から見えたのは、人。それも、信じたくない人物。
頭からは血が出て、少し血だまりが出来ている。半開きになっている口。閉じた目。
崩れ落ちた俺は、尻もちをついた。
「ゆ、こ……?」