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おクルマの営業  作者: たんぴん
9/13

成果

 

 まだ昨日の余韻が残る身体からは、ふわふわした感覚が取り除けてはいない。

 幼なじみの千紗とは、社会人になる少しばかり前からは、あまり会ってはいなかった。お互いの就職活動や、新生活の準備もあると思い、気を使っていたのだろうか。俺はこれといった就職活動はしておらず、パチンコやパチスロの代打ちで日雇いで稼ごうと考えていたのだが。


「答えはすぐとか思ってないよ。焦ってるならもっと前に言ってるから」


 昨日の帰り際には、千紗からはそう言われた。

 俺は答えを出さなかった。


 そんなことと言うと些か不誠実だが、千紗よりまずは、今の仕事での過酷な生存競争に勝ち抜かねばならない。まともな社会人にならなければ、俺は千紗に甘えることになってしまうだろう。


 そう、俺は必死なのである。働いたら負けだとか、困ったら生活保護だとか甘えた思考をしてきた俺には、人生で初めての感情だった。

 英語も数学も化学も何一つ出来ず、大学で学んだ経済学など何一つ覚えていない。そんな惰眠を貪る俺にも出来ること、夢中になれる仕事がやっと見付かったのである。

 だが、休みは休み。休むのも仕事である。そもそも休日出勤や過剰労働を美徳だと考える人間は信用できない。メリハリが大事なのだ。そう思い残りの休日を満喫した。




 5月8日

 GWが明けても、俺は変わらず外回りを続けている。DMを投函した枚数は100枚をゆうに越えるだろう。もはや何枚投函したかわからない。車検対象リストを書いたノートも、2ページが丸々埋まるほどだった。

 気が遠くなる作業をひたすら続ける。


 そんな折に、とある地区を徘徊していると、携帯電話が鳴った。


 旭店からである。また谷部長が来ているのだろうか。そう思い電話に出る。


「榊原君。平川ですけど」


 営業の先輩である。


「あのさ、なんかハガキ見て来た言うとるおばちゃんが来とるけど戻ってこれるか?」


「は、はい! すぐ戻ります」


 心の中でガッツポーズをする。俺は小走りで旭店へ帰る。狭い路地裏に入り、大通りをショートカットして、最短経路で。この地域はもはや庭みたいなものだ。


 少し汗ばんだ身体のことなど気にも留めず、平川さんの所に行く。支店長はこちらを横目に捉えて複数回頷いていた。


「取り敢えずフロントの増田にまわしたから、話聞いてみ。今車検見積りやっとるわ」


「はい!」


 俺は事務所内を右往左往する。傍目から異様な光景なんだろうな。たかが車検見積り一つで。だが、俺にとっては大きな成果である。俺はフロントスタッフの増田さんの所に向かう。


 フロントスタッフとは、営業でもエンジニアでもない。営業からの入庫依頼に対し、各エンジニアへの作業割り当てやお客様に内容を説明しに行ったり、部品の発注なども行う。

 補足としては、エンジニア経験者が任されることは多いそうだが。


「増田さん」


「ああ、榊原か。あの奥に座ってるおばちゃんや。一緒に行くか」


 俺は頷いた。

 不思議と緊張はない。よくよく考えれば、あれだけ外回りをしてチャイムを押していれば、緊張もしなくなるものである。

 チャイムを押し、会社名と名前を言っただけで、「なんじゃお前! 二度と来るな!」と、お叱りを受けることもあったのだ。


 ある意味良い経験が出来たのだろうと、ポジティブに考えた。



 俺と増田さんはショールームへ入っていく。

 歳は50代後半だろうか、白髪混じりの女性が座っている。


「すいません。営業の榊原です。宜しくお願いいたします」


 俺は研修で教わった通りに名刺を手渡した。


「あらあら、おたくが榊原さんね。ポストに初々しいハガキが入ってたから来てみたんよ」


 それはそれはお優しいおばちゃんだった。

 増田さんがフォローに入る。


「あともう少しで見積り終わりますんで、もう暫くお待ちくださいね」


 女性は頷いた。

 俺は少しの間、世間話に興じた。まだ専門的なことはそこまで話せないことと、車検が獲得出来たとしても、今後自分がお客様第1号として、担当したいとの思いからだった。

 俺は不器用ながらも、話を続けた。息子さんが働き始めたときのこと、あと数年で定年退職となることなど。


 車とは全く以て、関係のない話を続けること約20分。増田さんがこちらへ歩いてきた。


「見積りがおわりました。交換しなければならない部品はないですが、冷却液やブレーキフルードは交換した方が良いでしょう」


「あらホンマかいな。できれば安く済ましたいんやけどねえ」


 増田さんは値段の話をし始めた。


「このような消耗部品は本当に変えた方がいいですよ。それに榊原君が毎日毎日外回りして、やっと来てくれた初めてのお客様です。榊原君の顔を立ててコミコミ¥83000でどうでしょう。ホンマに目一杯です」


 増田さんの言葉には、さすがに胸が熱くなった。

 その見積りには手書きで、オイル交換及びエレメント交換が無料であったり、明らかにおかしい値引き額が記入されていく。増田さんの御厚意には頭が上がらない。


「うーん。まあそこまでやってくれたし、榊原君もいい子やしここで車検通すわ」


「ありがとうございます! 今後の点検やその他諸々フォローします! 宜しくお願いします!」


 俺は嬉しさが爆発し、感情が振り切れていた。考えてみてほしい。毎日毎日朝の9時半過ぎから夕方の5時半頃まで歩き続け、手作りのDMを投函し続ける作業を。こんな喜びは生涯で味わったことのない達成感だった。


 増田さんが車検実施日を確定させ、代車の手配を行う。俺はその間女性に今後の連絡先を聞いた。

 俺は女性に深々と頭を下げて、車まで案内する。

 女性が退店する際は、支店長まで出て来てご挨拶をした。


「榊原君は本当に頑張っています。今後もご贔屓に宜しくお願いします」


 女性はさすがに気を使ったのか、軽い会釈をした。


 俺と増田さんは女性の車を、店舗入口まで案内をする。旭店は非常に交通量の多い通りに面しており、出るときは危険なのだ。

 俺は女性の車の前に立ち、手を翳して制止する。


 通りの信号が変わり、出られるタイミングで誘導した。


「どうぞ、オッケーです!」


 女性は左折して出る際に窓を開け、一言俺に話しかける。


「今日はおおきにな。ホンマ新しい息子が出来た気分や。また成長したとこ見してちょうだいね」


「はい。今日はありがとうございました。今後とも宜しくお願いします」


 俺の言葉に女性は会釈し、軽快なエンジン音を響かせて帰っていく。小型車ながら、小気味良く吹け上がる音を聞きながら、俺は目一杯の大声で、再度女性に感謝を伝えた。


「ありがとうございました!」


 俺は女性の車が見えなくなるまで、深く、長く頭を下げ続けた。



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