4.十二歳:「伯爵様」としか呼べない
「お前は最近それをよく見ているな」
「お兄さん」
マリオンが眺めていたのは、ロングラム邸エントランスの階段踊り場に飾ってある、大きな肖像画。そこに描かれているのは、美しさを留めた亡き女主人だ。
そしてマリオンに声をかけたのは、微笑を浮かべたフェリウスだった。彼は元々綺麗な顔立ちではあったが、歳を重ねるごとに艶を増していき、今では『艶麗の微笑』と名付けられるほど有名になっていた。
「俺は母さんのことは知らないが、これだけ肖像画が飾ってあると一度くらい話したことがある気になるよ」
フェリウスは《母》を見て苦笑する。肖像画の女性、フェリウスの母親ペトラはミゲルよりも四歳年上で、結婚してから五年後に後継ぎであるフェリウスを産んだ。しかし、産後の肥立ちが悪く彼を抱くこともなく数週間後に亡くなっていた。故にフェリウスが彼女と話すことなどあり得ない話なのである。
しかしペトラの肖像画はマリオンたちが見ている物だけではなく、館内に大小全てでゆうに二十枚は飾ってあった。飾られていない物も含めれば五十枚はあるだろう。古くからの使用人たちは十五年経った今でも亡きペトラを慕っており、肖像画全ての管理が行き届いていて埃一つない状態だった。
「本当、お綺麗な方よね。伯爵様と結婚されて、とても幸せだったでしょうね」
「あー……あのさ、マリオン。伯爵様って呼んでると、いい加減親父のヤツ泣くぞ。お父さんと呼べ、っていつも言ってるだろうが」
「お兄さん。親父という呼び方と、その話し方は……」
「ごめんごめん。告げ口ナシな。ところでマリオン、お前もうすぐ十三だろう。そろそろさ、お前にも好きな相手の一人や二人いるんじゃないのか?」
フェリウスがニヤリと笑う。フェリウスが醸し出す艶にマリオンが心惹かれることはないが、妙齢の女性ならクラリとしてしまうであろう微笑。こういう時のフェリウスは何かを企んでいる時だ、ということをマリオンはこの数年で学んだ。
それにしてもフェリウスの質問では好きな相手が同時期に二人もいるような言い方だ。同時に何人も好きであるというのはいかがなものかと思いながらも、フェリウスの言うように好きな相手がいるマリオンは言葉に詰まった。
初恋を自覚したことを含め、自分の恋に関することは誰に対しても一切口にしてこなかった。ときめく相手のことを口にするのは憚れていたのだ。マリオンが恋する相手は二年以上前から同じ人物で、フェリウスの父であり、自分の養父でもあるミゲルなのだから。使用人にも兄にも、誰にも相談することはできなかった。
マリオンはフェリウスに答えることができずに唇を噛んだ。
「そういう話は女同士の方がいいか」
困り切り、けれど恋の話はする気が無いと一目でわかるマリオンを見てフェリウスは苦笑した。
「なあ、古の宗教について、知っているか?」
「古の? 宗教学と歴史で習った程度なら」
古の宗教は、このライジンク国の前王家と深い繋がりがあった宗教で、その神典を好き勝手に解釈し、虐殺を繰り返していた。その暴政に耐えられなくなった民が新しい王を立てて立ち上がり、悪政をしていた王や神官たちを粛正した。それが約二百年前の出来事だ。その後、新たな神典を作り、今のライジンク国の神殿や教会はそれを規範としている。悪政を働いた王族は途絶えたとされ、旧宗教『古の宗教』はライジンク国では活動禁止となった。しかし実はその信仰はいまだ途絶えてはいない。この国だけではなく信仰者は近隣の国に潜んでいる。
それがマリオンの習った『古の宗教』に関することである。
「古の宗教における、光と闇については?」
「授業では、旧神典の内容は教えてくださいませんでした」
「……そうか」
今度はフェリウスの方が黙り込んでしまった。
フェリウスは今年から学園に通い始めていた。授業で古の宗教についてを習い、わからない部分でもあったのだろうか、とマリオンは思った。マリオンの家庭教師は教会に縁ある人物だったからだ。しかし、フェリウスの知識は既に卒業者と同レベルであることを知っているので、個人的な疑問なのかもしれないと思い直した。すると、
「二人で何を話しているのかな」
いつの間に外出から戻って来ていたのか、ミゲルが玄関口に立って二人を見上げていた。
出会ってから四年が過ぎたが、当時と変わらぬ優しさと厳しさと伴った面持ち。包容力を窺わせる体。マリオンの胸がとくりと鳴る。母親が恋したロングラム伯爵―――
『平民で身分違いだったから』
そう言っていた母親。その言葉はマリオンも身に沁みて感じている。引き取られて養い子とはなっても自分は平民だ。故に社交の場では皆に囁かれている。
『あれが、ロングラム伯爵が引き取った平民の』
『初恋相手の子を養うとは、物好きな』
