相川広夢の場合7
ある日、何気なく足を運んだ大学の図書館で、僕は友人の長谷部に一枚の紙を見せられた。
「なあ、相川、これ知ってる?」
僕の顔の前に突き付けられたそれには、明朝体で書かれたたくさんの文字が躍っていた。見出しにさらりと目を通し、僕は長谷部の手から強引に紙を奪い取る。
「記憶消去、被験者募集・・・?」
それはA大学から届いた知らせだった。内容としては、記憶を消去する技術の被験者を一般の大学生から募集する、というものだ。
履歴書となぜ記憶を消したいのか、どんな記憶を消したいのかといった旨を書いた紙といった、まるで就職活動の際に使うようなものが必要書類として挙げられている。しかも、書類選考のあとは今藤教授との面接もあるらしい。
僕は必死になって、紙に食らいつくようにして文字を読んだ。
なんだよ、そんなに気になるのかよ、という長谷部の言葉は耳を通り過ぎていくだけで、僕の頭は母のことでいっぱいだった。
母の記憶を消す機会が、初めて訪れたのだ。
「・・・これ、この紙、どこで配っていたの?」
「教務課だよ。でももう無いぜ?みんな面白がって取っていったからな。100枚くらいしかなかったみたいだし。それよりお前、大丈夫かよ。汗すごいぞ」
長谷部に言われて初めて、僕は額にたくさんの汗をかいていることを知った。
「長谷部、これ、俺にくれない?」
「いいけど・・・なんだよ、お前。なんか変だぞ」
「大丈夫、なんともないよ」
「お前がそういうんなら、別にいいけど・・・」
長谷部の目に僕はどのように映っていたのか。
心配そうな長谷部に、僕は必死に取り作った笑顔を見せた。
長谷部と別れて、僕は帰路につく。心臓が痛いくらいに跳ね上がっているのが自分でもわかった。
いつか、こんな日が来るのを待っていたのだ。
記憶を消す技術、それが公表されても、僕には全くかかわりのないものだと思っていて、それは現実味がなかった。しかし、事故で記憶を無くした桜井に会ってから、記憶が無くなるということは非現実的ではないこと知った。
いつか、僕も、母の記憶を消すことができたら。見えないいつかに縋って生きてきた。しかし、ようやくその日が見えたことを知った。
アパートに着いてすぐ、転がるようにして部屋に入った。ぐしゃぐしゃに握ってしまい、更には手汗でくたびれた紙にもう一度目を通す。
記憶消去技術、被験者募集について
記憶消去技術の被験者を一般の大学生より募集する。応募に際して、募集要項と契約内容を別紙にて確認し、下記の書類を送付すること。
・履歴書
・健康診断書
・応募した理由、消去したい記憶の内容(当大学の今藤のページより各自指定の用紙を印刷し、用意)
なお、上記の書類を以って書類審査を行うものとし、合格者は今藤と面接を行うものとする。合格者にのみ電話にて連絡を行い、不合格者についてはメールにて連絡する。
僕は慌てて自前のノートパソコンを開き、同時にプリンターに電源を入れた。A大学のHPにアクセス。教員紹介のページから今藤教授の名前を見つけ、クリック。赤字で書かれた、記憶消去技術の被験者募集についてと記されたリンクをクリック。
僕はなんの迷いもなく指定の用紙をプリンターで印刷した。大げさな音を立てながら僕の未来を明るい白で吐き出すプリンターを眺めながら、僕は桜井のことを思い出していた。
記憶なんて消さなくていいの。
彼女はそう言っていた。
どうやら僕は、彼女の言ったことを実行できそうにない。
身が抉られる痛みから、ようやく解放されるのだ。母を殺したあの女への憎悪も消すことができる。これは僕にとって、二度とないチャンスなのだ。
そう考えているのと同時に、何百人と応募するであろうこの企画にまさか僕が選ばれるとは思ってもいない。期待を大きくすればするほど、そうでなかったときの衝撃が大きくなるからだ。
母と桜井の顔が、交互に頭をよぎった。
その日の夜、僕は夢を見た。母の夢だった。母が僕を見て、微笑んでいる。僕は母に駆け寄り、まるで小学生の頃のようにはしゃいでいた。母の後ろでは、桜井が泣いていた。僕は桜井を一瞥し、まるで何も見ていないように母に笑顔を向けた。
桜井は、ずっと、ずっと声を上げて泣いていた。