3. Dside
アコの退院を陰で見送る。
まだ身体が馴染んでいない。
気を抜くと本当の俺のカラダだけが移動してしまう。
この身体の持ち主には『橘正義』という名があった。
そいつは目立たない行動を取っていたらしく、周りには知り合いらしき人物は見当たらなかった。
おかげで俺はスムーズに人間界へと溶け込むことが出来た。
もし知り合いがそばにいる場合は、記憶を操作しなければならない。
それはとても面倒な事だったので、この身体の持ち主の性格が有難かった。
半日ほど人間のように行動していると、身体が馴染んできた。
馴染む前は『橘正義』の身体だけを残して移動してしまうこともあったが、今ではそいつの身体ごと移動ができる。
歩くのが面倒になると、以前のように行動した。
なるべく人間として振る舞うようにと言われたが、すぐには難しい。
まだ俺は完全に人間になってはいない。
父上の話だと、人間になるにはいくつかの方法があるらしい。
教えていただいた方法はその中のひとつだという。
それは、人間と結ばれることだ。
リコを花嫁として迎え、結ばれることで俺は本当の人間になる。
俺の世界へリコを連れて行く事も考えたが、なぜかそれはしてはいけない気がした。
リコは人間として生きていなければ意味がないと感じたのだ。
俺が人間になると同時にアコの命も助かると聞いた。
だが、俺が人間になる前にアコが記憶を戻したらアコは死に、俺は悪魔のまま上に戻る事になる。
もし上に戻る事になったら、どうやってリコを守ればいいのだろうと考えた。
だが、アコのあの様子ではそう簡単に記憶が戻るとは思えない。
あんなにアコの命を喰らってやろうと思っていたのに……。
今は、リコの命を守る事に比べたらそれが何の意味もないように感じでいる。
俺はそれが不思議で仕方なかった。
父上は他にもいくつかの情報を持っている様子だった。
『リコを見守るだけなら、リコではない他の人間と結ばれるのもひとつの手だ。』
そう父上は笑いながらおっしゃっていた。
俺にはその父上の笑いが、何故かとても恐ろしく感じた。
とにかく住む場所を変えなければならない。
『橘正義』の住むこの場所ではリコを守る事は出来ない。
それにまず、リコが近くにいない。
アコの近くに行けば、必ずリコも近くにいるはずだ。
都合の良い事に、アコの家ではアパート経営をしていた。
アコの住む街に住めればいいと思っていたが、どうせならとそこに住む事にした。
適当にアパートの住人をどかす。
空き部屋を作らない事には俺が住めないからだ。
その際、やつらの記憶も軽く操作する。
昨日の今日で俺が引っ越すのも、人間界からするとおかしな話だと感じたからだ。
姿を消したまま、誰もいなくなった部屋に入る。
窓から海が見えた。
初めて見る海なのに、何故か懐かしく感じた。
俺の住む世界のどこかにもきっとこんな風景があったに違いない。
もうだいぶ今の居場所に落ち着いてしまったからな。
アコの姿を初めて見た時も懐かしさが込み上げたことを思い出す。
そしてアコの母親を見た時もそうだった。
いや、母親の方は懐かしさという感情とはちょっと違った。
震えが襲ったのを覚えている。
アコと出会った時の懐かしさ。
アコの母親に対する奇妙な感情。
そして、リコを見た時の衝撃。
自分の感情にはどういう意味があうのだろうと考える。
今まで俺が住んでた世界では一度もこんなに感情をかき乱されることはなかった。
何かが引っかかる。
俺はそれをひとつずつ整理することにした。
まずは、アコへの懐かしさ…
上でアコの魂に触れた後、アコの姿を見たから懐かしく感じたのだろう。
なにせ、俺にとっては初めての体験だ。
懐かしいという感覚が正しいのかさえ分からない。
アコの母親は…
きっと人間の遺伝というもののおぞましさに身震いしたのだ。
アコと母親は似ている。それが奇妙なのだ。
俺の住む世界では遺伝というものなどはないからだ。
俺の知っている奴らはみな違った顔をしていた。
人間の親子というものは気持ちの悪いほど似ている。
それは、俺たちから見たらとても異様な光景なのだ。
では、リコは…?
とにかく、リコはすべてが特別だった。
どこから湧いてくる感情なのか解らなかったが、守りたいという気持ちが強かった。
その存在がなかったら、何もかもが終わってしまうような感覚。
いや、何も始まらないのか。
今まで感じた事の無い感情で、俺はそれが何なのかは分からなかった。
最初はリコの命が欲しいと感じた。
リコの命、魂、肉体、全てを手に入れたいと。
誰かに奪われるのなら、この俺様が預かろうと思ったのだ。
それは後に、人間の魂を喰らいたいという単純な欲求では無いと気付く。
ただの食欲旺盛な猛獣とは違う感覚だ。
リコが生きてこそ、この世界が廻る。
リコが生きているだけで、俺は満足だった。
俺の頭の中は、リコで満たされる。
ふと、思う。
俺が人間になったところで、リコを守りきれないのではないか?
むしろ、今までのように能力が最大限に使える状態の方が良かったのでは?