その言葉を聞くたびにマリオンは『ロングラム家の人間ではない』と痛感する。
―――私は平民。伯爵様は貴族。私は伯爵様の初恋相手の娘であるだけ。
その上、ミゲルに『お父さんと呼んでほしい』と言われるたびに悲しい気持ちになった。彼が自分のことを『娘』だと思っていることを嫌でも思い知らされるからだ。自分はミゲルを恋慕っている。けれど彼が自分に向けているのは家族愛。それでも自分には過剰すぎる愛。
母が恋した相手であり伯爵という地位もある彼に父と呼んでほしいと言われるなど、この上ない光栄なことだということもマリオンはわかっている。けれど、どうしても『父』と呼ぶことはできなかった。ミゲルの望む、『父のように慕うこと』ができずにいて申し訳ないと、常々思っている。
ミゲルの初恋相手だったエイダ。けれど、ミゲルが結婚したのは侯爵家の娘、ペトラだ。貴族の結婚は身分違わぬ方が好ましい、という現実をエイダは直視していた。だからマリオンもそれに倣うために『伯爵様』という呼び名を変えるつもりはなかった。
「おかえりなさいませ、伯爵様」
帰宅の挨拶をしたマリオンに、ミゲルが苦い顔をする。フェリウスはマリオンが『伯爵様』を外さなかったことに気付いて愉快気に笑み、マリオンに続いて父親に帰宅の挨拶をした。
「おかえり、おや……父さん。マリオンとの話は……いや、それよりも父さん。俺は自分を見つけに行くことに決めた」
「お兄さん?」
「ってーことで、今夜ここを出て行くから」
「フェリウス」
「親父もさぁ、早く《自分》を見つけた方が良いぞ」
「フェリウスッ!」
出て行く、という突拍子もない話と親父という呼び名にミゲルが声を荒げる。それをフェリウスは大声で笑いながらかわして自室に向かい、扉を閉ざしてしまった。
夕食の席ではいつものフェリウスに戻っていたため、フェリウスの言葉はミゲルをからかうための戯言とマリオンは思ったのだが、翌朝にはフェリウスの姿は館内のどこにもなかった。彼の部屋には書置きがあり、発言通りに出奔したと知れるやロングラム家は騒然となった。
その中で異様に静かだった人物、それは彼の父親ミゲルだった。心配するでもなく、慌てるでもなく、ただ静かに書斎で何かを考えていた。その姿を見てマリオンは、もしかするとフェリウスはミゲルに館を出て行くことを以前から伝えていたのかもしれない、と思った。
主が消えた部屋のベッドには「出て行くから、みんな元気で」という書置きとともに二通の手紙が残されていた。一通はミゲル宛、もう一通はマリオン宛のものだった。
『マリオン、お前が家族になってくれて本当に良かった。お前に貴族の生活が合うとは思わないが親父のこと、よろしく頼む。離れていても俺達は家族だ』
それだけの文面。恐らくは父であるミゲル宛の手紙も似たような簡潔な内容なのだとマリオンは思っている。
書斎にこもっているミゲルを幾度か訪室して様子を伺い、昼食に近くなった頃にマリオンは一点を見つめて深く考え込んでいるミゲルに声をかけた。
「お兄さんのこと、心配ですね」
マリオンの声に我に返ったミゲルは、瞳に養女を映して静かな溜息を零した。
「マリオン。お前はフェリウスのことを……」
ミゲルはそこまで言って口を噤む。言っていいものかどうか、悩んでいるようだった。
「私がお兄さんを、なんですか?」
「いや、かなり慕っていたようだから、フェリウスがこの家を出てしまい、さぞつらいだろうと」
―――私がお慕いしているのは貴方です。
マリオンにはそう告げてミゲルの言葉を否定することはできない。けれど、確かに慣れ親しんだ人が突然いなくなった寂しさはある。
「お兄さんがいなくなり、寂しいとは思いますけれど、お兄さんは決めたことは必ず最後までやり遂げる人ですから、私が止めたとしても無駄だったでしょう。お辛いのは私ではなく伯爵様の方だと思います」
自分を見つける、というフェリウスの言葉の意味は分からないが、父を置いて、ロングラム家を出て行くほどだ。彼にとって強い拘りがあるのだろう。フェリウスは何事にも器用で賢い人物だ。だからきっと、自分の望む未来を確実につかみ取るだろう。
むしろ問題を抱えているのは残されたマリオンの方だった。今まではフェリウスがいたからミゲルとの狭い空間に耐えられた。しかし不在となった今では、どうしていったらいいのかわからない。
二人きりの長い時間を、どう過ごせばいいのだろう。
困惑と不安を抱えることになった。
マリオン、十三歳直前の出来事だった。
この先、見果てぬと同じ時間枠の話になるので、見果てぬを読み返していたのですが……文章が読みにくいなと、改稿したくなりました。
時間に余裕ないのですぐには無理ですが、いずれはと思います。
こっそり連載にお付き合いいただき、ありがとうございました。