腐敗
廃れきった日の当たらない雑居ビルの一室。そこでパソコンと睨めっこをして1日を潰す。パソコンは何かアクシデントが無い限りは僕の意のままに動いてくれるので苦痛では無い。
だが、女には媚を売り、男には暴言を吐く一般的に言われる嫌な上司という奴の元で働くのにはいささか骨が折れる。毎日飽きもせず、僕に難癖をつけに此方に来ては汚く唾を吐き散らし、大事な資料に染みを作っていく。まあでも職場に女性がいるのならまだマシだと言う人も居るだろう。残念な事に、此処に勤める女性は女性と言えないような粗末なものである。目に優しく無いド派手な服を着て、頭は奇妙なアートのようにうねうねとしている。その割に風が吹いても1ミリと動かない鋼のような頑丈さを持つ。
視界による刺激だけでも勘弁してくれと思うのだが、それらの生き物は自分の獣臭さを隠すかのように大量の香水を1日に何度か振りまく。そいつらはそんな自分に酔いしれているが、此方は堪ったものじゃない。
そもそも、こんなホステスのような成りの生き物が事務仕事をしているのを他では見たことが無い。それでも、今まで何度かまともな女性が面接に来てはいたのだが、その全員がそれ以降姿を見せることは無かった。
僕は辛抱堪らず、何故あんなのをそのまま働かせているのかと上司にやんわりと聞いたが、その答えは個人的趣向だというなんとも腹立たしいものだった。
こんな会社の中に居ては僕の何かが腐敗していく気がする。その腐敗をせき止める為に、仕事終わり毎夜ある場所へ足を運ぶのが習慣になっていた。
車で小一時間程の所にある小さな山。初めに此処へ来た時には道らしい道は無かったが、毎日僕が同じ道を歩いたお陰で、今では細い道が出来ている。傾斜が多い為にその道は蛇のようにうねうねと入り組んではいるが、ここを行けば目的地へ最短距離で辿り着くことができる。生い茂る木々が奥へと誘うようにザワザワと葉を擦り合わせ騒いでいる。その中を懐中電灯で足下を照らしながら一心不乱に歩み続け、およそ5分程。この世のものではないモノ…つまりは幽霊や妖怪などが出て来ても不思議ではない、禍々しい空気を放った古民家が現れる。
足を進めると、奥の方にぽうっと蛍の灯火のような、弱々しい光が灯っている。僕の身体は昨夜と同じように、その光に吸い寄せられるようにするすると向かっていき、そこに居る女性に微笑みかける。
すると縁側に腰かけている彼女が此方に微笑み返してくれる。今では全く見かけなくなった提灯の淡いオレンジ色の灯りに照らされたその笑みはとても幻想的である。
懐中電灯で彼女の首から下を照らすと、濃い紫色に赤い彼岸花が鬱蒼と描かれた着物を着ていた。
「今晩は。今日の着物もとても綺麗だね。」
これは毎夜の習慣だ。この時間はまず僕が彼女の着物を褒めてから始まるのだ。
「あら有難う。今日のは結構お気に入りなのよ。」
明るい声で嬉しそうに言ってから、流れるように細い指を真っ赤な唇に当てながら品定めするかのように僕を見つめる。そして妖艶な笑いを浮かべお決まりの、次の言葉を発する。
「あら、今日は右手が腐りかけているわよ。」
右手、右手か…。今日は何があったかなと頭の中の記憶を引っ張り出す。確か、出勤してずっとパソコンの前に座っていて…。嗚呼、思い出したぞ。なんとか資料を完成させてさあ帰ろうとした瞬間、あの生き物が右手を厭らしく触って呑みに誘ってきたんだっけ。それか。
「悍ましい生き物に右手を触られた。」
「もしかして、またあのメデューサ頭の女かしら?」
毎日のようにあの生き物に何処かしら触られているため、これも毎夜恒例の話題なのだ。
「そうそう。何だか結婚だ婚活だのと喚いていてね、今日は一段ときつい香水を振りまいていた。それがとんでもない強い香りでね、鼻が曲がりそうになったよ。」
「相当きついものを付けてらしたのね。貴方の身体に染み付いてしまうくらいですもの。それに、ほら。」
彼女は微笑みながら僕の鼻を摘んでくいっと捻った。
「少し曲がっていたわよ。」
「本当かい。こりゃ参ったな、これから毎日君に鼻を治して貰わないとならないかもしれん。」
風に靡く髪をそっと捕まえて飛んでいかぬように髪たちを耳にかけながら、僕に微笑みかける。本当に何をしても彼女は美しく、可憐である。これが正真正銘の”女性”というものだ。
何を隠そう僕は彼女に恋愛感情を抱いている。だがそれを言ってしまえばこの関係が崩れてしまう気がして、長いこと踏み止まっている。
僕が此処に通うことになってもう3年が経つ。
