4. Dside
アコは目の前の状況を飲み込めずにいた。
「アコ!ちゃんと挨拶して!」
父親が注意すると、アコはやっと我に返ったようだ。
必死で言葉を探している様子だったが、アコには少し難しい問題のようだ。
まぁ、俺がこんな風に目の前に現れるとは思ってもみなかったのだろう。
しかし、アコの両親にとって俺たちは初対面なのだ。
これ以上アコからの言葉を待っていたら怪しまれる。
本当はもう少しアコの慌てている間抜けな姿を観察したかったが……。
「橘 正義です。これからお世話になります。」
俺は行儀よく挨拶をした。
アコの口から出たのは『どうも。』の一言だった。
まだ現状を理解していない様子だ。
何か適当に言うべきか。
だが、俺にはそこまでアコに気を遣う気にはなれない。
しばらくの沈黙の後、部屋の向こうからベルが鳴った。
アコの母親が音の鳴る方へと向かう。
母親はしばらく誰かと話をするとアコの父親を呼んだ。
アコの父親は申し訳なさそうに『ちょっと待っててもらえますか?』と言って呼ばれた方へと歩いていった。
ふたりきりになるとアコは何か言いたげな視線をこちらに向けた。
きっと、俺がアパートの住人になることが不満なのであろう。
アコは「なぜここにいるのか」といった表情で俺を睨みつける。
その姿が間抜けで笑えた。
俺が笑うとアコは不機嫌そうな表情を更に曇らせた。
アコの父親が戻ってきた。
俺は真剣な表情に戻り父親の方を見た。
何やら慌てている様子だ。
父親はアコに持っていたものを渡すと、チラリと時計を見た。
『あとは部屋に案内するだけだから』と、アコに何かを頼んでいるようだ。
父親は申し訳なさそうな表情でこちらを見る。
そして早口で
『ちょっと急ぎの用事が出来ましたので、あとはうちの娘がお部屋へご案内します。
こんな時にバタバタと申し訳ないですが、今後ともよろしくお願いします。』
と言って、すぐにアコの母親と出掛けて行った。
あっという間にふたりはいなくなり、この家には俺とアコだけが残された。
アコが書類に目をやる。
『橘・・・正義・・・せいぎ!?』
アコは俺の名前を見て驚いていた。
俺に名前があることが不思議だったのだろう。
だが、それは俺の名前ではない。
「タチバナ マサヨシ。この身体の持ち主の名前だ。」
俺は玄関へと向かう。
人間になると、家の出入りでは靴を脱いだり履いたりしなければならない。
これは面倒な動作だった。
靴を履いていると、背後からアコの声がする。
『それって、人間の命を奪ってアンタがここにいるってこと!?』
この声からすると、アコは怒っているようだった。
いちいち細かい説明をするのは好きではないが、名誉のために言う。
「その男は寿命で死んだんだ。俺がわざわざ下等な人間の命を奪ったりはしない。」
これは掟でもある。
俺たちから人間の命を奪うことは禁じられている。
過去に、気に入らないからと人間の命を奪った奴がいたが、そいつは掟を破ったことにより灰になったと聞いた。
だが、灰になっても俺たちは生きているという。
そいつは惨めな姿になりつつも存在し続けるということになるのだ。
俺はそんな運命を選ぶつもりはない。
俺は人間がこちらの世界へやってくるのをじっと待っている。
それは退屈なことでもあるが、回収を任されているのはそれなりに名誉なことでもあった。
アコはきっと自分の命を奪いに俺がやって来たと思っているのだろう。
だが、元々はアコが俺のところへやって来たのだ。
アコの憎しみと恨みを回収するために手を差しのべただけで、この女自体には興味はない。
「お前は自らの意志で死んだんだ、俺はそれを回収するだけだ。」
アコは驚いた表情を見せ胸に手を当てる。
そして、すぐに俺を睨みつけながら『自殺なんてしていない』と懲りもせず反論した。
その声は今まで悪態ついていた時の口調とは違い、弱々しいものだった。
浮かない顔をしている。
