相川広夢の場合6
「・・・僕の母は、事故で、死んだんです」
なぜ、まだ会って数回の人にこんなことを言い出したのか、自分でもわからなかった。桜井が隠さずに自分の身の上話をしてきたからか、それとも彼女に気を許し始めていたからか。
桜井に会ってからというもの、僕にはわからないことだらけだ。きっと、僕自身が一番、僕のことをわかっていなかったのだ。母を失ってから僕は自分の感情が、自分の心の在り方がわからなくなってしまった。
母が死んだことを誰にも言わなかった。しかし、新聞の記事や人の噂は怖いもので、気づいたら僕の周りの人は僕を同情を含んだ目で見ていた。たいして喋ったこともない友達が突然優しくしてきたり、ごはんを作りに行こうか、なんて言ってきた女性もいた。
そんなこと、望んでいないのに。
みんなが僕を見ているのではなくて、母を失った男を見ているような気がして、怖かった。
桜井がそうしたように、僕も彼女に感情を吐き出す。
「僕に父はいません。僕は、母と二人でずっと、ずっと暮らしてきた。でも、一年半前、春、に、母は死んだ。僕にはもう誰も、いないんです・・・」
「・・・相川さん」
「僕は怖かった。自分が生きているのか死んでいるのか、わからない毎日でした。ただ、元気になにごともなかったかのように過ごす僕を、遠くで、別の僕が見ているんです。ずっと、そうやって、そうやって、押し殺して、辛い気持ちとか全部、別の僕が引き受けてくれる。そうすると、ああ、可哀想だなって、他人事に思えて」
「相川さん」
「僕は、僕は・・・母を忘れたかった。だって、記憶があったって、もう、母には会えないのに。だったら要らないじゃないですか。僕は・・・僕は、桜井さんが羨ましいです。僕は忘れたい、記憶を消したい」
僕の記憶の中で、母はよく泣いていた。
でも決して、それだけではなかった。僕を撫でてくれた優しい手も、母の作ってくれた料理も、僕を怒った声も、二人で行ったデパートも、幸せも、確かにそこにあったのだ。
しかし、それはもうなくなってしまった。僕は記憶の中でしか母に会えない。記憶の母には触れることもできない。
僕の心の中で、もう一人の僕はよく泣いていた。
母のことを思い出すだけで生まれる、死にたいとすら思える痛みをもう一人の僕が引き受けてくれていた。だから僕は泣けなかった。
しかし、やっと、今、もう一人の僕が僕と一つになった気がする。僕はこの痛みを、心にできた膿をずっと誰かに吐き出したかったのだ。
「僕はこれからもこの痛みをいなければならないのですか。だったら忘れたっていいじゃないですか。どうして、記憶を消せないんですか・・・」
「相川さん!」
突然、桜井に腕を掴まれ、僕は我に返る。桜井の細い指は僕の固く握られた拳をそっと撫でた。拳をゆっくり開けば、手のひらに爪が刺さっていたのか、血が滲んでいる。自分でも気づかないうちに力を込め過ぎていたようだ。
「相川さん」
「す、すみません、僕、あの・・・」
もう片方の腕で僕は自分の目元を擦った。
「記憶なんて消さなくていいの」
「え・・・」
桜井の言葉の意味がよく分からず、僕は顔を上げて彼女を見た。桜井は唇を固く結び、潤んだ瞳で、でもしっかりとしたまなざしで僕を見据えていた。
「消しちゃだめなんだよ。たとえ嫌な記憶でも、傷でも、なにがあっても、記憶は消しちゃだめ」
桜井の声は震えていた。
「今は私が何を言ってるのか、わからないかもしれない。でもね、記憶が消えた人間からしたら、そんなこと言ってほしくないの。羨ましいだなんて、そんな・・・」
「・・・ごめんなさい」
そうだ、彼女は記憶が消えたことに怯えているのだ。その相手に対して羨ましいだなんて、軽率な発言をしてしまった。
「ごめんなさい。こんなこと、桜井さんに言う話ではなかったですよね・・・」
「ううん、そういうことじゃないよ。相川さんが話してくれて嬉しかった。私、嬉しかったよ」
桜井は目を細めて、柔らかく微笑んだ。
感情的になったことも、彼女を傷つける発言をしたことも、全てを許してくれるような優しい笑みだ。
僕はまた目頭が熱くなるのを感じた。
「・・・桜井さんが初めてです」
「え?」
「僕が、こんな話をしたのは、桜井さんが初めてなんです」
桜井は少し驚いたように目を見開いた後、ふう、と小さなため息を一つつき、また口を開いた。
「相川さん、あのね。もしかして、私、昔、相川さんに会ったことあるかな」
「・・・えっと、すみません、僕は記憶にないです」
「そっかぁ」
桜井はあからさまに肩を落とし、その後再び笑顔を見せた。
「なんだろ、なんかね、さっき相川さんが泣いていたのを見てね、急になんとかしなきゃって気持ちになった。あと、なんだろ、ごめんなさいって気持ちも湧いてきた。おかしいよね。初めて会うのにね」
その言葉に言い知れぬ違和感があったものの、僕はなんだか心が温かくなるのを感じていた。
このときから少しずつ、でも確かに僕は桜井に惹かれていた。