商談
七月のある日のこと。
「あーねむた」
「あら、アンタ。自分でおきるって珍しいやないの」
俺はリビングで煙草に火を付けた。
「は? アンタなにしてんねん!」
「早起きのご褒美にリビングで吸うとるんや、あかんのかい!」
母はキレながらも呆れて台所へ歩いていく。暫くすると朝飯を持って台所から出てきた。
俺は煙草を消して朝飯を素早く掻き込み、いつも通りおばあちゃんに挨拶をして会社へ向かった。
「おはようございます!」
「おす」
「おはよ」
いつもの日常であった。
俺はミーティングを終え、すぐに出て行こうと準備を進める。
ここ最近の支店長はやけに機嫌がいいな。怖いくらいに。
俺はいつも通りに外回りへ向かう。
本当にいつも通り。慣れたもんだ。
すると、とある一軒家の前に男性がいた。
つい先日DMを投函した家だ。
「おはようございます」
「ん? 誰です?」
「先日ポストに車検のことを投函した榊原です」
「ああー、君があの手紙の子かいな。偶然やなあ」
暫く家の前で談笑していた。
「今日暇やし店いこかな」
これは車検獲得来たか。
そう思い内心で笑っていた。チョロいもんよ。
三十分後に来店していただく運びとなった。
早速支店長へ報告する。
「本間か! 良かったなー榊原君」
俺はすぐさま商談ブースの確保を行う。
まあ平日にそんな必要もないのだけれども……
時間が経つのが長く感じる。
今か今かと逸る気持ちで一杯だ。このお客様を待つ感覚だけは慣れないものである。
すると、一台の黒い車が入ってきた。
さきほどのお客様の車である。年式は古く、ボディも凹みやキズが目立つ。
「いらっしゃいませ!」
俺は大きな声でお客様に駆け寄った。
お客様をショールームへご案内し、席に座る。
「ディーラーも雰囲気かわったなぁ」
「僕は一年目なのでそこはわからないですねえ」
そう言いながら、再度名刺を渡した。
そして車検の話をしようとした矢先のこと。
そのお客様が試乗車を眺めているではないか。
「乗ってみます?」
「ええんか?」
俺は頷いて支店長へ相談した。
「おお! まあ頑張ってみることやな。期待してるで、一台目」
そう、俺はまだ一台も売っていない。
フロントスタッフに車検見積りを、馬鹿みたいに高くするように伝えて、試乗車に向かった。
おじさんは2ドアクーペの『68』のボディをぐるっと一周する。
「ええなあ、これ」
やはり男のロマンなのだろうか。しかし、些か奥様方からは嫌がられそうではあるが。
早速試乗に入る。
免許証を確認し、事故を起こした際の取り決めを確認いただいてサインを貰った。
おじさんはロクハチの一速で五千回転まで回した。
「ああー気持ちいいのう」
慣れた手付きでシフトチェンジする。
やはり年配の方は、MT車の扱いには慣れているものなんだな。
付近をぐるっと一周し、店舗に帰って来た。
その頃には簡単な車検の見積りが出ていたようだ。
フロントスタッフの村田さんが説明にくる。
「あのですね、一通り見ただけでもこれだけ掛かりそうです。また、分解していって他の部品も交換が必要であれば更に掛かります」
見積り金額は十九万円。
フォグランプが割れていたり、タイヤの溝が1.6mmを切っていたりとズタボロである。
「高いなあ。まあオンボロやから覚悟はしてたけどさあ」
おじさんは諦めたような表情だ。
そして口を開く。
「ロクハチの見積りとってもろてええか?」
これは初の新車受注なるか?
俺は意気揚々と事務所のノートパソコンをとりに行き、商談に挑むのであった。