きっと自分が死んだ時の事でも思い返しているのだろう。
初めて会った時もそうだったが…こいつは思っていることが表情や態度に出やすい。
単純なのだ。
「お前、分かりやすいな。」
そう言うとアコは不機嫌そうな顔になったが、すぐに安堵の表情を浮かべて胸に当てていた手を下ろした。
本当に感情が表情に出やすい女だ。
胸に手を当てていたのもきっと、俺が心を読む能力があるとでも思ったのだろう。
「心を読まれるとでも思ったか?それも、お前のその手でふせげるとでも?」
そう言うと、アコはしまったというような顔をしたので、俺はたまらず笑い声を上げてしまった。
ひとしきり笑って外に出る。
部屋へと移動している間も可笑しくてたまらなかった。
アコの後について階段を上がる。
201号室。ここが俺の住処となる。
鍵が開くのを待っていると、アコの手が止まった。
何かに気付いたらしく、アコは俺の方へと顔を向ける。
きっとここの住人についてだろう。
アコは俺と関わっているからか、他の人間よりも異変に気付きやすいようだ。
俺は説明するのも面倒なので適当な笑顔を作って見せる。
アコはあきれた様子で部屋の鍵を開けた。
部屋に入ると、アコは辺りを見回し始める。
おれは黙ってその後についていく。
しばらく部屋の中を見て、アコは窓辺で足を止めた。
その窓からは太陽の光がたっぷりと注がれていた。
遠くに海が見える。
静かな時間をくれた、あの海だ。
くだらないこの世界だったが、俺はあの場所が気に入っていた。
とても静かで安らかな気持ちになれるのだ。
アコもその海への思い出がある様子で、じっと海を眺めていた。
その横顔を見ていると以前にもあったような懐かしさが込み上げてきた。
胸が痛むのを感じる。
人間の世界へとやってきてから、やたらとこの痛みを感じている。
この妙な感覚は何なのだろう?人間ってやつはいつもこんなに奇妙な感覚に襲われているのだろうか。
毎日のように何かに反応しては胸が痛む。
俺は一人になりたくてたまらなかった。
きっとアコのことだ。
このまま一緒にいれば色んなことを質問してくるに違いない。
「いつまでここにいるんだ?」
俺はそう言うと服を脱ぐフリをして見せた。
アコは慌てて部屋を出て行く。
その姿がまた可笑しくて声を出して笑った。
アコが去ってから、改めて部屋を見回した。
部屋には薄っぺらいカーテンと照明器具だけが残されていた。
生活に必要なものが何か分からない俺は、頭の中に流し込んだ情報から必要であろう製品をいくつか選んで記憶した。
想像以上に人間の生活が大変だと感じる。
それは俺にとって予定外のことだった。
カーテンを閉めるていると、アコが玄関から出てくるのが見えた。
アコはちらりとこちらを見て、すぐにどこかへと去って行く。
俺はそれを見送ると生活に必要なものを揃える為に出かける事にした。
財布の中には紙切れが数枚と少し厚みのあるカードが入っている。
そこには俺とは違った人物の顔が載っていた。
橘 正義だ。
アコは俺の姿を見ていたので、今までも橘 正義の姿を“俺”として見ていたはずだ。
だが、周りの人間たちから見たら、俺は“橘 正義”として映っている。
俺はそれが気に入らなかったので、ちょっとした細工をした。
写真を指でなぞり、橘 正義の顔から俺の顔へと変える。
この瞬間、出会った人間の中にある“橘 正義の容姿に関する情報”が完全に書き換えられたはずだ。
俺は小さな鏡に映りこんだ自分の姿を確認すると、受け取ったばかりの鍵を手にして部屋を出た。
記憶した“必要なものリスト”を思い浮かべながら買い物を終えると、途中にあった本屋に立ち寄る。
これから必要になるであろう情報も頭に流し込んでおこうと思ったからだ。
俺は適当な本を選んでは、それを手にして情報を記憶する。
ついでに、俺が興味を持つものだけではなく、女が好きそうな本を探す。
きっとリコと話す時に役立つだろう。
ぺらぺらと本のページを躍らせ、目に入る文字を記憶した。
