相川広夢の場合5
彼女の部屋に到着し、僕は再び彼女の部屋に足を踏み入れた。前は段ボールが無造作に積まれていたが今はその様子はなく、茶色と白で統一されているが柔らかい空気のある部屋となっていた。
「じゃあ、私ささっと作っちゃうから、ゆっくりしていてね」
「ありがとうございます」
こげ茶色のテーブルに、黒猫がプリントされたマグカップに入った紅茶が置かれる。遠慮なくそれに口をつけながら、僕は視線だけで部屋を見回した。
読書が趣味だと言っていた通り部屋にはやや大きめの本棚が設置されていて、所せましと本が挟まっていた。最上段の左隅に彼女の心を乱す原因となったアルバムが数冊あるのも確認できた。あとはテーブル、棚、清潔感のあるベッド、冷蔵庫などの家電が置かれているだけの実にシンプルな部屋である。女の子の部屋には絶対あるのだとばかり思っていたぬいぐるみなどの類は一つも見当たらない。
このアパートはワンルームであるため、僕の座っている位置から料理をする彼女の横顔が見える。どことなく嬉しそうな表情をした彼女は少しだけおぼつかない手つきでにんじんを切っていた。包丁がまな板に当たる音を聞いたのは久しぶりで、例えそれがリズミカルではなく不慣れさがにじみ出ている音であっても、僕は懐かしい気持ちで胸がいっぱいだった。
小一時間くらいかけて、桜井はシチューとサラダを作ってくれた。不揃いな形の野菜であったが味はとてもおいしく、久しぶりに人の手料理を食べた僕は泣きそうなくらい嬉しかった。
「おいしいです、とても、とても」
せわしなくスプーンを口に運ぶ僕を見ながら桜井は、ありがとうと繰り返しお礼を言う。僕もお礼を言うもんだから、二人でひたすらありがとうを言い合っていて、それがなんだか滑稽で顔を見合わせて笑った。
食後、すぐ帰ろうと思ったのだが桜井と一緒にいるのが心地よくて、僕は隣にある寂しい自分の部屋に帰るのが嫌になった。もしかしたら、ただ単に人恋しくなっていただけかもしれないが、それでも桜井は僕にとって安心できる人に分類されていた。というのも、彼女は一人っ子だというわりには面倒見が良い。僕の様子をよく見ていて、ちょうど良いタイミングでお茶を注いでくれたり、おかわりを聞いてくれたりと、ほどよい世話焼きであった。きっと、そんな性格だからまともな物を食べていない僕に食事を作ってくれようと思ったのだろう。そういう一つ一つの彼女の思いやりが、とてもよく母に似ていた。
二人でテレビを見る。たまに喋る。紅茶を啜る。また、喋る。
そんなことの繰り返しが、とても暖かかった。
紅茶の最後の一口を飲み干したとき、唐突に桜井は言った。
「相川さんって、出身、どこなの?」
「都内ですよ。・・・ここからそう遠くもないところです」
僕は前に母と住んでいたアパートを思い出していた。もうそのアパートに僕と母が住んでいた痕跡はなく、実家と呼べるものは僕にはない。
「そっか。私の実家は山梨県なんだ。東京のとなりなのに、結構田舎なの。生まれも育ちも都会って、なんかおしゃれだね」
「そうなんですか。なんでまたわざわざ東京に来たんですか?」
「あー、お母さんの知り合いがね、こっちに住んでいるからかな」
彼女は手のひらに自分の頬を押し当てて、小首を傾げながら、語尾にクエスチョンマークが見える話し方をした。
あまり詮索しないほうがいいのかもしれない。
話題を変えようと必死に言葉を探していると、彼女の方から自身の話を振り始めた。
「実はね、お母さん、入院しているの。一緒に暮らせない状況なんだ」
僕の脳裏に、病院の広い部屋で包帯で真っ白になった母が浮かび上がる。喉を絞められるような感覚が首から広がった。
僕の母の話をしているわけではない、それはわかっていた。しかし、どうしても似たような状況の話を聞くと、母のことが頭に浮かび上がってくるのだ。
苦しかった。これ以上、桜井の母の話を聞きたいとは思えなかった。僕にとって、病院のあの無色さも、消毒液の匂いも、全て忘れたい記憶なのだ。
ギリ、と奥歯に力を入れた。桜井が話を続けるようであれば、止めようとも思った。しかし、桜井の口から出る言葉は、僕を脱力させるものであった。
「精神科に入院しているの。えっと・・・私に会うと、泣き叫んじゃってどうにもならなくなるんだ。ごめんね、ごめんね、って、すごく泣くの。私の事故のこと、気にしているみたいでね」
彼女は軽く言っていたが、僕にとっては衝撃的な話だった。なんて返答していいのかわからず、言葉に詰まる。
黙っている僕に対して、彼女は話を続けた。それはまるで、誰かに話すと彼女の重荷が取れるかのようであると同時に、そうすることで彼女自身が自分のことに対して確認をしているようでもあった。
「・・・私ね、車に轢かれたんだって。頭を強く打ってね、一年くらい、意識が戻らなかったみたい。なんか、気づいたら病院のベッドの上にいて。おかしいって思われるかもしれないけど、轢かれる瞬間とか、全く覚えてないの」
「・・・」
「人の脳って怖いよね。事故の後遺症、体に出ないのに、頭に出ちゃった。ほんとは、記憶なんて無くしたくなかった・・・。でも、生きているだけでいいって思わなきゃ、だめだよね」
強張った、無理に作った笑顔を桜井は僕に向ける。
生きているだけでいい。
その言葉に、僕は目頭が熱くなるのを感じた。不思議だった。母の葬儀は終わってからは一度も泣けなくて、一生分の涙を枯らしてしまったと思っていたのに、桜井の言葉を聞いて自然と涙が溢れてきたのだ。
それがなんの涙かはわからなかった。
僕は顔を下に向け、桜井に僕の顔が見られないようにした。しかし、目からは熱い雫が止めどなく溢れ、履いていたジーンズにたくさんの染みができた。
僕は唇も、声も、手も、全てを震わせながら、絞り出すように言った。
「・・・僕の母は、事故で、死んだんです」