彼女は今までずっと変わらずに、毎夜毎夜此処で僕を待ってくれている。それはなんだか夫婦のようであるなと顔が綻んでしまうが、実際の夫婦というものはもっと違うのだろう。1日にたくさんの挨拶を交わし、寝食を共にし、時々酒でも煽りながら愛の言葉を交わすのだろう。
そういえば、2年前にそういうものに憧れると彼女に言ったことがあった。
「夫婦というものは色形は様々だが、どれも愛以上の信頼感で繋がっていると僕は思うんだ。それはとても素敵なものだと、如何しても羨ましく思ってしまう。」
「…そうですね。私は貴方に会うまで此処にずっと独りで居たので、そういうものに憧れを抱いたりもします。ですが、私は此処から離れることが出来ません。…誰がこんな古びた古民家に夫に来てくれるというのでしょう。」
その時、僕が夫になるよと言ってやりたかったのだが、彼女は夫に来て欲しいような台詞を口では言っているものの、表情はそれと反対のものだった。眉間に皺を寄せ、ギリリと唇を噛み締めている。過去に何があったのだろうか。気にはなったものの、何も聞けないまま現在に至る。だが、今日は違う。スーツのポケットに四角い箱があるのをしっかりと確認する。
「ねぇ、今夜は星がとても綺麗なのよ。」
胸が高鳴って集中力が散漫している僕に、ふと上空を指差して彼女が言った。それに誘われるまま顔を上へと持ち上げると、生い茂る木々の少しの隙間からキラキラと輝く星々がこちらを覗いていた。
「本当だ、とても綺麗だ…。」
暫く言葉も交わさずに星を眺めた。その間にも僕の頭の中ではいつ言おうか、やはりやめておこうかという二つの意見がぐるぐると行ったり来たりしていたのだが、そうしている時間が勿体無いと感じて僕は掌をぐっと握り締めて息をひゅっ、と吸い込んだ。
「僕と、生涯を共にしてくれませんか。」
驚いた顔で此方を見た彼女。頬には一筋の涙。
「!?」
涙が伝った皮膚が地割れのようにヒビ割れて、いく。美しい彼女の顔、がボロボロ、と崩れ落ち、て、眼球が零れ、落ち…。
人里離れた山奥の古民家から、男女二人の遺体が発見された。その現場はとても奇妙なもので、捜査に関わった誰しもが眉を潜め頭を痛くした。
縁側の襖にもたれかかり、まるで座っているような姿で佇む女性のミイラ化した死体。身に纏っていたであろう衣服も、彼女の肌同様に茶色く薄汚れていた。その女性のミイラと寄り添うようにして20代前半であろうか…男性の綺麗な遺体があった。死体を綺麗というのは良い表現ではないのだろうが、それは本当に綺麗なものだったのだ。腐敗が全く進んでおらず、傷跡なども無い。血色が無いのだけを除けば、まるで生きているかのように見える。
「おいおい、やめてくれよ…」
この現状だけでも気持ちの悪いのに…と、一人の刑事が嫌悪の表情を浮かべる。その眼は女性の土色のした酷く細い薬指を見つめていた。
キラリと輝く小さな指輪。ミイラ化した女性の薬指にピタリとはまっているそれは、おそらく婚約指輪だと思われた。側にはその指輪が入っていたであろう小さな四角い箱が転がっている。その箱の下で、四つ折りにされたメモが風に揺られパタパタと蠢いていた。
”愛しい君へ。
君の美しい容姿、仕草、声…そのどれもが僕の癒しだ。
君はこんな古い家に夫に来てくれる人などいるのかと物悲しげに僕に言ったけれど、僕は君さえ居てくれればどんな場所でもずっと君の側に居たいと思う。
君に出会ってから長い間言えずにいたが、やっと決心が付いた。僕と生涯を共にしてくれないか。”
その後の検死結果で、女性は40年も前に亡くなっていることがわかった。40年前、彼女の臓器全てが何者かによって取り除かれ、その後何らかの方法をとって急速に乾燥させられ、ミイラにされたのだろうという。
…その現場近くの小さな集落で、ある噂話が囁かれていた。それは40年前、この山奥の何処かに女をミイラ化して人形のように愛でている男が居るというものだった。その男は自分の作り上げたミイラ達を溺愛しており、同時に男性というものを酷く嫌っていて、誰かに自分のコレクションを奪われるのを酷く恐れて山奥に篭っていた、らしい。
40年も前に亡くなり、ミイラ化された女性の側で寄り添っていた男性の遺体…。この男はミイラに愛を捧げたとでも言うのか。だがそれでは仕草や声を愛していたというメモと辻褄が合わない。それに、メモにあった長い間という言葉。例え長い間といっても40年前にはまだ男はこの世に存在してはいないのだ。化かされたか幻覚でも見たのか、はたまた山奥に居たという噂話の男の執念の仕業か…。何れにせよ、男の見たものは現実とは酷くかけ離れているものなのだろう。