本屋を出るとアコの声が聞こえてきた。
アコと話をしているのは…リコだろう。
ふたりの会話が俺のもとへと流れ込んでくる。
俺は記憶した声ならば、どんなに離れていても聞き取ることが出来る。
ただそれは自分のいた世界での話だ。
この世界では雑音が入る。
それでも、こうやってアコの声が耳に入るのならばここからはそう遠くないはずだ。
俺は声が聞こえる方角へと足を進めた。
タイミングを見計らってリコの前に姿を現そうと思っていたが…。
こうも順調に顔を合わすことができるとは。
今日のように人間らしい行動をしている時に偶然出会う方が自然な流れだろう。
そんな“人間らしい”行動で、リコの元へと向かった。
しばらく移動するとアコの姿が見えてきた。アコの存在は遠くからでも見つけることができる。
もちろん、俺が特殊な能力を持っているからというのもあるが、オーバーな動きがその存在を目立たせるのだ。
両手を天に向けてみたり、自分に当ててみたりと忙しい動きをしている。
いつ見ても忙しない。
それに比べて…リコは優しい笑みを浮かべながらアコと会話している。
落ち着きのない子供を見守る母親のようだ。
そんなリコの雰囲気が、この前とはどこか違うように思えた。
うまく説明できないが、何かが違うのだ。
俺が人間として得た瞳からリコをのぞいているからなのだろうか?
とても心地の良い輝きを放つリコの笑顔に、俺はしばらく見とれていた。
ふと、その場にアコとは違う何者かがいると気付く。
俺は最初、リコのあの優しい笑顔はアコに向けられているものだと思っていた。
だがそれはアコではなく、他の者に向けられた笑顔だったのだ。
一歩、また一歩とリコのもとへと近付く。
近くなれども雑音ばかりが気になりリコの声が届かない。
俺はその場に固まり、リコの視線の先にいる人物を凝視する。
その者の想いはあたりに満ち溢れ、リコを包み込んでいた。
それはリコを…“愛している”という想いだった。
そして、リコも――――
俺は……
俺は………!!!
握り締めた手は小刻みに震えている。
全身が今まで経験したことのない奇妙な感覚で覆われていた。
『また後でね!』
アコの声で我に返る。
その瞬間、俺はアコのもとへと移動していた。
どうやって移動したのか記憶にはない。
足を使ったのか、能力を使ったのか。
この世界でアコ以外の人間の前で能力を使うことは禁止されている。
だが、そんなことはどうでもいい。
「おい。」
声をかけると、アコはちらりとこちらを見てすぐにそっぽを向いた。
そして、明らかに今までの浮かれた様子が消えていくのが分かった。
『なによ。ストーカー?』
俺はその言葉の意味を頭の中で調べる。
「お前には興味がない。」
こんな状況でもアコの言葉を気にしている自分自身にも腹が立った。
「さっきの男はなんだ?」
胸のざわつきと、狂い出しそうな感情を抑え込む。
アコは一瞬なんのことか、と言った顔をしてから答えた。
『ああ、豊さんのこと?』
「豊?あいつは何者だ?」
すぐさま男の正体について質問する。
『え・・・?』
アコは少し間を置くと、黙ったまま歩き出した。
その姿を見て頭の芯が熱くなる。
俺はアコの腕を掴み、声を荒らげた。
「あの男はリコにとってどんな存在なのだ!?」
自分でも驚くくらい俺は冷静さを失っていた。
『・・・リコの、彼氏。』
アコは小さく返事をする。
彼氏……?
その意味を知り、また俺の中で怒りが込み上げてきた。
アコを掴んでいる手に力が入る。
このままこの腕を、いや、この女を破壊してやろうか。
どうせもう俺は人間になんてなれないのだ。
リコに愛する相手がいると知った以上、もうどうすることもできない。
この先、リコと結ばれることがないのなら今灰になろうが構わない。
その時だった。
頭の中で父上の声が響いた。
―――――早まるな。
我に返った俺はアコの腕から手を放し、その場から姿を消した。