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いつかの日に溺れる  作者: マーシャ
記憶を消したい男
3/8

相川広夢の場合3

「桜井さん、入ります」


 引っ越してきたばかりで片づけが済んでいないのだろう。入り口に積まれた段ボールを避けると、家具だけが綺麗に配置された八畳のワンルームの中心に彼女を見つけた。

 初対面のときに真っ先に目に留まった彼女の美しい黒髪が顔を覆っており、表情は見えない。華奢な体をした桜井はまるで小さな子供のようにも見えた。

 その姿は、やはり母と重なった。僕の目には不思議と手入れされなくなった母の固く黒い髪が見えていた。


「桜井さん、大丈夫ですか」


 桜井の様子を見る限り泥棒でも怪我でも病気でもなさそうだ。

 そっと、まるで綿毛に触れるようにして桜井の肩に手を伸ばす。


「桜井さん、なにか、あったんですか」


 僕の手が桜井の肩に触れた瞬間、彼女は反射的に僕に顔を向けた。その瞳は充血して真っ赤になっており、白い頬は水を掛けられたように濡れている。


「あ、あ、あいかわ、さん」


「すみません、何かあったのかと思って勝手に入りました。大丈夫ですか?」


 桜井の手元に視線を落とすと、可愛らしい子供が映った写真があった。ほかにも周りに数冊のアルバムと写真が散乱している。


「す、すみません、私、取り乱しちゃって・・・」


 桜井は震える手で必死に周りに散らばった写真をかき集めた。その写真の上や床にはポタポタと絶え間なく涙が垂れている。

 僕は何もできず、ただ彼女の横で呆然と立ち尽くしていた。

 こんなときになんて言えばいいのか。何が桜井をここまで泣かせているのか。

 言葉を発しようと唇を動かし、言いあぐねて閉じて、を繰り返していると、意外にも桜井の方から僕に話しかけてきた。


「すみません、すみません、驚きましたよね、ご迷惑をかけました、私は大丈夫ですから・・・」


「・・・その写真の子供、桜井さんですか?」


 彼女の指紋だらけですっかり汚れている写真を見て、僕は尋ねた。ピースをしてこちらに笑顔を向けている小さな女の子はどことなく桜井に似ていたからだ。なぜ自分でもその言葉をかけたのかよく分からなかったが、それがこの冷えきって固まった空気をほぐすのに一番無難だと思ったからに違いない。

 しかし、それは大きな間違いであったことを、僕はこの後の桜井の言葉で知ることとなる。


「ああ・・・はい、多分、私だと思います」


「・・・え?」


「たぶん、私です。母が、これは私だと言っているので、私なんだと思います」


 桜井の言葉がうまく飲み込めず体を強張らせる僕に、桜井は苦しそうな笑顔を向けた。


「私、記憶がないんです」


「え・・・」


 僕の脳裏に今朝のニュースが流れる。

 記憶を消す技術。

 もしかして、彼女は・・・。


「びっくりしますよね、こんな話。突然引っ越してきたばかりの隣人に、そんなこと言われてもって思いますよね」


 無理に明るく取り繕うとする桜井の表情は、見ているこちらの胸が張り裂けそうなほど痛々しくて、僕は思わず顔を逸らした。


「い、いえ・・・その、こんなこと聞くの、申し訳ないんですけど、どうかされたんですか?」


 口のなかがカラカラに乾く。僕の頭の中は今朝のニュースと、母の姿でいっぱいだった。

 馬鹿げた妄想であることは百も承知だ。記憶を消す技術が確立されたところで、何の変哲もない彼女が被験者に選ばれる理由もない。そもそも、記憶を消す技術って何だ?本当にそんなものができたのか?日本国民全員を嵌めるドッキリか何かじゃないのか?

 頭が沸騰しそうなほど熱くなる。

 僕は、桜井の次の言葉を待った。


「実は、えっと、私、つい最近まで入院していたんです。交通事故に会いまして。昏睡状態まで陥ったらしいんです」


「・・・そうだったんですか」


 すぅ、と火照った顔が冷えていくのが分かった。

 僕の妄想はやはり妄想に過ぎなかったようだ。彼女が被験者であったなんて、都合よく決めつけ過ぎてしまった。

 頭の熱は引いたが、今度は体が震えそうなほど胸が騒いだ。

 交通事故、という言葉はいまだに僕の体に不調を起こさせるようだ。


「事故のときに頭を強く打ったみたいで・・・。事故に会うまでの記憶があやふやになってしまったんです。それ以来、その・・・記憶がない部分にまつわる物とか、そういうこととかを知ったりすると、取り乱してしまって。申し訳ないです」


「そうだったんですか。すみません、込み入ったことを聞いてしまいまして」


「いえ・・・」


 桜井はアルバムや写真を乱雑に段ボールに入れた。ピンク色のお花が散るアルバムの表紙を見たとき、僕は違和感を覚えた。子供の頃のアルバムにしては、やけにアルバムが綺麗だったのだ。ひとつの汚れもないそれは、新品のようにも見えた。


「こんな、夜遅くに本当にすみませんでした。片づけようと思ったらアルバムが出てきて。それを見てたら、急に色々なことを考えてしまったんです」


「落ち着いたみたいで、なによりです」


 帰ろうとする僕に、桜井は唇を小さく動かして言った。


「記憶がなくなるって、すごく、すごく怖いことなんですよ」


 その日以降、しばらく桜井と会うことはなかった。


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