段々と不安が押し寄せてくる。
だが、一度人間の身体を貰い受けた俺には、人と結ばれ人間になるか、アコの記憶を取り戻し悪魔に戻るか、そのふたつしかないのだ。
そんなこととは深く考えずに行動を取ってしまった。
こんな風に自分を見失って行動したのはこれが初めてだった。
それほどリコのそばにいたいと思ったのだと、自分なりに納得する。
俺は、人間の身体に入ってからこの世界でいう“15カ月”という期間のうちに人間と結ばれなければ消滅してしまう。
消滅……それは、俺にとって屈辱的なことだ。
無の先には何もない。
この15カ月というのが長いのか短いのかもわからない。
が、早いうちに結果を出すつもりだ。
姿を消したままアコの様子を見に行く。
アコの部屋にはリコもいて、2人で何か話をしていた。
内容は良くわからない単語ばかりで、俺はいちいち記憶した書物の内容を頭の中で呼び起こしていた。
そこで、アコは恋をしていると知る。
恋…恋愛…愛…。
頭の中で自分のリコへの感情がそれに当てはまるのかを考えた。
が、それはしっくりこなかった。
俺のリコに対する感情は、そんな簡単なものではないのだ。
リコが帰った後のアコは、何度も同じような行動を取っていた。
携帯電話と呼ばれるもので何かしている。
アコが入院している間に病室でもよく見かけた光景だ。
しばらく様子を見ていたが、アコは何度も何度も同じ事を繰り返すだけだった。
たまらず俺は外に出る。
アコの部屋を後にした俺は、適当に街を歩いて人間の様子を観察した。
今後必要になるであろう人間としての立ち振る舞いを少しでも吸収しておこうと思ったからだ。
だがやつらの行動は理解出来ず、すぐに人間観察は終わった。
その後、アパートの部屋から見える海へと向かった。
海は静かに俺を迎えてくれた。
ここは心が落ち着く。
そう感じながら波打ち際を歩いた。
俺のつけた足跡が波に消される。
また足跡がついて、また消される。
この繰り返しを何時間見たことだろう。
気が付くともう辺りは明るくなっていた。
今日は引越しをしなければならない。
といっても、特に何かを移動させるわけでもないが。
とにかく、これですべての準備が整う。
あらかじめ相手には記憶を埋め込んである。
ただ挨拶をして、部屋の鍵を貰うだけだ。
俺は再びアコの家へと向かった。
家の前に到着すると、どうやって侵入すればいいのかと悩む。
俺は記憶に詰め込んだ書物の内容を頭に浮かべたが、これといっていい策が得られなかった。
なんとなく昨日観察した人間の様子が頭に浮かぶ。
無駄だと思った人間観察も、それなりに役に立っているらしい。
俺は慣れた様子でインターホンを鳴らした。
チャイムが鳴り響く。
すると、家の中が騒がしくなり、インターホン付近から女性の声がした。
「はーい」
対応しているのはアコの母親だろう。
「お世話になる、橘正義です。ごあいさつも兼ねて鍵を受け取りに来ました。」
俺は笑いをこらえるのに必死だった。
自分のものとは思えないくらい愛想のいい対応だ。
「ああ!ちょっと待っててくださいね。」
パタパタとこちらに向かっている音が聞こえ、ガチャリと扉が開く。
「どうぞ、せっかくだから上がってお茶でも飲んで。」
アコの母親に、奥の部屋へと案内された。
そこにはアコの父親もいた。
あいさつをして、3人で軽く話をする。
目の前にある書類には、橘正義の名前や生年月日等の情報が書かれている。
このとき、初めて自分が『25歳』という年齢だと知る。
俺の本当の年齢はそんなちっぽけな数字ではないと思うと、笑いがこみ上げてきた。
高笑いしそうになるのを必死で抑える。
アコの両親は薄ら笑いを浮かべる俺を見て『新生活は楽しいでしょう』と笑った。
鍵を受け取り、席を立つ。
アコの母親は終始笑顔だった。
母親は笑うとアコに良く似ていて、それがとても奇妙だった。
玄関へ向かう途中、2階から物音がした。
上を見上げるとアコの足が見えた。と、同時に俺の足に何かが当たる。
それは携帯電話と呼ばれるものだった。
拾いながらアコが何度も携帯電話をいじっていたことを思い出す。
手にした携帯電話を見つめていると、アコの声がした。
『ありがとうございます』
俺は持っていた金属の塊を差し出し、顔を上げる。
アコは驚愕のあまり声を出せずに俺を見つめていた。
『ああ、アコ。こちら、アパートに新しく入る、橘正義さんだ。
橘さん、この子は娘のアコです。』
父親が俺たちの紹介をしている間も、アコは驚いた様子で言葉を発しない。
俺と接触するときのアコはいつも間抜けな顔をして驚いている。
それが俺にとって可笑しくてたまらなかった。
「これから、よろしくお願いします」
噴出しそうなのをこらえて、アコにあいさつをした。
アコはそれでも言葉が出てこないらしく、その様子を見て更に可笑しくなった。
これから俺の“人間”としての生活が始まるのだ。