相川広夢の場合8
人間の五感が感じた情報により、脳の海馬という部分で電気信号が発生し、海馬ではレセプターから神経細胞に向かって神経伝達物質が送られる。電気信号を繰り返すことで神経伝達物質の量が増加していき、シナプスが結ばれる。これによって結びつきが強くなった情報は側頭葉に転写される。これが記憶である。
忘れたい記憶、つまりその情報を視覚、あるいは聴覚、もしくは両方のいずれかで感知させ、感知した際に反応を見せた部分のシナプスを切断する。切断を行う際には特殊な装置を使用し、装置から電磁波を発することで切断が可能となる。その作業を数回繰り返すことで、全てのシナプスを切断でき、神経伝達物質の発生も抑えることができる。そうすることで記憶を消去することができる。
これが、今藤教授の理論だ。どうやら今藤教授はこの特殊な装置の開発に成功したらしい。
僕は教授指定の申し込み用紙に情報を記入しながら、初めて今藤教授を見た日のことを思い出していた。
やっと、彼女を忘れられます。
教授はそう言っていた。
きっと、今藤教授がこの技術を確立したのには、今藤教授なりの事情があったのだろう。彼にも忘れたい人がいたのだ。
いつか、忘れられたら。
僕の求めたいつかを、彼は叶えてくれる。
ぼう、っと一点を見つめていたら、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこには桜井が立っていた。
「相川さん、こんにちは」
「・・・こんにちは」
ふんわりと笑う桜井に、僕の心臓が音を立てて跳ね上がった。そしてじんわりと温かいものが胸に広がる。
「えっと・・・この前はごめんなさい」
「どうして、相川さんが謝るの?」
桜井が小首を傾げると、艶やかな黒髪が揺れた。
先日、僕が取り乱してしまったことを謝ったつもりだったが、桜井はまったく気にしていないそぶりを見せてくれている。気遣いが上手な女性だと思う。
僕がありがとうございます、と小声で言うと、桜井は可愛らしくはにかんだ。
「そういえば、何か用事があったんですか?すみません、遮っちゃって」
「ううん!謝らないで。えっとね、大したことじゃないんだけど」
恥ずかしそうに睫毛を伏せる桜井に、僕の胸がぎゅうっと、音が聞こえてしまうのではないかと思うほど切なく締まる。
「あのね、良かったら、えっと、一緒にDVD見ない?借りてきたんだけど・・・」
頬をやや桃色に染めて、桜井が左手に持っていたレンタルビデオ店の袋を掲げる。
即答しようとした瞬間、僕は記憶消去技術の被験者申し込み用紙のことを思い出した。なぜか、それを桜井に見られてはいけないと思った。
「桜井さんの部屋でもいいですか?」
「いいよー。あ、もしかして、部屋、汚いの?」
「すみません、そうなんです。普段、滅多にお客さんが来ないもので。部屋の電気とか消したら、すぐ行きますね」
「うん、待ってる」
小さく手を振る桜井に心の中で謝罪しながら、僕はドアをゆっくり閉めた。
書きかけの用紙をじっと見つめる。必要事項の記入はあと数行のみ。ペンを持ち直すと、僅かに手が震えるのを感じた。
バカな。ここまで来て、急に躊躇するというのか。
母を忘れるために、僕は仏壇も遺影も、母にまつわる何もかもをこの部屋に持ち込んでいないのだ。母に関する物があるとしたら、この頭のみ。この海馬に刻まれた、母との記憶のみだ。これさえなくなれば、僕の苦しみはなくなる。
それがなぜ、桜井の顔を見た途端に気持ちが揺らぐのか。
ペンを握っては離し、を繰り返し、僕はため息にも似た深呼吸を行った。
急がなくてもいい。まだ、申し込み期限には余裕があるのだから。
そう言い聞かせるように、僕は申し込み用紙を本棚に隠した。そして、部屋を後にするのだった。